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次の日、登校した僕に絡んできた相手は親友兼悪友の大樹だった。教室に入った瞬間に僕に視線が集中した。昨日の話は閉鎖的な空間ではあっという間に広がってしまったようだ。
「おーっす! 親友!」
「うるさい」
ひでー、とけらけら笑う姿を無視して自分の席に着いた。ちらちらと向けられる視線や、こちらに聞き耳をたてられている状態がわかる以上どうしろと。誇らしげに女の子を助けたのだ! と胸を張ればいいのだろうが生憎とすでにくぎを刺された後である。
「噂になってんぜー。超絶美少女だったって病院関係からの噂と、緊急車両が現場に大集合。娯楽のない学校生活には格好の餌食だろ」
救急車を呼び、自分も乗り込んで病院で検査を受けた。いちおう二次溺死という可能性も捨てきれないからだ。結果は良好。その日のうちに帰宅を許されたのも、普段から体を鍛えていた証拠である。
その迎えにこっぴどく叱られて、連鎖的に朝から明日菜による地味な嫌がらせを受けて僕のライフポイントはゼロに近い。面倒な気分が突き抜けているのだ。
実際、身元不明の女の子が海でおぼれていました、というのは、閉ざされた空間ではかなりの事件だ。出動する日がないのではないかと疑われていた救急車が走り回る姿を目にすればあっという間に噂が広がるのは当然だろう。
念のため、ということで軽く事情聴取をされたが、助けに入った僕に対してよくやったという声はもちろんあった。人命救助をとがめられる理由はない。同時に無謀なことをしでかした、と怒りの拳骨が落ちてきた。ちなみに担当してくれた警察官が明日菜の父親。察してくれ。久しぶりの休暇だった父親を引っ張り出す羽目になった元凶が自分の幼馴染。おかげで朝食はご飯と梅干だった。用意されているだけましというものである。昼食は潔く購買に駆けこむつもりである。
「そりゃそうでしょ。美少女が海でおぼれていてこれを助ける! これで事件じゃなかったら世の中の事件なんて、クソだね!」
美少女を強調するところにお前の思惑が透けてみえる、と白けた視線を向けたが何のその。歩くスピーカーが隣にいれば、当然、助けるために海に飛び込んだ、ということでそれなりの扱いを受けた。気恥ずかしい。
学校で行っている授業も無駄にはならないのだと今回は感謝するばかりだ。
「で、メルアド交換した? ってかさ、見た? 見た?」
「阿呆。するわけがないだろ。僕が帰るときにもまだ気絶してたし」
で、何を見たのだと聞きたいのだ。こちとら必死だったのだ。何を見たのかと聞かれれば、ばっちり、とは言わないでおこう。
お調子者のこいつが次に何を言い出すか、なんとなく予想ができてしまう。
「助けられた美少女とひと夏の甘い恋に落ちる! 王道な展開でしょコレ!」
「はいはい」
「亮ちゃんがあんまり女の子に興味がないから俺は心配していたけど神様は見捨ててなかったね! とんでも美少女とフラグ立てるなんてやるね親友イェア!」
「うるさい」
自分の腕を抱きしめてくねくねと興奮している大樹を無視する。顔は悪くないのに女子からモテないわけだ。残念なイケメンとは大樹のことを言うに違いない。あまり構いすぎると図に乗るから適度な無視が大切だ。
女の子を助けたのは事実である。そしてその女の子がとてもかわいくて、とても好みだったことも事実だ。認めよう。
その子を見たのは本当に一瞬すぎる。海の中で一度、そして浜辺にあがってから一度だ。だが頬に張り付いた髪の毛と真っ白な身体を思い出すと、やはり自分も男だな、としみじみ実感する。
だが、そこで立ち止まって考えてほしい。小説や映画にあるような目くるめく展開がそこにあるというのか。いいや、ない。あるはずがない。
たとえばそういう展開になりえるのは、不思議な力を持った主人公だったり、勇者だったり英雄だったりするものだ。そして僕はそのどれでもない。
「怪我はどうなの?」
「ないよ」
大樹とは違う高い声が僕に向けられた。つかつかと机まで近づいてきて尋ねる声音はきりりとしている。どうやら機嫌は直ったのか、普段どおりに結い上げた黒髪がふわりと揺れる。
「あんたじゃなくて、その溺れてた子。なかったの?」
「ひでえ! 幼馴染の亮ちゃんへの気遣いはなし! ひどいけどのその冷たさが素敵です! 明日菜さん!」
「なかったんじゃないか。あのあと警察と救急車がきてごった返してたし、血も流れてなかった」
さりげなく大樹を無視して会話を進めた。構っているといつまでたっても話が進まないからな。
「血も? 海でおぼれていたんでしょ」
助けた僕が言うのだから間違いない。湾に入る、ちょうど境目だった。波の間に揺れる人なんて見落としやすいのだ。もし、海に転落したその場面を見ていなければ、おそらくそのままおぼれ死んでいたに違いない。
「……そのあたりは親父さんに聞いた方が早いんじゃないか」
「まだ家に帰ってないわよ。昨日はその女の子のおかげでてんやわんやだったみたいだもの」
「お疲れー。久しぶりにとれた休日だって言ってたのにねー」
「なんで藤巻くんがそれを覚えているのよ」
「女の子の予定はなるべく頭に入れるようにしているであります!」
本当にそんなんだからモテないんだと思うぞ、という感想は飲み込んだ。はあ、とため息を吐いて、明日菜は大樹を無視すると決めたらしい。
「詳しいことなんてまだほとんどわかっちゃいないし、ニュースにだって流れてないけど、気になるじゃない」
「田舎町のことだから当然っしょー」
「……気になるか?」
娯楽がない小さな町だからこそ、たまたま起きた事件が謎めいていて興味があるのだろうか。口から口へと伝わっていけば一日もあればほぼ全員に知れ渡るような小さな町だしな、と納得しかけた。
「と、いうわけで、放課後は病院に行くわよ」
「……はあ?」
どこをどうしたらそうなるのだ。明日菜の顔を見たがどうにも本気だ。ああ、もしかして病院に詰めているかもしれない父親に会いたいとか? まさかな。
「亮だったら助けたから様子見に来たって言って病室に通してもらえるでしょ」
「……そんなことはないだろ」
「明日菜ちゃんとデート! 亮ちゃん、ついに幼馴染とのフラグを確立させたのねってげふ!」
うるさい大樹を黙らせた後に明日菜を注意深く見る。これ以上深入りするつもりはなかった。
滅多にない体験にわくわくしなかった、といえば嘘になる。だが、もう一度病院へ行く? まさしくその少女に興味がありますと暴露しにいくようなものではないか。
明日菜が僕を連れ出すということは、行先も決まってくる。げんなりしてしまうのは仕方ない。
「いい? 放課後だからね」
明日菜からの頼みごとなんて滅多にない。
しぶしぶではあるが、病院行きを了承した。少なからず、助けた少女をもう一度見てみたいという欲望があったことは、認めよう。
***
武蔵野市に病院はひとつしかない。地域全般をカバーする市民病院がひとつ。あとは個人がほそぼそと経営している病院ばかりだから、風邪や小さな怪我以外はたいていが市民病院へと行く。
今回の女の子といちおう助けた側である僕も市民病院へと搬送された。自律呼吸もしていたし、体温もあった。
だが溺れていた上に現在は意識不明だ。何か事情がある、と考えると個室も完備している病院へと行くことになるのは当然だった。
「あら、亮ちゃん、いらっしゃい」
受付のお姉さんにぺこりと頭を下げる。僕たちの通う高校がなければ若い者が集まらないような小さな町だ。幼い頃を知られていることも多いが、特に僕に関しては顔を知っている人が多いのだ。
「やっぱり亮を連れてきて正解ね」
「顔パス顔パス」
「……人を通行券みたいに利用しやがって……。あと大樹はなんでついてきてるんだよ」
「そりゃあ心の親友たる亮ちゃんの初デートを間近で実況中継するためにいててててて」
素直に言いすぎだ。そこか大樹のいいところでもあるのだが、実況なんてさせてたまるか。だいたい、僕と明日菜は幼馴染という関係だが、それ以上はない。お互いわかりきっていることだ。
「亮ちゃん、昨日女の子助けたんだよね?」
「そう。噂になってる?」
「そりゃあもう。亮ちゃんヒーロー扱いされてるんだから」
「ヒーローって大げさな」
「大げさにもなるわよ、だって」
ひそりと受付のお姉さんは声を潜めた。
「亮ちゃんが助けた女の子、今朝目が覚めたらしいんだけどね、どうやら喋れないし、記憶もないみたいなんだもの。どこのドラマ? って感じよね」
どこのドラマ? 全く持ってそのとおり!
海に落ちた女の子(美少女)がまさかの記憶喪失なんてセオリーどおり過ぎて笑えてくるレベルだ。笑えないが。
「あんまり大きな声で言えないんだけどね、警察もどう扱っていいか困ってるんじゃないかしら」
「ちょっと亮ちゃん、この展開どう思います?」
調子に乗った大樹にまるでレポーターのように尋ねられる。
「……まあ、第一発見者ってくらいの僕に関係はないよ。第一村人発見! みたいな」
「おもしろくなーい!」
面白くてたまるか、というのが正直な感想だったが、意識が戻ったのか、と胸をなでおろした。せっかく助けたのだから助かってほしいと思う。決して自分好みの美少女だったからというわけではない。
「しゃべれないし記憶もないって相当じゃない? どうするの?」
「警察で保護してもらうくらいしかないんじゃない。身元不明の家出人とか」
閑散としたロビーで立ち話をしていた僕たちの隣で、病棟の看護士が何人か降りてきた。誰かを探しているようだ。
「……どうしたんだろう」
あんまり慌てているようでその中に見知った顔があったから声をかける。
「あのね、一人患者さんがいなくなっちゃって」
いなくなった? 部屋から?
動き回れる患者がどこにいるかなんてわからなくても仕方ないのではないか、という当然の疑問をぶつければ、なんという偶然なのか渦中の人物が姿を消したのだと言う。
「さっきまで部屋でおとなしく眠っていたのよ。それが、ほんの五分も目を離さなかった隙にいなくなってて」
慌てて病棟その他を探したが姿が見えない。衰弱した様子はなかったが、少なくともしゃべることができず、記憶もない状態の女の子がふらふらしているのはいただけない。
女の子の姿を確認したことがある僕も乗りかかった船である。探す手伝いを申し出た。
決して、その女の子に再び会う口実になるという下心があったわけではないと追記しておく。