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たとえば、日常がとてもつまらないものだったら、非日常に胸を躍らせても仕方ない。常に僕らは刺激を欲している。
青春とはそういうものだ、と僕は青い空を見上げて思った。
たとえば、ヒーローになりたいという願望を誰しも一度は持つのではないか。成長していく過程で自分が器でないと気付き、またヒーローになるだけの事件が現実に起きるはずがないと気付き、一人また一人と願望を失っていく。
もしくは、願望を心の奥底に沈めてしまう。
この世界ではヒーローになることは難しい。だが正義の味方をきどることはできる。
固まった体をぐっと伸ばす。直射日光の下で眠ると目がちかちかする。この適度な暖かさが眠気を誘うのだ。僕が悪いのではない。
人の気配を感じて目を開ければそこには予想通りの人物がいた。
「さぼり?」
ごろりとコンクリートに横になっている僕の姿を見て明日菜は眉をしかめた。長い黒髪をぴっちりと結い上げる優等生様にとって、僕の姿は許しがたいものなのだろう。わかっている。
「さぼり」
「開き直ればいいと思ってない?」
彼女が迎えに来たということは、午後の授業は終わりを告げたらしい。親友兼悪友の姿もあるかと思いきや、さまよわせた視線の先には誰もいない。
「大樹は?」
「藤巻くんなら、私にここに行くようにって言って笑ってたわ」
「相変わらずあいつの行動はよくわからん」
「私にとっては幼馴染のあんたの行動も未だよくわからないわよ」
ため息ひとつで隣に座る明日菜に、にしし、と笑った。
「で、今日の理由は?」
「生物概論に飽きたから」
「……はあ」
ため息を重ねた明日菜もそう思っていたに違いない。
この世界は、日々、ゆっくりと壊れていく。そうとしか思えない状況が重なっていく日々で、いったいどれほど希望を失わずにいられるのだろうか。
「目の前にある、やるべきことをやらずにどうするのよ」
「そういうのは明日菜ががんばればいいよ」
論点はそこではない、と明日菜は不満そうに頬を膨らませるが僕はもう一度にししと笑った。
「大丈夫だよ。明日はちゃんとする」
「逃げるな、馬鹿」
「逃げてないよ。ちょっとしたリフレッシュ」
「リフレッシュは努力をした人がするものよ」
耳に痛い言葉を右から左に流す。
僕と明日菜がのんびりと過ごしていると、けたたましいサイレンの音が校舎に響き渡った。
《 第三種防衛線に不審な物体を感知。速やかに迎撃態勢へ移行せよ 》
顔を合わせる。
どうやら軽口をたたいている暇はないようだった。
「第三種なら巡回チームで対応するだろ」
「だからって招集から逃げられるわけはないでしょ」
さっさと行くわよ、と先ほどと打って変わって明日菜は僕の首根っこをつかんで歩き出す。どこからその怪力が来たと突っ込んではならない。僕の明日がなくなってしまう。
世界はゆっくりと壊れていく。
それは今から三十年ほど前に海から災厄がやってきたことが事の発端だった。
***
海、といえば母なる海。生物の根源たる海……古来より女性に例えられる例があった。もちろん、とある神話では男性だったりするのは知っている。女性のほうがちょっと気分がいいというだけだ。
生命を育み恵みをもたらす慈悲深い側面と、嵐によって人の命を軽く奪ってしまえる残酷な側面を持っているわけなのだが、命を飲み込んでいるという点においてはどちらも同じなのかもしれない。
地球上において文明が開化し、人間が栄華を極めていた、それをあざ笑うかのように彼女たちは海から現れた。
上半身が人間で下半身は魚。美しい、物語の人魚のような姿をしたそれは、れっきとした化け物だった。
人間のようで人間ではない群れは海面を埋め尽くし、人間たちへと襲い掛かった。最初の被害者は漁船で海へと出ていた漁師だったか。次々と増えていく行方不明者の捜索途中で発見された群れを、最初は奇跡だともてはやした。だがそんな甘いものではなかったのだと、捕獲するために向かった人間が次々と命を落とすことで事態は急変していった。
陸地へ上がれば彼女らも追って来れない。幸いにも初期の彼女たちには知恵がなく、多大な犠牲は出たものの化け物たちは鎮圧することができたのだ。どうしていきなり彼女たちが現れたのかは未だ解明できていない。
第一期攻勢と呼ばれるこの事件において、初期こそ情報の錯綜により人類側は被害を被ったが、大半の彼女たちを退けることができた。
しかし、本当の恐怖はここからだった。
世界各地の海において、巨大な二十メートルはあろうかと思われる巨大な卵が出現した。透明な粘膜に覆われた卵は、第一期攻勢後に海上に突如として出現し、その周辺をまるで巣を守る働き蜂のように彼女たちがゆるりと泳ぐようになった。
誰が考えてもぴんとくるだろう。その卵こそ彼女たちが次代を生み出すために必要なもの。当然ながら人類側にそれを捨てておく理由はない。ミサイルその他、ありとあらゆる兵器が試されることになったの だが、結論から言ってその卵を排除することはできなかった。
どういう理由かわからないが傷一つつくことなく、大洋にひとつずつ産み落とされた卵は孵化するその瞬間まで命を守り続けた。
卵がはじけた瞬間に、第二期攻勢と呼ばれる事件が始まった。それは、海中での動きがメインだった彼女たちが陸でも動けるようになったという、まさしく悪夢としかいいようがない出来事だったのだ。
彼女たちは人間の感覚から、非常に美しい外見をしていた。人間の肉を食らうという事実を一瞬でも忘れさせてしまうほどに。
それゆえ、誰が言い始めたのか、彼女たちは《セイレーン》と呼ばれていた。
そして話は現在に戻る。
現在は激戦と言われた第二期攻勢が収束し、新たに出現したセイレーンの討伐が終わった。
だが満身創痍で彼女らを追い返した人類側をあざ笑うかのように、今度は合計七個もの卵が確認されている。そして残念ながら確認されてから今日まで、卵の破壊ができたというニュースは聞かない。
「現在は休眠期と呼ばれる、卵が孵るまでのつかの間の平和な時間ってね」
手慣れた仕草で僕は出撃用意をする。
人類とて、いたずらに時間を過ごしていたわけではない。海に脅威があることが判明した以上、対策を怠るわけにはいかなかった。そのため、子どもは幼いうちから銃の扱いを覚えるし、海に引きずり込まれれば一巻の終わりとはいえ、泳ぎに関しても指導を受ける。
セイレーンの生態は謎に包まれている。人間以外に捕食しないというのも妙な話だが、本当に人間のみを食糧として捕捉しているならば、天敵という言葉がふさわしいだろう。
反面、人間が滅びてしまえば滅びてしまうような脆弱な生き物かもしれないのだが。
「まあ、いいさ」
すべきこと、といえば、海から時折やってくる異形たちを倒すことだけだ。
僕は待機命令が出ているメンバーたちと顔をあわせ、続報を待っていた。
***
その日は無事に何事もなく帰宅することができた。防衛線に触れたのは天敵であるセイレーンではなく、むしろかつて人間だったものの残骸だった。だからこそ防衛線まで流れ着いたのだろう。神妙に手を合わせるのはそれが僕の明日の姿ではないと言い切れないからだ。
学生の身分でありながら基礎教育とある程度の哨戒任務をこなしている日々なのだが、実際にセイレーンと遭遇したことは、まだない。間近でそれを見て生き残ったものは少なく、セイレーンの映像や画像はあまり出回っていないのだ。これだけ技術が発展しているのになぜだ、という素朴な疑問には彼女たちがセイレーンと呼ばれる由縁が語られる。
セイレーンたちは歌い、その声は人間の耳には聞こえないが細かな振動となって機械を狂わせるのだという。まさしく悪魔の歌声だ。
さて、僕がそんなことを考えながら帰路に立っているのは、普段ならばいっしょに帰るはずの幼馴染に置いてけぼりを食らったからだ。
「明日菜は今日は親父さんが帰ってくる日か……」
高校生ぐらいになると女の子は父親を避けはじめるというが、僕の幼馴染には当てはまらない。ファザコンとまではいかないが、男手ひとつで育てあげた父親のことを好いているのは間違いない。
明日あたりは表情に出さないだろうがウキウキだろう。そして僕はあっけなくポイされて一人さびしく帰宅しているのだが、時に一人になる時間は必要だ。
僕と明日菜がどんな関係かというと、居心地のいい幼馴染という関係である、と答えるのが的確だ。ほかに言いようがない。
僕の世界において、別に取り立てて女の子と仲良くなりたいという願望はない。ヒーローになりたかった、という願望はあった。いや、嘘です。ごめんなさい。ヒーローになったら女の子と仲良くなれると考えたことはある。一度くらい夢を見ても許される。僕はそう信じている。
それができるかできないか、と考えた際に、僕は早々とできないという結論に達した。
そもそもヒーローになるとは危険と隣り合わせである、ということだ。
僕たちの生きている世界にある危険、それはまさしくセイレーンに直結するが、彼女たちに生きたままバリバリ食べられたいわけではない。遠慮する。遠慮したい。ということは、セイレーンに直結しない生き方をできるだけ選ぶべきなのだ。
海辺にやってくる。三十年ほど前までは夏には人でにぎわっていた浜辺も、今は誰も寄りつかない。実際、もしセイレーンの攻勢が始まったら真っ先に逃げるべき場所だ。
僕はどっちかというと海が好きだ。潮騒の音も気に入っている。人によっては潮風でべたべたするのが嫌いというが、僕は気にならない。
埠頭へと目を向ける。目に留まったの、白いスカートを靡かせた何かだ。……まあ、スカートな時点で何かはわかる。女の子だ。
あんな場所によくいるな、と視線を向けた。すぐ下は海。そんな危険な場所に普通女の子は近づかない。女の子じゃなくても近づかない。
黄昏ているのか一人になりたいのか。どっちでもあまり意味は変わらない。一人になりたいときは誰にでもある。
別に知り合いでもない。僕は声をかけるか否かの選択肢でノーを選び、そっとしておこうと踵を返した。
ぼちゃん、という水音が聞こえなければ、おそらくそのまま退散していたに違いない。
振り向いた。まさか、そんな海に飛び込むような馬鹿なことを、と思ったが白いスカート姿の女の子はどこにもいない。慌てて全力で走る。途中、浮きになりそうなものはないかと視線を巡らせたが、人気のない場所で期待するのは無駄だった。
せめてロープと思ったが同じく寂れた浜辺にあるはずもない。
見間違えであればいいと思ってそのまま僕は走る。むしろ、そうであれ。
「残念……っ」
波間に浮かぶ白いものは間違いなく先ほど見かけた女の子だった。おぼれている様子はない。まさか……意識がすでにない?
「なんだっていきなり!」
今日はそんなに暑くないだろう! と突っ込みながら僕は制服の上着を脱いで靴も脱いだ。相手に意識がないなら急がなければ。距離に不安があるが、僕は支給されている簡易ロープを柵に引っ掛け握りしめた。さて、これは実戦だ。練習ではない。
大きく息を吸い込んで、吐いた。
同時にとぷりと音がして白い影が海に沈んでいく。
僕は勢いよく地面を蹴って海へ飛び込んでいた。
日の光が水を照らすと、白い体がゆらりと動いた。全身が発光してるんじゃないかと思うほど、真っ白な身体に目をしかめる。海の底にゆっくり落ちて行きそうな手のひらをつかみ取る。肩に担いで、あとは 無我夢中で水面を目指して泳いだ。
頼りないロープでどうにか体を引き寄せロープで固定する。ああよかった。長さが足りないかと思った。
海の中でゆらゆらと揺れる白いスカートに負けないくらい、腕の中にいる女の子は肌も白ければ髪も白かった。それに驚く余裕はあまりない。普段であればぼーっと見惚れるのは間違いないほどの美少女だ。
ばくばくと波打つ心臓に鞭をいれつつ、どうにか泳ぎ切った僕は生まれて初めて学校の先生のシゴキに感謝した。何度も同じことを繰り返すシュミレートには飽き飽きしていたが、実際対応できたのは運がよかった。ほかに人もいない状況で、よく助けたよ、僕。
ちょっとすごいんでない、と誇らしげな気分になった僕だったが、体力は正直に限界を告げていた。二人分の重さを支えていた腕なんかプルプルしている。僕は重い身体を引きずりながら鞄から携帯電話を取り出した。
もちろん、救急車を呼ぶためだった。