彼らの日常
――痛い。
体中が痛む。
特に足と、頭。
頭の方の理由は分かる。二日酔いだ。昨日、サッカー部の連中と酒盛りをしたから。
けれど足は?
足が二日酔いになるだなんて話、聞いた事も無い。
相模はゆっくりと目を開けた。いつも通りの、寮の見慣れた天井。
「なあ西沢ー……?」
同室の相手を呼んでみたが返事は無く、自分の声が静かな部屋にこだまするだけだ。西沢のベッドを見る。もぬけの殻だ。
壁の時計を見ると、6時。朝練という事もないだろう。ならばトイレか。
相模は寝起き、プラス二日酔いのぼんやりとした頭でベッドから這い出した。
部屋の電気をつけ、体中を見回す。案の定、あちこちに打ち身ができていた。
原因不明の打ち身に舌打ちをする。と、丁度部屋のドアが開いた。
「あ、ミカちゃん起きた?」
「ミカちゃん言うな」
いつものやりとりに、ハイハイ、といつも通りにおざなりに西沢は返事をする。
ベッドに座り、まだ眠たいのか頭が痛むのか眉を寄せて呻いている相模に、西沢は手に持っていたコップを渡す。
「何?」
「何って、水。ミカちゃんが持ってこいって言ったんでしょー?」
「おれそんな事言ったっけ? つか、今目ぇ覚めたばっかなんだけど」
「……寝ぼけて人をパシらせんなっつーの」
軽く握った拳で頭を殴られ、相模は軽く西沢を睨む。いろいろと文句を言ってやりたかったが、まあ、全面的に(おそらくは)こちらに非があるので黙っておいた。
というか、単に言い返すのが面倒だった。どうせ言いくるめられるに決まっている。
それに頭痛がひどい。あちこち痛むし。
ふと見れば、昨日風呂上りに着たはずの服と別の物を着ている。上に着たTシャツはそのままだが、下が相模の物ではない。西沢のハーフパンツだった。
酔って正体を無くしていた相模を着替えさせてくれたのだろう。
聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で礼を言い、相模は水を口に含んだ。
乾いた体に染み渡っていく。どことなく満足げな顔をしている西沢は見えていない事にした。
「……なあ、もしかしてさ、おれ吐いた?」
「は? 何で?」
「いや、下、着替えてるから」
ああそれね、と西沢は手を振りながら言う。
「朝日がさ、寝てるお前の足に酒こぼしちゃってさ。ついでに言えばお前をここまで運んできたのも朝日」
「ふーん、朝日が……」
じゃあ礼言っとかなきゃな、と言おうとして相模は口をつぐんだ。
足に酒をこぼした云々はまあ良い。寝てた自分も悪いのだ。
それはともかくとして、だ。
朝日が自分をここまで運んできた。
朝日は自分よりも背が低い。
つまり相模をおんぶをしても足を引きずるハメになるだろう。
という事はつまり、この足の痛みの原因は。
(あのクソガキ……!)
立腹中の相模に、さらに西沢が追い討ちをかける。
「朝日さあ、何回もお前落っことしたらしいよ? 体中痛くない?」
「痛えよ! くっそ何か体中痛えと思ったらあいつの所為かよ!」
本当ならば朝日本人にしてやりたいところだが、手近にいた西沢の襟首を掴んでガクガクと揺さぶる。
「ちょ、ミカちゃんストップストップ。オレも飲んでたからね? リバースするリバースしちゃうらめええでちゃううう」
「10番欲しさにか!? あいつの陰謀か!? ……って頭痛え……」
「オレもです手を離したまえよ。つか朝日がお前落としたのはお前が暴れるからよ? 相模酒弱い上に酒癖悪いんだから気ぃつけろよな」
頭を抱えこんでうめく相模の背を、西沢は文句を言いながらさすってやる。
「畜生……あのバカ日……!」
険の有る呻きを残し、相模は口を押さえ洗面所へと駆けた。
今日の朝日は面白い事になるだろうなー、と思い、西沢は一人小さく笑った。
昼休みの食堂。
学生独特の喧騒。
寮生である朝日は、いつも昼は食堂だ。いつもの様に寮生割引のチケットを渡し、うどん(ラーメンと悩んだが胃を慮ってあっさりしたものにしておいた)と引き換え、席に着く。
薄くて不味い備え付けのお茶を飲む。
いつもと変わらぬ、昼の光景だ。
しかし。
(何で……)
チラリと向かいを見る。
向かいの席の男は、朝日の困惑などそっちのけで卵丼をモリモリと口に運んでいる。
(何であんたらがいるんだよ……)
朝日はうどんと共に文句を噛みしめた。
隣の席には渡辺。これもいつもの事だ。いつもならば他に何名かのクラスメイト達、もしくはサッカー部連中と食事を取る。
なのに今日は、いつもならば友人がいるはずの席に先輩達がいる。
仲は悪くない。いや、どちらかと言えば良い方なのだろうと思う。
だが今日は、何やら彼らの雰囲気が怖い。
いや、彼ら、と言うのは間違っているか。怖いのは相模だけだ。
自分の向かいには相模美嘉よしひろ。
その隣には西沢慎二。
その隣には飯田輝夫。
西沢はいつも通り何を考えているのか分からないし、飯田もいつも通り、もっと何を考えているのか分からない。
卵丼を食べ終えた相模が、頬杖をついてこちらを見る。
艶の有る流し目。口元に浮かぶシニカルな笑み。
男の自分から見ても格好良い。
流石、相模は顔だけーと褒められる(貶される)だけは有る。
「あーさひ」
「……何すか」
いったい相模は何を考えているのだろうか。満面の笑顔から測るに、とりあえず良くない類の事だろう。
「コーヒー」
「は?」
「買ってこいよ」
「はあ?」
「ダッシュ!」
「はあっ?」
うろたえつつも、足は勝手に走り出している。先輩命令は絶対。悲しきかな体育会系のサガ。
食堂の入り口の自販機へと走る朝日の背に、「ブラックなー」と呑気な相模の声が投げられる。
(何でパシらされてんだよ! 俺あの人に何かしたか? っつーかうどん伸びるし!)
無駄だと分かりつつも、ついボタンを連打してしまう。
やっとの事で(数十秒しかかかっていないが)出てきた紙コップを手に、朝日は席に戻る。
そのコーヒーを口にした相模は、無情にも言った。
「まずい」
「……ハイ?」
「おれ缶のやつが良いなー」
「……つまり……」
「買ってこい」
「はあ? 嫌ですよ!」
「一分以内な」
「や、無理でしょそんなん!」
「あと五十秒ー」
「……っ……!!」
缶ジュースの自販機は校門の所にしかない。
(このクソ野郎が……!!)
心中毒づきながら、朝日は走り出した。
「買って……きましたよ……っ!」
「おーごくろーさーん」
ぜえはあうるさい朝日から缶を受け取る。微妙に朝日の体温が移っていてぬくい。
汗を拭いながら、朝日は手扇ぎで風を送っている。伸びきったうどんを見やり、こちらに恨みがましい視線を向けてきた。
それには構わず、相模はコーヒーを流し込んだ。
冷めて不味そうなうどんを啜りながら、朝日は「金」と呟く。
それに相模はニヤリと笑い返し、食堂の壁時計を見る。
「三分ちょい、か」
「……」
「おれ一分以内っつったのになー」
「や、無理でしょそんなん!」
「オーバーしたから金は朝日持ちな」
「……っ!!」
朝日のツリ目がさらにつりあがる。
「何でですか! 何で俺こんな目にあってんですか!」
「はあ? 何でって、自分の胸に聞いてみろよ」
「……は?」
「おれが今日こんなに痛い思いをしてるのは誰のせいですかー?」
身を乗りだしていた朝日の額を指先で押し戻すと、朝日はうぐ、と呻いて席に戻った。
「だってそれは……。先輩が暴れるから……」
「あーあ痛えなーあ。今日部活できるかなー」
「……で、でも! 先輩だって悪いんじゃないですか! あんなに酔っ払って……」
「あ? お前人の所為にすんの? サーイテー」
今度は、朝日は無言でうどんをすすり始めた。
(いい気味だ。ほんと、たいがい痛いんだからな)
数えられる部分だけでも打ち身を数えてみたら、何と十四ヵ所も有った。
そりゃあまサッカーなんてやってる身だから打ち身なんて日常茶飯事だが、それとこれとはまた違う。
「あーあ、どうせなら飯田の方が良かったなー」
何故か飯田が口に含んでいた水を噴出す。
「しかもお前、おれの足にぶっかけたらしいし?」
「それは! 先輩があんな所で寝てるから!」
「聞こえませーん」
「相模」
今まで黙っていた飯田が、厳しい声を出した。
「……それぐらいにしておけ。いや、してくれ……」
そういえば。
何やら周囲の視線が痛い。
それに女子たちが騒いでいる。
確かに飯田の言う通り、これぐらいにしておいた方が良いか。
サッカー部は後輩をパシらせて、あまつさえいじめているなどという噂が立ちでもしたら大変だ。
「ま、とりあえず朝日。お前責任取れよな」
西沢は相模から顔を背け、必死で笑いを堪えている。
それを横目に、飯田の吹き出した水を拭きながら、渡辺は大きな溜息をついた。
ちなみに、相模と朝日がデキてるという噂が立ったのはその翌日の事。