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頬に走る痛みに気付いた時には飛ばされた勢いそのままに廊下を廊下を二、三回転がり仰向けに倒れていた。
ギャラリーと凪には、起こった現実を理解するのに思考が付いていけず、その場に一瞬の静寂が訪れる。
「き……、きゃあああぁぁぁ!」
意識が現実に追いついたのは、静寂を破るギャラリーからの悲鳴だった。それが引き金となって周囲に軽くパニックが起こる。
その喧騒の最中、当事者である康秀は浩明を殴ったその拳をつきだしたまま、浩明への怒りを隠すことなく肩で息をして、浩明を睨み付けている。一方の浩明は、心配そうに駆けよって声をかけようとする凪に「大丈夫だ」と殴られた頬を押さえてない方の手で制して立ち上がる。
「大丈夫? 随分、派手に飛ばされてたけど」
「この程度、君のビンタから比べたら撫でられた程度だ」
それでも心配の声をかけてくれた凪を安心させるつもりで茶化して返す。
「ちょっ、それどういう意味よ!」
「心配する必要ないって事だ」
思わぬ返され方をされて、頬を膨らませて抗議してくるのを、頭を撫でて機嫌を落ち着かせる。
「あの程度でやられるようじゃ、師匠に雷落とされるわ」
首に受けた衝撃を緩和するようにさする。どこかから「もう二、三発殴らせろ!」という喚き声と「落ち着け!」と悲鳴に近い静止の声が聞こえてくるが、二人は無視することに決め込む。
「雷って」
「あ、物理的に雷落としてくるから」
「物理的にって、あんたの師匠って何者よ?」
「色々と規格外な人だよ。人としても魔術師としても」
「そりゃ、想像つくわよ」
目の前にいる弟子を見ればよく分かる。
「すごい人だったよ、耐性付ける為に不意討ちで飲み物に毒を盛るし、マグマの上を火渡りさせるし、他にも……」
「言わなくていい、聞きたくないから!」
その師匠とやらには絶対に教えを乞いてはいけない。浩明の口を押さえる事で、物騒な解説を止めながら、凪は心に決めた。
「おい、お前等!」
「ん?」
「え?」
喚き声に呼ばれ、間の抜けた声を同時にあげて、声のした方を振り向くと、こめかみに青筋を浮かべ、再び殴りかからんとして喚く康秀を明美と総一郎の二人ががりで羽交い絞めにして。取り押さえている最中のようだ。
「無視してんじゃねぇよ」
「おや、これは失礼」
額に青筋を浮かべる康秀に、悪びれる事なく意地悪く答える。
「すいませんねえ、喚いてるだけの小物と心の底から心配して声をかけてくる可愛い女の子、どちらを相手にするかなんて考えるまでもないと思いますがね」
「なッ?」
凪と康秀の顔が真っ赤になる(片方は頭に「より一層」が付いたが)。片や「可愛い」と言われた不意討ちで、もう片方は「相手するまでもない」と無視された挙句、更には「小物」呼ばわりと蔑まれた事による逆上だ。
「ま、前置きはさておき」
「そ、そうね」
浩明が一呼吸置くと、凪も落ち着かせるように深呼吸を数回して自分を落ち着かせる。
「殴ってきたのは事実を突かれた事による逆上と受け取ってよろしいでしょうか?」
「そんな訳あるか! 下手に出たら付け上がりやがって、何様のつもりだ!」
否定に続いて、浩明の態度を激しく非難してくる。
「何様って……なんで上から目線なの?」
しかし、そんな非難の声が浩明の心に届くはずがない。聞き返す姿に呆気にとらわれ、静寂が辺りを包む。
「ま、いいか」と勝手に納得させると、総一郎達から庇う様に後ろに立たせていた凪に声をかける。
「灯明寺、お巡りさんを呼んでくれ。暴行の現行犯を捕まえてくれってな」
「ほ~い」
「上等だ、やれるもんならやってみろ!」
「おい待て!」
携帯端末をブレザーのポケットから取り出し、電話をかけようとするのを総一郎が止める。一方の康秀はどうせやらないだろうと高をくくっているのか挑発してくる。
「浩明、お前は他人の力を借りてしか喧嘩が出来ないのか?」
「こっわ~い、煽ってるよ」
凪がわざとらしく驚いて身体を軽く仰け反らせる。浩明は「やれやれ」と肩を竦めて前に出る。
「平和的な解決法を取ったつもりでしたが、どうやら殴り合いの解決がお望みでしたか。さすがは名門魔術師の御嫡男殿だ。落ちこぼれの私とは考え方が正反対だ。仕方ない今回はそちらのやり方にあわせますか」
「ちょっと!」
これには凪が横から止めにかかった。康秀の実力を多少なりとも知っているからこその行動だ。
「あんた、マジでやる気なの?」
「ええ、向こうもやる気満々みたいだからね」
「だからって、結城先輩って近接格闘に特化してる魔術師よ。格闘戦じゃ勝てる人が殆どいないのよ」
「え、あれで?」
「え、えぇ、あれで」
指差して聞き返した行為が、分からず凪は鸚鵡返しで答える。「おい、どういう意味だ!」と怒鳴り声が聞こえてくるが無視する。
「星野、あんたちょっと見くびりすぎじゃない?」
「心配しなさんな。さっさと……っく!」
明らかに康秀を格下に見ている。凪が浩明の態度をたしなめているのを、聞く耳持たずで応じていた浩明だったが突然、凪に向けていた体を横に向けつつ右腕を斜め上に振り上げた。
パキーンッと氷の塊が、浩明によって砕かれ、砕かれた破片が光へ変わり消えていく。魔力粒子で形成されていた氷が魔力粒子へと還元されていく。
「やれやれ、不意討ちとは結城家では立派な教育をなされる」
「うるせぇ! 先手必勝だ」
コンバーターに手を添えていた康秀が不適に笑みを漏らす。総一郎の制止を振り切って康秀が放った牽制の一発だった。
「正当防衛、これで成立だ」
浩明が康秀に飛び掛った。