とあるメイドが愛を知り、やがて死ぬまで
物語は、私がメイドとして仕えている公爵家の次男のお方が、留学先から帰国なさったことから始まりました。
私は貧乏な平民の出で、十の頃から公爵家に仕えておりました。いわゆる口減らしというもので、私には頼れるものも、家族も何もありませんでした。
必死に毎日仕事を覚え、作法を覚え、最低限の読み書きを覚え、あっという間に時は過ぎていきました。
私が十五になった年に、次男のユリウス様が数年ぶりにご帰国なさるということで、一週間ほど公爵家はバタバタしており、いつもより落ち着かない日々が続いておりました。
「お初にお目にかかります、ユリウス様」
「はじめまして、ルリ」
そう言って、微笑みながら私の目を見つめるユリウス様への第一印象は、不敬だのなんだのを除いて率直に言えば、なんだか胡散くさい人だと思いました。
よく言えば周りの空気を読んで上手く立ち回れる方、悪く言うと自分の意見がないと言うのでしょうか。とにかく私には彼がまるで感情のない人形のように思えたのです。
そうなってしまった理由も、しばらくして腑に落ちました。この公爵家のご長男はとても有能な方ですが、幼い頃はどうやら心臓が悪く、病弱であったようです。
大人になるまで生きられるのか分からないと言われるほどであったとか。つまりユリウス様は生まれた時からお兄様のスペアとして育てられてきたのです。
しかしそんな周囲の心配も杞憂に終わり、ユリウス様が十七になった頃にはお兄様はかつての病弱だった姿とは見違えるほどとなり、ユリウス様の役目は終わったのでした。
これまでとは打って変わって自由を得た彼は、隣国へ留学なさいました。
その間彼が公爵家に帰ることは一度もありませんでした。
彼はメイドの中でもとりわけ若い私を、よく気にかけてくれました。彼の留学先でお世話になったご家族にも、私と同じ歳の子がおり、妹のような存在だったそうです。
「あの子にも君を見習ってほしいよ」
と言われるたびに、私はユリウス様の顔を見ていました。もっともそれは彼の顔がカッコいいからだという理由ではなく、恐らくその妹さんのことを思い出しているだろう時、彼の人形のような顔は崩れるのです。その人間味溢れた顔が、いつも笑顔の仮面が貼り付けられている彼から垣間見える素顔のようでした。今思えば、この顔に私は焦がれていたのかもしれません。私にもそんな顔で誰かに思い出されたかったのかもしれません。
ユリウス様がお戻りになって一ヶ月ほど経った頃でしょうか、廊下を歩いていると執務室の窓が開いていたので閉めようと部屋に入ると、うずくまっているユリウス様の後ろ姿を見かけました。具合でも悪いのかと思い、慌てて駆け寄るとその肩が震えていました。床に打ち付けられたままの、彼の握り拳を見ると、一通の手紙が握り潰されておりました。
最初の目的であった窓を閉めることなどとうに忘れ、どうすれば彼を泣き止ませられるのだろうと思いました。私はこれまで誰かが泣いている場面に遭遇したことはありませんでした。ましてや成人した立派な男性が涙を流すところなど、見たこともありませんでした。自分ですら物心ついた頃から泣いたことはなかったのです。
なんて声をかけるべきなのか分かりませんでした。なぜ泣いているのか、何か悲しいことがあったのだろうか、それを聞いていいのか。私が思考している時間など、僅かな時間であったでしょうが、私には永遠のように感じました。
メイドという身分で差し出がましい事でしょうが、私は彼の背に手を当て、さすりました。
どこかの本で読んだ、辛い時に安心する方法です。背中をさすられると、人は不思議と心が安らぎ、温かい幸福感に包まれるとか。
実践したことはありませんでしたし、これからも自分が誰かにする日など来ないとは思っていましたが、まさか本で得た知識が役に立つとは思いもよりませんでした。
ですが私の動作はあまりにもぎこちなかったのでしょう。彼は少し笑いました。
けれど言いました。
「ありがとう」と。
後から聞いたのですが、その手紙は彼が隣国でお世話になったご一家が、火事により亡くなったという訃報であったそうです。無論その亡くなったご家族の中には、彼が妹のように大事になさっていた娘さんも含まれていました。
この日を境にユリウス様は前とは比べ物にならないほど、私に構うようになりました。
心の片隅で私は“妹の存在”の代わりなのかもしれないと思っていましたが、それは口には出せませんでした。口にしてしまったら今の時間が壊れてしまう気がして怖かったのです。
誰かに特段大事にされた思い出のない私にとって、それはとても嬉しいことだったからです。
そのうち、ユリウス様が私を見つめる視線には、親愛だけではない恋情のようなものが混じっているのではないかと思うようになりました。そしてその思いを私も拒むことはしませんでした。私たちは恋人同士であった訳ではありません。男女の関係を結んだこともないのです。ただ初恋のような甘い時間に酔いしれていたのです。
そんな私に罰が当たったのでしょう。
「お見合いなさい」
公爵夫人がユリウス様にかけた言葉を聞いてしまったのは本当に偶然でした。ですがその言葉は、寝耳に水と言うわけでもなく、どこかで薄々予感していたことでした。
ユリウス様が帰ってきた理由は、きっと政略結婚のためのお見合いをし、有力な貴族と縁を結ぶためなのだろう、と。しかし、彼は帰国してからの一年間そんな素振りすら見せませんでした。
だから私も油断していたのです。いつのまにか私は、彼を私のものにしたいと、私が彼のものになりたいと願っていたのです。何よりそんな自分自身に驚きました。
なぜ彼のことを好きになったのかと聞かれると、理由はうまく説明できません。ただあの日、彼の弱い部分を見た時から目が離せなくなったのです。きっと人が人を好きになるのは理屈ではなくて、本能なのでしょう。私は本能で彼を選びました。そしてその選択を後悔した事はありません。
平民の一メイドが公爵家の方と結ばれるなんてことは、あってはいけません。ここらが潮時なのだと思いました。普通なら恨み言の一つでも言うところなのでしょうが、私は感謝の気持ちでいっぱいでした。誰かに大切にされることがこんなにも嬉しいこと、自分よりもその人の幸せを願えること、人を愛すとはどのようなことかを、彼が教えてくれたからです。
この思い出だけでこの先の人生も生きていけると思いました。
その日の晩、ユリウス様に庭園に呼び出されました。
夢の終わりなのだと、そう覚悟を決めたのに、かけられたのはまさかの言葉でした。
「母にお見合いをしろと言われた。でも俺は君と一緒に生きていきたい。これまで働いて貯めた金がある。二人で暮らす家も、新しい仕事も用意がある。貴族じゃなくなる俺だけど、それでも君は俺の手を取ってくれるか?」
私のために、全てを捨ててくれると言うのです。
「君が好きだ、ルリ」
あなたに呼ばれる、私の名前が一番好きでした。
ただの文字の羅列でしかない名前が、あなたを介すだけで宝石のようにキラキラと輝き出すのです。
彼に身分や家族までも捨てさせることは望んでいませんでした。彼がこれまで私を好いていたのも、結婚前のただの遊びで、いずれ捨てられるのだと思っておりました。信じていなかったのです、彼のことを。
最初から終わると分かっていたはずの恋なのに、私はあなたの手を取れないと告げるべきだったのに、断れなかったのです。愛おしい人に求婚され、その瞳に真っ直ぐ見つめられ、断れる人などいないでしょう。
ですがそれも言い訳と言われれば、その通りです。結局私は自分の幸せをとったのです。茨の道を選んだからには苦難が襲おうとも構わない。それすらも、彼が隣にいるのならどんなことさえ乗り越えられるとさえ思いました。この頃の私はそう、まさしく無敵でした。
公爵家から除籍され平民となった彼と私は、王都から少し離れた所にある小さな町の小さな一軒家で暮らし始めました。お世辞にも立派とは言えない、年季の入った小さな木造の一軒家でした。 長い年月風雨に晒されて渋い色合いになった木製の壁には、鮮やかな青緑色のツタが生き生きと這い回り、初夏には名前も知らない小さな白い花を咲かせました。
公爵家のような豪華な家具なんてありませんでしたが、私にとっては最も素敵なお城でした。
彼は町の自警団として働き、私はメイドだった経歴を活かして、街の子どもたちに読み書きを教えたり、裁縫を教えたり、家庭教師のようなことをして稼いでいました。
幸い私たちはこの町の方にも受け入れてもらえ、特にお隣に住むマーサさんには本当にお世話になりました。右も左もわからない私に一から教えて下さり、余った農作物を分けて下さりました。マーサさんは五人の子どもを育て上げた肝っ玉お母さんで、私にもこんな母がいたら心強かったのに、と思いました。
私たちが籍を入れたのは、私が十六、ユリウス様が二十三の時です。
結婚式というものにはもともと憧れはなく、まして参列して頂けるような人もいないので、行いませんでした。なので私たちの初夜というのは籍を入れた日でした。
籍を入れるまで私たちはあまりスキンシップというものはしたことはなく、せいぜいハグ程度だったため、その日私は朝からとても緊張していました。メイド仲間から聞いた話や本で得た知識から、何が行われるのかはなんとなく分かっていましたが、そうは言ってもやはり分からないことは怖いです。
「ルリが怖いならまだ急がなくていい」
彼はそう言ってくれましたが、今ここで勇気を出す機会を逃したら一生出来ないような気がしたのです。
「いえ、今日が良いです」
近づいてくる美しい顔から目を閉じて、彼の温もりに体を委ねました。
初めての夜は少し怖かったですが、彼の情熱を受け止めるうちに夜が明けていました。
一緒に暮らし始めて、籍を入れて、
「もう敬語じゃなくていいのに」
とよく言われましたが、幼い頃からの染みついた癖はなかなか抜けず、その代わり敬称を外して「ユリウス」とたくさん名前をお呼びいたしました。生涯で、一番彼の名前を呼んだのは私だと思います。反対もそうです。
籍を入れてから半年後、やはりと言うべきか、私は妊娠しました。それが分かった時、私は嬉しいと思えませんでした。恐ろしいとさえ思ってしまったのです。
私の中に私ではない誰かがいるなんて怖くてたまりませんでした。両親に愛情をかけてもらったことがない私が、人間を育てられる気がしませんでした。
もし、私に母性というものが芽生えなかったら、この子のことを要らないと思ってしまうのだろうかと、ただただ震えることしか出来ませんでした。
「俺はすごく嬉しいよ、ルリ。俺は、産んでほしい。俺も家族がどういうものか、分からない。でも俺たちだって最初は他人から始まったんだ。それでも今は家族になれてる。正解なんて誰にも分からないんだ。俺たち家族のカタチを一緒に作っていこう。二人で一緒に頑張ろう」
その言葉で、道が開けたような気がしました。私は一人ではないのです。二人で一緒に育てていくのだと、二人で親になるのだと、覚悟ができました。
そして、他ならない愛おしいあなたとの子どもだから、私は産もうと思えたのです。
そして、春の暖かい日に私たちの愛おしい娘、アンジェが生まれました。前日まで雨が続いていたのに、その日はまるで天からの祝福のように、晴れ晴れとした青い空が続いていて、気持ちの良い日でした。まるで天使のように清らかな赤ちゃんでした。
アンジェが生まれた時、ユリウスは泣いていました。彼の泣き顔を見たのはこれでニ回目でした。けれど、あの時とは違って今度は嬉しくて泣いているのです。
出産という一仕事を終え、疲れていつの間にか眠っていたのか、夕暮れにふと目を覚ましました。
窓から差し込む夕日の光が寝室に差し込んで、微かに開いていた窓から風が吹き込み、新鮮な風が部屋に送り込まれました。
横には、つい数時間前にはまだこの世に生を受けていなかった生まれたばかりの娘と、付きっきりでずっと私の手を握っててくれたユリウスが、ベッドの横にしなだれかかるように眠っています。
この光景はその後どんなに時が経っても鮮明に思い出せました。それほど印象的な一コマだったのです。
愛おしい、この日々を守りたい、と心からそう思いました。そして、命に換えてもこの子を守ろうと、確かに母親としての意識が芽生えたのです。
アンジェはよく夜泣きをしました。一晩で何度も起こされましたが、ユリウスは翌日もお仕事があるにも関わらず献身的に面倒を見てくれました。さすがに申し訳ないと言っても、
「ルリは寝てて」と私だけベッドに寝かしつけられました。
ご近所の方やマーサさんには大層驚かれました。そんな子育てに協力的な夫は見た事がない、あんた達家族は素敵だねと言われるたびに少し誇らしい気分でした。私たち三人はちゃんと家族になれていました。
ユリウスのお仕事がお休みの日にはよく、野原に行ってピクニックをしました。家から持ってきたお弁当をみんなで食べて、三人で遊ぶのです。
お昼の時間も少し過ぎた頃にはお腹もいっぱいになって、大きな木の下で、ブランケットを地面に広げ、寝転びます。太陽が燦々と輝き、風がそよそよと吹いて葉が揺れる音が心地よく、目を瞑って幸せだなぁと、それだけを感じるのです。
目を開けると、目の前にはきゃあきゃあ楽しそうに声を出すアンジェと、アンジェに手を伸ばされたユリウスが彼女をひょいと抱き上げます。それが私たちの休日の過ごし方でした。
アンジェが五歳になった頃、私のお腹にはもう一つの命が宿りました。今度は怖くありませんでした。子どもを持つことの幸せを既に知っていたからです。
ユリウスも喜んでくれました。アンジェは、どこか不思議そうでした。ですが私のお腹がだんだんと大きくなるにつれて理解し始めたのか、私の身の回りを手伝ってくれるようになりました。子どもの成長というのは早いもので、ついこないだまではアンジェも赤ちゃんだったのに、とユリウスと言葉をこぼしました。
ユリウスはアンジェがお腹にいた時もそうしたように、よく仕事に行く前や寝る前など私のお腹に話しかけました。時々、その声に反応したのかお腹の子が動くこともありました。
あと三ヶ月でお腹の子も生まれるという頃、私は家で生まれてくる赤ちゃんのための縫い物をしていました。アンジェも私の近くで床に座って、塗り絵をして遊んでいました。
そんな時、誰かが我が家の扉を懸命にノックしました。すぐに動けない私の代わりにアンジェが扉を開けてくれました。
すると、扉を叩いていたのはマーサさんでした。彼女は今まで見た事がないほど、顔を歪めていました。
マーサさんはアンジェに一度目をやった後、奥にいた私に悲痛な甲高い声で言ったのです。
お宅の主人が突然倒れ、息をしていない、と。
その後のことはあまり覚えていません。マーサさんが色々と手配して下さり、気づいたら葬式でした。
ユリウスは、まるで眠っているようでした。医者が言うには死因は心臓発作だそうです。そういえば、彼のお兄様は小さい頃心臓が悪かった、というのを思い出しました。
ユリウスは、死んでいると知らされなければ、そのまま起き上がって、おはようと、今まで見ていたのは悪い夢だったのだと、そう言って抱きしめてくれそうな姿で目を閉じていました。
「いってらっしゃい」
私は仕事に出掛けた彼にそう声をかけたのです。私のため、アンジェのため、生まれてくる子どものために、彼は毎日朝早く夜遅くまで働いてくれていました。
「お帰りなさい」と言えないなんて思ってもいませんでした。彼の「ただいま」は二度と聞けないのです。
がらんどうでした。何も考えられませんでした。信じられなかった、信じたくなかったのです。愛している人が、いなくなってしまったことを。
私と結婚した事自体間違いだったのかもしれない。私が彼に無理をさせていたのかも、このまま私も死んでしまいたい、私を置いていかないで、一人にしないでほしい、とそんなことばかりを考えていました。
そしてふと我に帰った時、真っ暗な部屋の中で、私の右手をアンジェが握りしめていました。それはもう痛いくらいに。お腹の赤ちゃんも動いていました。子ども達は生きているのです。
あぁ私はまだ死んではいけない。彼が残してくれた宝物を守って、生きていかなければならないんだ。
一度でも子ども達を残して死のうなんて思ってごめんなさいと、こんな母でごめんなさいと、申し訳なさと現実に、今まで私には枯れていたはずの涙が、ぼろぼろと溢れて止まりませんでした。私がこれまで泣けなかったのは今日のために残されていたのかもしれないと思うほど、一生分の涙が出ました。
ふと背中に温もりを感じました。アンジェが小さな手で私の背中を何度もさすっていました。その姿があの日の私と重なりました。私がユリウスの背中をさすった、あの時と。
不思議と力が湧いてきました。母は強しと言いますが、その通りだと思います。
やがて、男の子が生まれました。ユリウスによく似た男の子でした。名前を決める前にユリウスは亡くなってしまったので、私一人で名前を考えました。テオドールという、外国語の言葉で“神の贈り物”という意味の名です。私をこの世に繋ぎ止めてくれた赤ちゃんは、まさしく神からの贈り物でした。
一人で二人の子どもを育てることは至難でしたが、周りの方の手助けを借りて日々を懸命に生きていきました。
「お父さんは星になったの」と小さな頃から、子どもたちに言って聞かせていました。いつもお空の上から私たちを見守っているのだ、とも。
そう話しておきながら、一番納得いかないのは私でした。そんな遠くから見ていられても何も嬉しくない。私の隣で、子どもたちのそばで、小さな幸せに溢れた毎日を過ごしていて欲しかった。ただそれだけだったのに。
アンジェは五歳までユリウスと一緒に暮らしていたので記憶があるようですが、テオは生まれた時から父がいないので、寂しい思いをさせないように、よくユリウスの話をしました。
ピクニックをよくしたこと、テオがお腹にいた時、それはもうユリウスはたくさん話しかけていたこと。子ども達にも彼がどんなに素敵な人だったか知って欲しかったのです。
思い出の中で彼は生き続けていました。いつだって、幸せだったあの日々を思い起こすことが出来ます。
ですが、あの愛おしい体温が、温もりが、消えてなくなってしまったことが何よりも悲しいのです。
ユリウスが亡くなってから私は、本当の意味で幸福だったことはないのでしょう。
たくさんの方の力を借りてなんとか、アンジェが二十二、テオドールが十七まで、特に大きなトラブルが起こる事なく育てる事ができました。二人とも反抗期などはなく、いつも家の手伝いをしてくれました。
アンジェは学生時代から長い間付き合っていた恋人と、そろそろ結婚の話が出ているようで、テオは王都にある学園で寮生活をしています。
子どもたちも手がかからなくなったので、何か自分のための趣味を見つけても良いかもしれないと思い始めました。
その日はいつも通り、夜ご飯の買い物へ行く途中でした。何やら馬が大地を駆る音が聞こえ、音の聞こえる方に目を向けると、道とはいえない、でこぼこ道を暴走した馬が真っ直ぐこちらに向かって走ってきていました。どこかの牧場から逃げ出したのか、はたまたどこかの馬車馬だったのかは分かりませんでしたが、とにかくすごいスピードでした。
そして私の目の前を、よそ見をしたままの小さな六、七歳ほどの男の子が通っていこうとしたのです。
考えるより先に体が動いていました。想像していたよりもすごい衝撃で、体が浮いたかと思えばあっという間に地面に叩きつけられました。
薄らと目を開けると、視界の端に私が必死に突き飛ばした子どもの姿が見えました。大声で泣いているけど、大きな怪我はしていないようで安心しました。暴走していた馬も、私とぶつかった衝撃で落ち着いたのか、手綱を握られているのが見えました。
周りにいた人が何人か私に駆け寄って懸命に私に話しかけていましたが、よく聞こえませんでした。
痛いと感じることもなく、ただ温かく赤い液体が体から滲み出ていました。
もう、無理でしょう。
子どもたちを残して先に逝ってしまうことは不安でしたが、もうあの子達なら自分たちの力で二人支え合って生きていけるはずです。
開けていたはずの瞼が抗いようもなく、だんだんと静かに降りていってしまいます。
全てが消えゆく、ぼんやりと霞んでいく視界の中で、ただ一人、今はもうこの世にいないはずのあの人の姿を見つけました。
やっと迎えに来てくれたのね、あなた。
何点でも構いませんので評価、リアクションして頂けると嬉しいです。




