第2話 「50代公務員の新しい出会い」
朝の奈良は、音が少ない。
車の通りも少なく、風の音の方がよく聞こえる。
高橋 恒一は、いつもの時間に家を出た。
同じ道。
同じ信号。
同じコンビニ。
それらが「変わらない」という安心を作っているはずなのに、最近は少しだけ違和感が混じる。
(別に、不満があるわけじゃない)
そう思いながら、改札を抜ける。
電車の中は静かだ。
誰も彼に話しかけない。
それが当たり前で、それが楽だったはずなのに。
最近はふと、考える。
このままの生活は、ずっと続くのだろうか。
(続くなら、それでいいはずやけどな)
そう自分に言い聞かせる。
駅を降りると、空気が少しだけ変わる。
観光客の姿がちらほら見える。
春でもないのに、ゆっくりとした時間が流れている街。
今日の仕事は、文化関連施設との打ち合わせだった。
資料の確認、予算の調整、形式的な会議。
いつも通りの内容。
建物の前に着くと、少しだけ足を止める。
古い建物を改装した施設。
木の匂いがまだ残っているような場所だった。
(こういう場所は、嫌いじゃない)
派手さはないが、落ち着く。
中に入ると、空気が少しだけひんやりしていた。
受付の横を通り、打ち合わせ室へ向かう。
すでに数人が座っていた。
市の職員、施設側のスタッフ。
その中に、一人だけ違う空気の人物がいた。
女性だった。
年齢は30代後半くらい。
落ち着いた服装。
派手さはないのに、目に入る。
彼女は資料を整理していた手を止め、顔を上げた。
目が合う。
一瞬だけ。
(……)
理由はないのに、少しだけ視線が長く残る。
「おはようございます」
彼女が先に言った。
声は柔らかい。
「おはようございます」
高橋も返す。
それだけのやり取り。
本来なら、ただの挨拶。
だが、なぜか少しだけ間があった。
彼女は自然に微笑んでいた。
距離を詰めるわけでもなく、離れるわけでもない。
(普通の人やのに、なんでやろ)
高橋は自分に問いかける。
会議が始まる。
資料が配られ、説明が進む。
内容はいつも通りだ。
ただ、時々。
視線を上げると、彼女がそこにいる。
メモを取っている横顔。
少しだけ頷く仕草。
それだけなのに、なぜか目が行く。
(仕事中やぞ)
そう思って視線を戻す。
だが、しばらくするとまた見ている自分に気づく。
会議は淡々と進んでいく。
問題もなく終わるはずだった。
「では、最後に確認ですが」
司会の声。
資料の最終確認。
その流れの中で、彼女が軽く手を挙げた。
「一点だけ、よろしいですか」
声が、少しだけ違って聞こえた。
高橋は無意識にそちらを見る。
彼女は、まっすぐ資料を見ていた。
その横顔が、さっきより少しだけ近く感じた。
(……なんや、この感じ)
ただの会議。
ただの打ち合わせ。
それなのに。
なぜか、少しだけ呼吸が浅くなる。
彼はまだ知らない。
この日が、“何かが始まる前の日常”だったことを。
会議が終わると、空気が少しだけ緩んだ。
資料が片づけられ、椅子がわずかに軋む音がする。
さっきまで張り詰めていた“仕事の顔”が、ゆっくりほどけていく時間。
高橋 恒一は、手元の書類をまとめながら席を立った。
いつも通りの動作。
いつも通りの流れ。
「ありがとうございました」
あちこちから挨拶が飛ぶ。
彼もそれに合わせて頭を下げる。
そして、その中に――
さっき何度か視線が合った女性がいた。
彼女も荷物をまとめていた。
動きはゆっくりで、無駄がない。
慣れている人の所作だった。
(……まだいるんか)
会議は終わったはずなのに、彼女は少し残っている。
彼は出口へ向かいかけて、ふと足を止めた。
理由はない。
ほんの、ほんの少しだけ気になっただけだ。
そのとき。
「すみません」
背後から声がした。
振り返ると、彼女が立っていた。
「資料の件で、少しだけ確認よろしいですか」
仕事の延長。
それだけのはずだった。
「はい」
自然に答える。
距離は、さっきより少し近い。
彼女は資料を開きながら説明を始めた。
声は落ち着いている。
早くもなく、遅くもない。
内容は難しくない。
それなのに、なぜか頭に入りにくい。
(何を考えてるんや、俺は)
高橋は自分に軽く呆れる。
彼女の説明は続く。
その間、視線が何度か合う。
すぐ逸らされるわけでもない。
じっと見つめられるわけでもない。
ただ、“自然にそこにある視線”。
その距離感が、逆に落ち着かない。
「ここは、こういう理解で合ってますか?」
彼女が資料を指さす。
高橋は慌てて頷く。
「はい、それで問題ないです」
その瞬間。
彼女が小さく笑った。
「よかったです」
その一言だけ。
なのに。
なぜか少しだけ、胸の奥が動いた気がした。
(なんや今の)
ただの確認。
ただの仕事のやり取り。
それ以上でも、それ以下でもないはずだ。
それなのに。
彼女が資料を閉じる動作を、なぜか見てしまう。
「では、失礼します」
そう言って軽く頭を下げる。
そのまま立ち去るかと思ったが――
少しだけ、動きが止まった。
「高橋さん」
名前を呼ばれる。
不意打ちのように。
「はい」
振り返ると、彼女はほんの少しだけ柔らかい表情をしていた。
「今日の説明、少し難しかったですよね」
「……いえ、大丈夫です」
反射的に答える。
でも、彼女は少しだけ目を細めた。
「無理してません?」
その一言が、妙に静かだった。
責めているわけではない。
心配でもない。
ただ、“見えている”という感じ。
高橋は、一瞬だけ言葉に詰まる。
(なんでそんなことまで)
彼は笑ってごまかそうとした。
「いえ、慣れてますので」
彼女はすぐに頷いた。
「そうですか」
それだけ。
それだけなのに。
そのやり取りのあと、彼女は去っていった。
残された高橋は、その場に少しだけ立ち尽くす。
(なんや、今の)
ただの会話。
ただの仕事。
それは理解している。
でも。
“少しだけ見透かされた感じ”。
それが、頭から離れない。
彼は書類を握り直し、歩き出す。
外に出ると、奈良の空気は変わらず静かだった。
なのに。
さっきより少しだけ、世界が違って見えた
施設を出たあとも、しばらく高橋 恒一の頭の中には、さっきのやり取りが残っていた。
(無理してません?)
あの一言だけが、妙に引っかかる。
気にされるようなことをした覚えはない。
むしろ、いつも通りにこなしただけだ。
それなのに、なぜか“見抜かれた”ような感覚が残っている。
職場へ戻る途中、再び施設に入る用事ができた。
書類の押印と、軽い打ち合わせの続き。
同じ建物。
同じ廊下。
さっきと何も変わっていないはずなのに、少しだけ空気が違う。
受付を抜けると、奥のテーブルに彼女がいた。
美原さとみ。
さっき説明をしていた女性だ。
今は一人で、書類を整理している。
肩の力が抜けたような姿勢。
(まだおったんか)
それが最初の感想だった。
彼女は気配に気づいたのか、顔を上げた。
一瞬、目が合う。
そして、軽く会釈。
「お疲れさまです」
それだけ。
ただの挨拶。
なのに。
さっきよりも少しだけ柔らかく感じた。
「お疲れさまです」
高橋も返す。
そのまま通り過ぎようとしたとき――
「高橋さん」
また呼ばれる。
足が止まる。
「はい」
彼女は立ち上がり、少しだけ近づいてきた。
距離が、さっきより近い。
仕事の距離としては普通。
だが、なぜか意識してしまう。
「さっきの件、補足資料こちらにまとめておきました」
資料を差し出す。
「ありがとうございます」
受け取る。
指先が一瞬だけ触れそうになる距離。
その“なりそうでならない距離”が、なぜか気になる。
(別に、普通やろ)
頭ではそう言い聞かせる。
だが、少しだけ遅れて視線を上げると――
彼女はまだそこにいた。
去るでもなく、残るでもなく。
ただ、少しだけ待っているような空気。
「何か他にもありましたか?」
高橋が聞く。
彼女は一瞬だけ間を置いてから、軽く笑った。
「いえ、特には」
そして、少しだけ視線を外す。
「ただ……」
言葉が途切れる。
その“間”が、妙に長く感じる。
「今日は、少し忙しそうですね」
そう言って、また微笑む。
その言い方は、事実の確認でも、評価でもない。
ただの感想。
なのに。
なぜか、胸の奥が少しだけ動く。
(なんや、これ)
高橋は軽く頭を下げる。
「そうですね」
それだけ。
会話は終わる。
終わったはずなのに。
彼女はその場をすぐには離れなかった。
少しだけ、視線が残る。
そして――
「また、何かあれば」
そう言って、ようやく背を向けた。
その背中を見送りながら、高橋は思う。
(“また”って、なんや)
仕事の言葉。
ただの社交辞令。
そう理解している。
理解しているはずなのに。
その言葉だけが、少しだけ残る。
廊下の向こうへ消えていく背中。
その後ろ姿を見ながら、高橋はしばらく動けなかった。
施設を出たあとも、手に持った資料の感触が少しだけ残っていた。
紙の重さというより、“やり取りの余韻”のようなもの。
高橋 恒一は、車に戻る途中で一度立ち止まった。
(なんやろな)
別に特別なことは何もない。
仕事の説明をして、資料を受け取って、終わった。
それだけのはずだ。
なのに、頭のどこかが少し落ち着かない。
車に乗り込み、エンジンをかける。
日常の音に戻るはずなのに、まだ少しだけ違和感が残っている。
(気のせいやろ)
そう結論を出す。
だが、その“気のせい”が妙にしつこい。
その日の午後。
別の打ち合わせが続く。
別の人間と話す。
別の資料を見る。
全部いつも通りだ。
問題はない。
それなのに。
ふとした瞬間に、さっきの女性の声が頭をよぎる。
「無理してません?」
たった一言。
仕事の中では何度も交わしてきたはずの普通の言葉。
なのに、なぜかそこだけが残る。
会議中、メモを取りながらも一瞬だけ手が止まる。
(いや、何考えてるんや)
自分で自分に突っ込む。
仕事に集中しろ。
そういう立場だ。
だが、思考の端に残る“違和感”は消えない。
夕方。
業務が一段落する。
窓の外は、奈良特有のゆっくりした光の色になっていた。
資料を整理しながら、ふとスマホを見る。
特に意味はない。
ただ、何もない画面を見ているだけなのに。
また、彼女の顔が浮かぶ。
(なんでや)
小さく息を吐く。
そのとき、同僚が声をかけてくる。
「高橋さん、今日の会議どうでした?」
「問題なかったです」
即答する。
いつもの自分。
いつもの仕事。
それなのに、どこかだけ歯車が少しズレているような感覚。
帰り道。
夕方の奈良は静かだ。
観光客も減り、空気が少し軽くなる時間帯。
歩きながら考える。
(別に、何もない)
(ただの仕事や)
そう言い聞かせる。
だが、その言い聞かせが強いほど、逆に意識してしまう。
“無理してません?”
その言葉だけが、やけに柔らかく残っている。
責めているわけでもない。
優しいわけでもない。
ただ、「見ていた」ような言葉。
高橋は立ち止まる。
夕暮れの中で、少しだけ空を見上げる。
(なんやこれ)
初めてではないはずの世界が、少しだけ違って見える。
ただの一日。
ただの会議。
それだけのはずなのに。
なぜか、静かに何かが残っている。
翌日。
高橋 恒一は、再び同じ施設に来ていた。
昨日の資料の最終確認と、軽い事務処理。
本来なら一瞬で終わる用件だ。
廊下は静かだった。
人の気配は少ない。
(今日はおらんやろ)
そう思いながら歩く。
だが、角を曲がった先で足が止まる。
そこに、彼女がいた。
美原さとみ。
書類棚の前で、何かを探しているようだった。
一人。
周りには誰もいない。
気づかれる前に通り過ぎることもできる距離。
だが、なぜか足が動かなかった。
(なんで止まってんねん、俺)
そう思っている間に、彼女が振り返る。
目が合う。
一瞬。
でも、昨日より少しだけ長い気がした。
「おはようございます」
彼女が先に言う。
「おはようございます」
高橋も返す。
それだけのはずなのに。
その場の空気が、昨日より少しだけ静かに感じる。
「昨日はありがとうございました」
彼女が言う。
「いえ、こちらこそ」
会話はそれで終わるはずだった。
だが、彼女はすぐには動かなかった。
少しだけ間がある。
その“間”が、やけに長く感じる。
「今日も、お忙しいですか?」
何気ない質問。
仕事の会話。
だが高橋は一瞬だけ答えに詰まる。
「まあ、少しだけ」
そう答える。
彼女は小さくうなずく。
「そうなんですね」
その言い方は、ただの確認なのに。
なぜか、少しだけ気にかけられているように感じる。
(またや)
昨日と同じ感覚。
ただの会話のはずなのに。
少しだけ、胸の奥が動く。
「じゃあ、失礼しますね」
彼女が資料を抱え直す。
そのまま去ると思った瞬間――
「高橋さん」
また呼ばれる。
振り返る。
彼女は少しだけ困ったような顔をしていた。
「この棚の資料、場所分かりますか?」
ただの質問。
仕事の延長。
それだけのはずだ。
「ええと、それは多分奥の方ですね」
一緒に棚へ向かう。
距離が少し近い。
横に並ぶ。
歩幅が自然に合う。
そのことに、また少しだけ気づいてしまう。
(なんや、この感じ)
棚の前で立ち止まる。
高橋が資料を指す。
「これですね」
彼女が手を伸ばす。
その瞬間。
ほんの一瞬だけ、手が近づく。
触れはしない。
だが、空気が少しだけ変わる。
彼女は資料を受け取り、小さく笑う。
「助かりました」
その一言だけ。
なのに。
昨日より少しだけ、近い気がした。
彼女は軽く会釈して、その場を離れようとする。
だが、歩き出す前に一度だけ振り返る。
「また、何かあればお願いしますね」
そう言って、今度こそ去っていく。
高橋はその背中を見送る。
(また、か)
その言葉が、昨日より少しだけ重く感じた。
ただの業務連絡。
ただの社交辞令。
それは分かっている。
分かっているのに。
なぜか、“また”という言葉だけが残る。
廊下に一人残される。
静かだ。
でも、さっきよりも少しだけ違う静けさだった。
昼過ぎ。
高橋 恒一は施設内の休憩スペースで書類を確認していた。
窓の外には、ゆっくりとした奈良の光。
急かすものが何もない時間ほど、逆に思考は散らばりやすい。
(仕事に集中や)
そう思って目を資料に戻す。
そのときだった。
「お疲れさまです」
声が、少しだけ近い位置から聞こえた。
顔を上げると、彼女がいた。
美原さとみ。
手にはペットボトルと小さな紙袋。
「これ、どうぞ。余ってたので」
そう言って、軽く差し出す。
「いえ、大丈夫ですよ」
反射的に断る。
だが彼女は、少しだけ首を傾ける。
「無理してません?」
また、その言葉。
昨日から何度も聞いている気がする。
高橋は一瞬だけ言葉に詰まる。
「別に、無理はしてないですけど」
そう答えると、彼女は小さく笑った。
「じゃあ、受け取ってください」
押しつけるわけではない。
でも引き下がる気配もない。
高橋は少しだけ戸惑って、それから受け取った。
その瞬間。
ほんのわずかに指が触れる。
ほんの一瞬。
すぐに離れる。
それだけ。
それだけなのに。
なぜか、少しだけ時間が止まったような感覚が残る。
(なんや、今の)
彼はペットボトルを見下ろす。
ただの飲み物だ。
ただの親切だ。
それは理解している。
だが、なぜかその「親切」が少しだけ重く感じる。
彼女は向かいの椅子に座る。
距離は近くもなく、遠くもない。
自然な距離。
だが、その“自然さ”が逆に落ち着かない。
「今日も忙しいんですか?」
さっきと同じような質問。
「まあ、昨日よりは少し」
そう答える。
会話はそれだけで終わるはずだった。
だが、彼女は少しだけ間を置いてから言う。
「ちゃんと休んでます?」
その一言は、業務とは関係がない。
少しだけ個人的な領域に入っている。
高橋は、また少し言葉に詰まる。
「……休んではいますよ」
そう答えると、彼女は小さくうなずいた。
「ならいいです」
その言い方は軽い。
なのに、なぜか“確認された”ような感覚が残る。
彼女は立ち上がる。
「じゃあ、また」
そう言って去ろうとする。
だが、数歩進んだところで少しだけ振り返る。
「無理しないでくださいね」
それだけ言って、今度こそ去っていった。
残された高橋は、しばらく動かなかった。
ペットボトルを手に持ったまま。
(なんで、こんなこと言われるんやろ)
ただの職員同士のやり取り。
ただの気遣い。
それは分かっている。
それなのに。
“無理してません?”と“無理しないでくださいね”。
その二つの言葉だけが、妙に残る。
彼はゆっくりとペットボトルを開ける。
一口飲む。
冷たいはずの水が、少しだけ違う温度に感じた。
その日の業務が終わる頃には、空は少しだけ橙色に傾いていた。
奈良の夕方は、音がさらに少なくなる。
高橋 恒一は書類をまとめ、施設を出る準備をしていた。
今日も特に問題はない。
仕事としては、いつも通り終わっている。
それなのに。
どこか落ち着かない。
理由は分かっているようで、分からない。
(気にしすぎやろ)
そう自分に言い聞かせる。
そのときだった。
「高橋さん」
背後から声がした。
振り返ると、彼女――美原さとみが立っていた。
「ちょうどよかったです」
軽く微笑む。
「駅まで、ご一緒してもいいですか?」
一瞬、意味を考える。
仕事上の用事はもう終わっている。
だが、断る理由も特にない。
「ええ、構いませんよ」
そう答えると、彼女は自然に並んで歩き出した。
距離は近すぎない。
でも、遠くもない。
歩幅が、少しずつ合っていく。
それに気づいた瞬間、少しだけ意識してしまう。
(別に普通やろ)
そう思う。
思うのに、意識してしまう。
沈黙が少し続く。
だが、気まずくはない。
むしろ、その沈黙が自然だった。
「奈良って、静かですね」
彼女が言う。
「まあ、昔からこんな感じです」
短い会話。
それだけで終わるはずなのに、続きが途切れない。
「こういう時間、嫌いじゃないです」
そう言って、彼女は少しだけ前を見た。
その横顔が、夕方の光に溶けている。
(……)
高橋は一瞬、言葉を失う。
理由はない。
ただ、その言葉が少しだけ引っかかる。
「静かすぎて、考えすぎることもありますけどね」
そう返すと、彼女は少しだけ笑った。
「それは分かります」
その言い方が、妙に自然だった。
駅が近づくにつれて、人の気配が少しずつ増える。
それでも、二人の間の空気は変わらなかった。
雑音の中でも、会話は途切れない。
むしろ、途切れないことの方が不思議だった。
駅の手前で、彼女が少し足を止める。
「ここで大丈夫です」
そう言う。
「そうですか」
高橋も立ち止まる。
距離が、少しだけ空く。
その“空いた瞬間”に、なぜか少しだけ違和感が残る。
彼女は軽く頭を下げる。
「今日はありがとうございました」
「いえ」
短い会話。
終わり。
のはずだった。
だが、彼女はすぐには去らなかった。
一瞬だけ、こちらを見る。
その視線が、少しだけ長い。
そして。
「また明日」
そう言って、静かに背を向けた。
その後ろ姿を見送りながら、高橋は思う。
(また、明日)
ただの言葉だ。
ただの予定確認だ。
それなのに。
その一言が、少しだけ残る。
駅の雑踏の中で、一人だけ時間がゆっくり流れているような感覚。
高橋は歩き出す。
だが、さっきまでの“普通の帰り道”には戻れなかった。
駅で別れたあとも、高橋 恒一の足はしばらくゆっくりだった。
帰宅ラッシュの人の流れの中にいるのに、どこかだけ時間がずれている感覚がある。
(また明日)
その言葉が、頭の中で何度か繰り返される。
特別な意味はない。
仕事の続きがあるだけ。
それは理解している。
それなのに、少しだけ残る。
電車に乗る。
窓の外の景色が流れていく。
いつもと同じ風景。
いつもと同じ時間。
なのに、今日は少し違う。
理由は分かっているようで、分からない。
(なんでやろな)
そう思いながら、視線を窓に向ける。
しかし、思考は勝手に別の方向へ流れていく。
彼女の顔。
美原さとみ。
声。
「無理してません?」
「また明日」
何気ない言葉ばかりだ。
なのに、妙に残る。
(別に、特別なことは何もない)
そう結論づけようとする。
だが、その“結論づけようとする作業”自体が少しだけ遅い。
駅に着く。
家までの道を歩く。
夜の奈良は静かだ。
街灯の光がやわらかく地面に落ちている。
普段なら、何も考えずに歩く道。
今日は違う。
一度だけ立ち止まる。
空を見上げる。
(なんやろな、これ)
言葉にならない感覚。
仕事の疲れではない。
ストレスでもない。
ただ、少しだけ“引っかかる”。
家に着く。
鍵を開ける音がやけに大きく感じる。
部屋は静かだ。
当然だ。
いつも通りのはずの空間。
しかし、今日はその静けさが少し違う。
荷物を置き、椅子に座る。
ようやく息を吐く。
そのとき。
ふと、気づく。
今日一日で、何度も思い出している顔がある。
(……なんでや)
理由がない。
理由はないはずだ。
ただの仕事の相手。
ただの会話。
ただの偶然。
それなのに。
頭のどこかで、何度も再生されている。
「また明日」
その声だけが、少しだけ鮮明だ。
高橋 恒一は、ゆっくりと天井を見上げる。
(別に、何も始まってない)
そう言い聞かせる。
だが、その言葉はもう少しだけ弱かった。
静かな部屋の中で。
何も起きていないはずの一日が、少しだけ形を持ちはじめている。
夜が深くなるにつれて、部屋の静けさはさらに強くなる。
高橋 恒一は、電気を少し落としたまま椅子に座っていた。
仕事の資料はもう机の上にない。
やるべきことは終わっている。
それなのに、頭の中だけが少し落ち着かない。
(何考えてるんやろな)
そう思うが、答えは出ない。
テレビをつける。
音が部屋に広がる。
しかし、内容は頭に入ってこない。
ただの背景音になっている。
リモコンを置く。
静けさが戻る。
その瞬間。
また、彼女の顔が浮かぶ。
美原さとみ。
理由はない。
理由はないのに、出てくる。
「無理してません?」
その声。
少しだけ柔らかい視線。
仕事の会話のはずだ。
だが、その中に妙な“個人の距離”が混ざっている気がする。
高橋は軽く首を振る。
(考えすぎや)
そう言い聞かせる。
だが、消えない。
むしろ、少しずつ形を持ち始めている。
ふとスマホを見る。
通知はない。
当然だ。
それでも、なぜか少しだけ期待している自分に気づく。
(何を期待してんねん)
自分で突っ込む。
だが、その“期待”の正体は分からない。
時計を見る。
まだ夜は長い。
椅子に深く座り直す。
そして、ようやく気づきかける。
今日一日、自分の中で繰り返されているもの。
それは仕事ではない。
会議でもない。
資料でもない。
ただ一人の女性の“言葉と間”だけだ。
高橋 恒一は、そこで一瞬だけ動きを止める。
(……いや)
否定しようとする。
だが、完全には否定できない。
それが何か分からないまま、ただ残っている。
部屋の静けさが、少しだけ深くなる。
その中で。
彼はまだ、その感情に名前をつけられずにいた。
翌朝。
高橋 恒一は、いつもより少しだけ早く目が覚めていた。
理由はない。
目覚ましより前に意識が戻っただけだ。
天井を見上げたまま、しばらく動かない。
静かだ。
その静けさの中に、昨日の残像がまだ残っている。
(今日も行くんか)
そう思いながら、ゆっくり起き上がる。
いつも通りの準備。
いつも通りの出勤。
だが、どこかだけ“昨日の続き”のまま時間が流れている感じがある。
駅までの道。
空気は少し冷たい。
奈良の朝は変わらず静かだ。
それなのに、少しだけ違って見える。
理由は分かっているようで、分からない。
電車に乗る。
窓の外を眺める。
そして気づく。
昨日まで“気になっていなかったもの”が、少しだけ目に入る。
(なんやこれ)
小さな違和感。
それを振り払うように視線を戻す。
職場に着く。
書類。
連絡。
予定確認。
いつもの流れ。
午前中が過ぎる頃。
内線が鳴る。
「文化施設の件で、少し確認お願いします」
その言葉に、手が一瞬止まる。
(またか)
何気ない業務連絡。
それだけだ。
だが、頭の奥が少しだけ反応する。
施設。
彼女。
美原さとみ。
名前を思い出した瞬間。
理由もなく、少しだけ呼吸が浅くなる。
すぐに立ち上がる。
「行ってきます」
誰にともなく言う。
廊下を歩く。
その途中で、ふと思う。
(また会うだけや)
仕事だ。
それ以上でも以下でもない。
そう言い聞かせる。
だが。
その“言い聞かせ”は、昨日より少しだけ弱い。
施設が見えてくる。
入口の前。
一度だけ足が止まる。
理由はない。
ただ、ほんの少しだけ間を置く。
そして。
扉を開ける。
中は静かだ。
受付を抜けると――
彼女がいた。
美原さとみ。
昨日と同じ場所。
同じように書類を持っている。
彼女は顔を上げる。
目が合う。
一瞬。
そして、自然に微笑む。
「おはようございます」
その声は、昨日と同じだった。
なのに。
なぜか少しだけ違って聞こえる。
高橋 恒一は、一拍遅れて返す。
「おはようございます」
その瞬間。
昨日まで“ただの仕事”だったものが、少しだけ形を変え始める。
何かが始まっているのか。
まだ始まっていないのか。
それすら分からないまま。
ただ一つだけ確かなのは――
もう、昨日と同じには戻れないということだった。
(第2話 完)




