秋晴れ
蝉が鳴く季節は過ぎた。夏の面影はいつの間にか薄れ、既に秋の貌を顕わし始めている。今日の午後、私はある場所を再び訪れた。そこにそうあるのに実感のない光景だけが広がっている。何かが起こったというわけではない。ただ、何も起こらなかったが故にそのようにある「アクシオン」というカフェに。
「友好的な猫に頻繁にコーチする」
「カイワレ大根に大胆に告白する」
「ミットもナイト」
壁に掛けられたシュールかナンセンスか駄洒落なのかよく分からない標語は、この店のオーナーの趣味で印字されたものである。そういう前衛的な雰囲気を漂わせているカフェの常連だった私は、多分その雰囲気がよく分からないなりによく理解していて、つまり「よく分からない」ものだという事をはっきり理解していたので、この店に来てよく分からないものを見るたびに「何でだろうと」頭を捻らせて楽しんでいた。よく分からないもの、特に物体としては、猿と犬が結婚している様をイメージしたオブジェとか、来るものを拒んでいる商人とかの像とか、それ自体として成り立たないような物ばかりが置いてあった。一応、それらは今も店の奥にしまわれているようだが、それを見る事は叶わないかも知れない。
夏は過ぎた。今年の夏は何となく憂いていたように思う。行く末とか、どうなるかも分らない経済の事とか、親類のあれやこれやとか。頭に何かがのしかかってくるような、そんな時、私はこの店を訪れていた。店主兼オーナーは、大の愛猫家で、猫アレルギーを持つ客の事を考えて、普段は居住スペースとなっている二階から下には猫を立ち寄らせないようにしていたが、その点については問題のない私のような客の依頼があれば、飼っている猫を触らせてくれたりもした。去年、店長が体調を崩してからは、常連の人が時々見舞うくらいで、店としては休業という状態である。オーナーは私に良くしてくれたし、信頼もしてくれたらしい。一時病院に入院になった際に、猫をよろしくと言われ、二週間ほど預かった。その時、猫は、何となくだが心細そうに窓の外ばかり見ていた。一応店長は回復したが、年齢的なものと以前ほどの体力が無くなったという事で、殆ど店を開けていない。
それでも定期的に、「今日はやっているかも知れない」と思ってこの場所を訪れる事にしている。寂寞とでも言うのだろうか、訪れるたびに胸の中に起るこの想いは。しかし、決してこの光景を拒絶しているわけではない。続いているものは、いつか終わりが来るし、ずっと上手く行くとは限らない。当たり前のように見えていたものを、再び取り戻したいという気持ちも起こるけれど、今は記憶の中で繰り返されるあの日の「何だろうな?」という感覚を引き起こさせてくれた大切な場所を、私に提供してくれた主人に感謝している。
私の今日の目的は二つあった。一つは主人の様子を確かめる事。私は少し傾斜がきつい階段を昇って声を掛けた。店主は「どうぞ」と比較的元気そうな声で返してくれた。彼はわりと広々としている部屋で、猫と一緒にベットに腰掛けていた。
「やあやあ。このたびはどうも。お久しぶりだね」
「いえいえ、こちらこそ。身体の具合はどうですか?」
「うん。最近は結構いいよ」
店主とのやりとりや表情から、彼が今は結構元気であるという事、猫も元気であるという事、そして、実は月に何度が店を開けているという事を知った。一つ気になったのは、店主のベッドの枕元に見慣れない書物があったという事だ。私は思い切って質問してみる事にした。
「ああ、これかい?実はね店に飾ってあるもののヒントは主に書籍から探しているんだよ。だけどそのまま抜きだすと、何となく説教くさくなる。私はそういうの得意じゃないから、わざと何となくそれっぽい言葉にアレンジしてしまう事にしているんだよ」
「あ…。それちょっと聞かない方が良かったかも…」
「もっと深いメッセージだと思った?でもね、これは哲学書かなんかの言葉を覚えているんだけども、『深い』とかって、そんなに大した事じゃないんじゃないかって、最近は思うんだよ」
「『深い』ですか…?その、『奥が深い』とかの?」
「そうそう。でも『奥が深い』っていうのはちゃんと内容があるね。なんていうんだろう、一般的に『心の奧深くから』とか、そういう『深い』って、複雑にっていうか壮大なものだと思わせやすいけど、結局それも表に出て初めて内容になるわけでしょ。だから、『深い』ものがあるとしても、それを本当にあるものだと『実感』できないなら、軽々しく『深い』なんてことはいっちゃあいけないんだと思う。大体、ぼく自身が深くもなんともない人間だとしたら、『深い』ってことを実際にあるものだと納得できることってないんじゃないのかな…」
「でも…それって」
「まあ、君の思う通り、そういう考え方をするのが『深い』というのなら、その程度には深いんじゃない?でも本当に『深い』ものって表には現れないでしょ?」
「まあ、確かに」
「さて、似合わない哲学モドキはここでお終い。肝心の君の要件は?」
「それが、実は常々思っていた事なんです。でも私のような者が図々しくないかと思っていたので切り出せなかったんです。今日は言いますけど」
「なんだい?実はこの店を手伝いたいとか?」
「え…?分りましたか!?どうして?」
「図星か…いやね、君みたいに人が良いって言うか、責任感が強いって言うのかな、そういう人って、自分が何か出来ないかって思っちゃうんだろうね。それは悪い事じゃないんだよ。実際、有難いという部分もあるし」
「じゃあ…」
「ちょっと待って欲しいんだ。実はぼくは仕事が趣味みたいなものでさ、この店は良くも悪くもぼくの作品みたいなところがあるんだ。だからね、ぼくがもう限界かなって思うところである意味、ぼくの仕事は終わるんだけれども、ぼくも満足できるところまで、続けたい。そう思うようになったんだ。そして君は、そんな店をこよなく愛してくれる常連の一人。その常連さんに、続いているって思わせられたら、もしかしてそれだけで意味があるのかも知れない」
「確かに、私もこの店でもう少しゆっくり過ごしていたいです。猫も一緒に」
「前みたいに完全な姿じゃない。でもね、何らかのカタチで続いているんだよ」
私はその時、何か胸の中が温かくなるような気がした。そう、何かが途絶えているように見えたこの店は、実はひっそり続いていて、その続き方それ自体も、この店なのである。私は笑顔で店主に言った。
「じゃあ、また期待していいんですね?」
「おいおい!!ぼくを誰だと思っている?期待には斜め上で返すのがぼくさ」
この街の一角にも穏やかな秋が訪れている。




