第6話:届いた命令書と、泥の付いた靴
静寂が戻った『嘆きの砦』に、場違いなほど着飾った騎馬隊が現れたのは、帝国軍が撤退してからわずか数時間後のことだった。
彼らが纏うのは、王都の近衛騎士団が用いる純白の外套。
泥に汚れ、血に塗れた砦の兵士たちとは、あまりに対照的な姿だ。
「……リシャール・ド・ルミエール! 勅命である、直ちに門を開け!」
先頭に立つ男の声に、リシャールは物見櫓から静かに視線を落とした。
見覚えがある。
王都でリシャールを「無能」と呼び、計算尺を笑い飛ばした騎士団長ガイルスの側近だ。
エリザが剣の柄を握り、低く唸る。
「……ガイルスの犬か。帝国軍が攻めてきている間は一兵も寄こさなかったくせに、終わった途端にこれか」
「正確には、帝国軍が『自滅』したのを遠くで見ていて、手柄を拾いに来た……という計算になりますね」
リシャールは淡々と答え、開門を命じた。
中に入ってきた使者は、馬を降りるなり鼻をつまみ、泥だらけの地面を忌々しげに睨みつける。
「不潔な場所だ。……おい、無能のリシャール。喜べ。ガイルス閣下が温情をかけてくださった。帝国軍を退けた『まぐれ』を評価し、特別に王都へ戻ることを許してやる。今すぐ荷物をまとめろ」
使者が突き出したのは、仰々しい封蝋がなされた命令書だ。
リシャールはそれを受け取ることなく、手元の計算尺で使者の足元を指差した。
「……三センチ、ずれています」
「はあ? 何を言っている」
「あなたの立ち位置です。そこは先ほど僕が意図的に地盤を緩めた場所だ。あと三センチ左に寄らないと――」
ズブッ、という鈍い音。
使者の磨き上げられた高級な長靴が、足首まで泥の中に沈み込んだ。
「ひ、ひぃっ!? 私の靴が! この泥、汚い、離れろ!」
「……忠告はしました。それで、王都へ戻れというお話ですが。僕の計算では、今の王都に戻っても『公式地図の修正』という退屈な仕事しか待っていない。ここにはまだ、測りがいのある『未知』が溢れています」
リシャールは使者の目の前で、命令書をひらりと地面に落とした。
泥にまみれ、文字が滲んでいく。
「な、貴様……正気か! これは騎士団長閣下の――」
「閣下によろしくお伝えください。『あなたの戦略図は、まだ十メートルずれたままですよ』と」
背後で、エリザが堪えきれずに吹き出した。
彼女は一歩前に出ると、大剣を地面に突き立て、使者を射抜くような鋭い視線で睨みつける。
「聞こえなかったか? 私の主は、ここがお気に入りだそうだ。……帰れ。さもなくば、その汚い靴ごと、もっと深い泥沼に埋めてやろうか?」
エリザの放つ圧倒的な武人の威圧感に、使者は顔を青くして馬に飛び乗った。
命からがら逃げ去っていく王都の騎馬隊。その背中を見送りながら、リシャールはふっと息を吐いた。
「……リシャール。いいのか? あれで本当に、王都を敵に回したぞ」
「構いません。数字が通じない相手と仕事をするのは、もう飽きましたから。……それよりエリザ殿、次の測量の準備を。帝国軍は退きましたが、この先の渓谷にはまだ『地図にない道』があるはずです」
リシャールは、泥の付いた計算尺を丁寧に拭い、遠く広がる未踏の荒野を見つめた。
王都の権威も、帝国の武力も、彼の描く「真実の地図」の前では無力に等しい。
「……さあ、世界を正しく測り直しましょう」




