第3話:魔法の霧と、狂わぬ目盛り
先遣隊五百が泥に沈んだという報は、帝国軍本隊三千を震撼させた。
だが、敵も無策ではない。地平線の向こう、黒い軍勢の中から一際禍々しい杖を掲げた影が三つ、前に出た。
「……リシャール殿。空の色が変わったぞ」
砦の物見櫓の上、エリザが剣の柄を握り締め、空を仰いだ。
先ほどまでの晴天が嘘のように、赤黒い霧が戦場を覆い始める。視界は十メートル先も見えない。それどころか、霧に触れた地面が波打つように歪んで見えた。
「帝国軍所属の『幻惑魔導師』ですね。魔法で光を屈折させ、地形そのものを誤認させるつもりです」
リシャールは冷静に、霧の流れる速度を計算尺で測っていた。
砦の兵士たちが悲鳴を上げる。「道が消えた!」「崖が迫ってくるぞ!」
魔法によって、本来あるはずの道が消え、底なしの谷に見えるはずのない橋が架かって見える。視覚というもっとも頼りになる情報が、帝国軍の手によって「嘘」に書き換えられたのだ。
「これでは戦えぬ。一歩踏み出せば、幻の谷底へ真っ逆さまだ」
エリザの声に焦りが混じる。彼女のような武人にとって、地面が信じられなくなることは死に等しい。
だが、リシャールは霧の中に一歩踏み出し、地面をコツ、と計算尺で叩いた。
「エリザ殿。魔法は光を曲げますが、重力と質量は曲げられません。どれほど景色が歪もうと、僕が測り、記録したこの大地の『骨格』は一ミリも動いていない」
リシャールは懐から束ねた杭と、細い麻紐を取り出した。
「僕がこれから霧の中へ歩を進めます。あなたは僕の腰に結んだこの紐を握り、僕の足跡だけを辿ってください。……僕を信じられますか?」
「……愚問だな。貴殿の『数字』には、先ほど完敗したばかりだ」
エリザは力強く頷き、リシャールの細い腰に回された紐を掴んだ。
視界ゼロの死地。リシャールは目を閉じた。いや、彼にとって目はもはや必要なかった。脳内には、昨夜までに完璧にマッピングされた「真実の3D地図」が展開されている。
(左へ三歩、傾斜角度四度。その先、六歩目に硬い岩盤。……今だ)
「エリザ殿、右前方へ一突き! そこに、幻惑を維持している魔導師の『触媒』があるはずです」
エリザは迷わなかった。リシャールの指し示す、濃霧の「何もない空間」へ向かって、銀の剣を閃かせる。
ガキン、と硬質な音が響き、虚空から装飾の施された杖が叩き折られて現れた。
「な、何だと……!? 完璧な幻覚の中、なぜここが分かった!」
霧の向こうから魔導師の驚愕の叫びが聞こえる。
杖が折れた瞬間、赤黒い霧が霧散した。
そこには、リシャールの予測通り、岩陰に隠れて術を唱えていた魔導師たちの姿が剥き出しになっていた。
「魔法で景色は書き換えられても、あなたが杖を突いた地面の『硬度』までは変えられなかった。……音の反響で、そこだけ岩が露出しているのは分かっていましたから」
リシャールは淡々と告げ、次なる杭を地面に打ち込む。
「エリザ殿、そのまま直進を。帝国本隊の陣形が、霧が晴れたショックで乱れています。……今なら、三千の軍勢を一人で押し返せますよ」
「承知した! 軍師殿の座標、一歩たりとも違わずに駆け抜けよう!」
赤髪の乙女が、雷光のような速さで帝国軍へ突っ込んでいく。
リシャールは再び計算尺を手に取り、独りごちた。
「さて、三千人を同時に転ばせるには、あと何本の杭が必要かな……」




