第2話:鉄の乙女と泥の軍師
「……四十二、四十三、四十四。……やはりな。この地点、公式図より粘土層が三層ぶん厚い」
嘆きの砦の正面。
なだらかな草原が広がるその場所で、リシャールは地面に膝をつき、泥まみれの手で計算尺を操っていた。
背後から、荒々しい馬の嘶きと、金属が擦れる音が近づく。
「貴殿が王都から流れてきた軍師か。……何をしている、そんなところで。泥遊びなら故郷でやるがいい」
凛とした、しかし棘のある声。
振り返ると、そこには燃えるような赤髪を一つに束ねた女騎士が立っていた。
使い古されているが、鏡のように磨かれた銀の甲冑。
その瞳には、隠しきれない失望の色が浮かんでいる。
「……四十五。邪魔ですよ、そこ。あなたの重さで地面の沈み込みが変わる」
「なっ……礼儀を知らぬ男だな。私はエリザ・フォン・アステリア。貴殿の監視と、この砦の『殿』を命じられた身だ。王都を追われた身同士とはいえ、こんな臆病者のために私が命を捨てる必要はないと思っていたが……案の定だな」
エリザ。かつて王立騎士団で「実直すぎる」と疎まれ、上官の不正を暴こうとして逆に返り討ちに遭い、この最果てに送られた『鉄の乙女』だ。
リシャールは泥を払い、静かに立ち上がった。
「臆病者、ですか。……エリザ殿、あなたの持つその立派な剣は、何のためにあるのです?」
「決まっている。弱きを守り、正々堂々と敵を討つためだ!」
「僕の測量も同じですよ。……来るようです。あなたの言う『正々堂々』な連中が」
地平線の向こうから、地鳴りのような音が響き始めた。
帝国軍の先遣隊。その数、およそ五百。
全身を分厚い鋼鉄の鎧で包んだ重装騎兵たちが、太陽の光を反射させながら、津波のようにこちらへ向かってくる。
「……敵軍、視認! 全員、戦闘用意!」
砦の老兵たちが震えながら弓を構える。
だが、五百の鉄塊が突撃してくれば、こんなボロボロの門など一突きで粉砕されるだろう。
エリザが愛剣を引き抜き、馬の腹を蹴った。
「私が囮になる。リシャール、貴殿は今のうちに逃げろ。……せめて軍師らしく、この無様な戦いの記録でも残しておくがいい!」
「逃げる必要はありません」
リシャールはエリザの手綱を掴み、強引に止めた。
「何をする! 放せ、死にたいのか!」
「死にたければ行けばいい。ですが、僕の計算に従えば、あなたは指一本動かさずに勝てる」
「……何を言って――」
突撃してくる重装騎兵の先頭が、リシャールが先ほどまで跪いていた地点
――「百歩目」に差し掛かった。
その瞬間、世界から音が消えた。
ズォ、という嫌な音が戦場に響く。
平坦に見えた草原が、突如として獲物を飲み込む獣の口のように陥没した。
「な……っ!? 地面が、沈んで……!?」
エリザが絶句する。
リシャールの測量によれば、その地点は地下水脈が集中し、地盤が極めて不安定な「液状化予備軍」だった。そこへ、数百騎の重装騎兵という「過大な振動と重圧」が加わったことで、強固に見えた大地は一瞬にして底なしの泥沼へと変貌したのだ。
先頭の騎兵が転倒し、後続がそれに乗り上げる。
重い鎧が仇となり、一度転んだ騎士は二度と起き上がれない。
帝国最強と謳われた騎兵隊が、たった一人の「無能軍師」が描いた地図の上で、滑稽なほど無様に泥に塗れていく。
リシャールは計算尺を懐にしまい、眼鏡の位置を直した。
「公式地図は『平坦な草原』と嘘をつきますが、僕の歩測は嘘をつきません。……四十五センチ。彼らの鎧の重さなら、それだけの泥があれば十分です」
戦場に流れるのは、帝国軍の悲鳴と、静かな風の音だけ。
エリザは、剣を構えたまま凍りついていた。自分の信じてきた「武力」が、定規一本の「数字」に完敗した瞬間を、彼女は目の当たりにしたのだ。
「……貴殿は、一体何者だ」
「ただの測量士ですよ。さて、エリザ殿。本隊三千が来る前に、次の座標へ移動しましょうか」
エリザは震える手で剣を鞘に収めると、リシャールに向かって深く、深く頭を下げた。
「……侮っていた。撤回する。リシャール殿……私の剣を、貴殿の計算のために使わせてくれ」
地図の上に、最初の「勝利」が刻まれた。




