第1話:その進軍、十メートルずれています
王立軍事戦略会議室。
磨き上げられた大理石の床に、軍靴の音がやけに高く響く。
円卓の中央には、王国全土を描いた極彩色の羊皮紙。
通称『聖王国の至宝』と呼ばれる最新の軍用地図が広げられていた。
「これより、帝国国境へ向けて第三騎士団を派遣する。一気に『沈黙の谷』を抜け、手薄な敵の背後を突く。作戦に異論はあるか?」
傲慢なまでに自信に満ちた声の主は、王国最強と名高いガイルス騎士団長だ。
並み居る将軍たちが頷くなか、部屋の隅に控えていた一人の青年が、静かに手を挙げた。
「……恐れながら、騎士団長。その作戦、十メートルずれています」
静寂が会議室を支配した。
リシャール・ド・ルミエール。
名門軍師家系の三男でありながら、魔力測定不能、剣術は万年最下位。
この戦略会議には「記録係」として出席を許されているだけの、一族の『無能』。
彼が懐から取り出したのは、使い古された銀の計算尺だった。
「何だと?」
「地図の修正が必要です。この『沈黙の谷』の入り口、公式図では北緯三十二度付近となっていますが、実際の標高と日照角度から逆算すると、北に約十メートル、西に三メートルほど北西にずれています」
リシャールは淡々と、しかし確信に満ちた声で続けた。
「わずかな差だと思うかもしれません。ですが、重装騎兵が時速二十キロで駆け抜ける際、この『ズレ』は致命的です。公式図にない隠れ岩の配置、そして谷特有の突風に巻き込まれ、先頭集団が落馬する。その混乱を狙われれば、一分も経たずに全滅します」
ガイルスが、怒りに顔を赤く染めて身を乗り出した。
「黙れ、無能が! この地図は王国最高の宮廷魔導師たちが千里眼の魔法を駆使して作成したものだ。それを、魔力も持たぬ貴様が歩いて測っただけの、泥臭い紙切れと比較するのか?」
「魔法は視覚を誤魔化しますが、数字は嘘をつきません」
リシャールの言葉は、火に油を注いだ。
ガイルスは計算尺を奪い取ると、それを床に叩きつけた。
硬質な音を立てて、リシャールの唯一の武器が跳ねる。
「貴様の顔はもう見たくない。軍師失格だ。……おい、こいつを今すぐ辺境の『嘆きの砦』へ送れ。そこで一生、泥の深さでも測っていろ!」
周囲の将軍たちから、冷笑と嘲りの視線が突き刺さる。
リシャールは何も言わず、床に落ちた計算尺を拾い上げた。
磨り減った目盛りを指でなぞり、彼は心の中で計算を修正する。
(十メートルどころじゃないな。あそこは堆積岩だ。騎士団が踏み込めば、振動で崖崩れが起きる。……まあ、もう僕の知ったことじゃないか)
彼は静かに一礼し、会議室を後にした。
一週間後。
リシャールが辿り着いたのは、王国の最果て、今にも崩れそうな石造りの砦だった。
守備隊はわずか三十人。やる気を失った老兵と、武器の持ち方も怪しい新兵ばかり。
そして目の前には、帝国最強の「鉄血騎士団」三千が、地平線を埋め尽くすように進軍してきている。
「軍師殿……もう終わりだ。こんな古びた砦、奴らが一息つけば粉々だ」
震える新兵の言葉に、リシャールは手元のボロボロの羊皮紙――自分だけが書き込みを続けた「真実の地図」を広げた。
「いや。まだ終わってない。むしろ、ここからが僕の領域だ」
リシャールは、砦の正面にあるなだらかな斜面を指差した。
公式地図では「平坦な草原」とされているそこは、リシャールの精密測量によれば、地下水脈が複雑に入り組んだ「巨大な空洞地帯」の真上だった。
「彼らが勇ましく突撃を開始して、ちょうど百歩目。そこが、帝国最強の墓場になる」
リシャールは計算尺を取り出し、静かに眼鏡の位置を直した。
その瞳には、誰にも見えていない「勝利への座標」が、鮮やかな線となって描かれていた。




