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第8章:狂犬の進攻

カジノステーションでの屈辱的な敗北から一ヶ月後。


銀河を二分する国境線、通称『黒曜石の宙域』。光さえも吸い込む暗黒星雲が広がるこの無音の海で、かつてない規模の殺戮が幕を開けようとしていた。

汎銀河共和連盟・第5特務機動艦隊、旗艦『アストライア改』。


ブリッジの照明は赤一色に染まり、戦術モニターには異様な数値が羅列されていた。


「全艦、機関出力120%を維持! 『星晶スター・クォーツ』の燃焼効率、理論値の限界を突破しています!」


オペレーターの悲鳴に近い報告に、アレクセイ・イワノフ少将は琥珀色の瞳をギラつかせた。


3,200億クレジットという、連盟の国家予算を傾けるほどの天文学的負債。本国の政治家たちは激怒し、彼の更迭は時間の問題となっていた。アレクセイに残された道はただ一つ。この出撃で、憎きローゼンバーグ少佐の首を物理的に本国へ持ち帰ることだ。


彼が率いるのは、装甲を限界まで削ぎ落とした次世代型ステルス駆逐艦『黒鳥ブラック・スワン』級300隻と、それを支援する高速巡洋艦群。その全ての動力炉には、オークションで競り落とした最高純度の星晶が惜しげもなく焚べられていた。


「装甲など要らん。シールドへのエネルギー供給も切れ。全てを推進力に回せ」


アレクセイはシートから立ち上がり、前方の暗黒宙域を睨みつけた。


「彼女は言ったな。投資利益率がマイナスだと。ならば、この3,200億の狂気を以て、彼女のその冷え切った計算式ロジックを粉々に叩き割ってやる。全艦、突撃ウラー!」


圧倒的な推進力を得た黒鳥の群れは、ステルス迷彩すら摩擦熱で焼き切るほどの異常な速度で、帝国軍の防衛線へと殺到した。


同時刻、黒曜石の宙域・帝国防衛ライン第4セクター。


第11独立機動艦隊の旗艦『ガルム』のブリッジには、警報音がけたたましく鳴り響いていた。


「敵艦隊、信じられない速度で接近! 予測到達時間、あと120秒! 馬鹿な、連盟の艦艇がこんなスピードを出せるはずが……!」


副官が血の気を失った顔で叫ぶ。


「出せるさ。彼らの動力炉には、1キログラムで小惑星を吹き飛ばせる純度の『星晶』がフル充填されているんだからな」


艦長席に座るリネア・フォン・ローゼンバーグ少佐は、手元のコーヒーカップを置きながら冷淡に言った。


「3,200億の借金取りが、血眼になって押し掛けてきたというわけだ。実に非合理的で、恐ろしい執念だな」


「少佐! 呑気なことを言っている場合ではありません! 我が艦隊のエンジン出力は、あの代替燃料のせいで規定値の70%しか出ていません! 正面からぶつかれば、速度差で一方的に蹂躙されます!」


操舵長が舵輪を握りしめながら叫ぶ。オークションの裏でリネアが50億で買い叩いた安物の人工燃料は、燃費こそ良いものの、瞬発力では最高級の星晶に遠く及ばなかった。


「分かっている。F1カー相手に、軽トラックで直線勝負を挑む馬鹿はいない」


リネアは戦術マップを全画面に展開した。


「全艦に告ぐ。迎撃態勢を放棄しろ。これより我が艦隊は、背後に広がる『黒曜石の暗黒星雲』の深部へ向けて後退する」


「撤退ですか!? しかし、あの速度差では逃げ切る前に背後を撃たれます!」


「『逃げる』のではない。『引きずり込む』のだ」


リネアの灰色の瞳が、氷の刃のように鋭く細められた。


「安い代替燃料の最大のメリットは何か知っているか? 不純物が多い分、燃焼時の『熱源反応シグネチャー』が極端に低いことだ。逆に、星晶をオーバードライブさせている敵艦隊は、暗闇の中で自ら『私はここです』と松明を掲げて走っているようなもの」


戦術マップ上で、リネアは暗黒星雲の中に複雑な網の目のようなルートを描き出した。


「星雲内の高濃度ガス帯に突入し、熱源を完全に同化させろ。敵は速度が出過ぎている分、小回りが利かない。直線の逃走ではなく、地形を利用した急旋回とデブリを盾にした『泥試合』に持ち込む。……3,200億の高級車を、泥沼に引きずり込んで車輪を空回りさせてやれ」


「敵艦隊、反転! 暗黒星雲の内部へ逃げ込みます!」


アストライア改のブリッジで、レーダー手が叫んだ。


「代替燃料で出力の落ちた船で、我々から逃げ切れるとでも思ったか!」


アレクセイは狂気じみた笑みを浮かべた。


「追え! 多少のガスやデブリなど、星晶の推進力で全て力押しで突破しろ! ローゼンバーグ、君の姑息な計算は、圧倒的な物理法則の前に崩れ去るのだ!」


連盟の『黒鳥』部隊が、星雲の暗闇へと突入したその直後だった。


「――ッ!? 先頭の第1小隊、ロスト! デブリに衝突したわけではありません! 星雲のガス帯に潜んでいた敵艦から、至近距離で一斉射撃を受けました!」


「何だと? センサーには何も映っていなかったはずだ!」


アレクセイが驚愕する間にも、通信機から次々と悲鳴が上がる。


『こちら第4小隊! 敵の熱源が星雲のガスと完全に同化しており、捕捉不能!』


『速すぎる! こちらの速度が速すぎて、回避運動が間に合いません!』


暗黒の泥沼の中で、リネアの部隊は完全に気配を消していた。


低出力のエンジンは熱源を隠す最高の迷彩となり、猛スピードで突っ込んでくる連盟の艦艇に対し、死角からのゼロ距離射撃を浴びせては再び闇へと消えていく。


「……計算通りだ」


ガルムの艦橋で、リネアは無機質に撃墜スコアのカウンターが跳ね上がるのを見つめていた。


「敵は推進力にエネルギーを全振りし、シールドを捨てている。当たれば紙だ。徹底的に足を引っ張れ。彼らの星晶が尽きるまで、この暗闇で踊ってもらうぞ」


狂速の猟犬と、暗闇の亡霊による、血を吐くような消耗戦の火蓋が、ついに切って落とされた。

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