第12章:野に放たれた猟犬
銀河の最辺境、星図にもその名が記されることのない暗黒宙域。流刑惑星『タータラス』。
ここは汎銀河共和連盟の法が一切届かない、正真正銘の地獄である。
空は有毒な重金属のガスで黄色く濁り、絶え間なく降り注ぐ酸性雨が地表の廃棄プラントを赤錆色に染め上げている。
連盟の刑務官すら軌道上の監視ステーションから降りてこないこの星では、宇宙海賊、脱走兵、凶悪犯たちが独自のコミュニティを築き、水と食料、そしてわずかなエネルギーを奪い合って殺し合う日々が続いていた。
アレクセイ・イワノフがこの星に投棄されてから、およそ一ヶ月。
かつての純白の軍服は見る影もなく、薄汚れた灰色の囚人服に身を包んだ彼は、タータラスの赤錆びた大地を静かに歩いていた。
彼の周囲には、彼を身ぐるみ剥がそうと狙う野盗たちの死体が、すでに十数体転がっている。
彼らは一様に、アレクセイが奪った鉄パイプやレーザーナイフによって、頸動脈や心臓といった「最も効率的な急所」を正確に貫かれていた。
「……合理主義の化け物に感化されたか。私もずいぶんと泥臭くなったものだ」
アレクセイは己の顔に跳ねた返り血を拭いもせず、冷たく笑った。
彼が目指しているのは、この星で最大の勢力を誇る海賊シンジケート『ブラッド・ハウンド』のアジトであった。
かつての採掘プラントを不法に改造した巨大な要塞。その分厚い防爆ゲートの前に立つと、監視カメラが一斉に彼を捉え、スピーカーから下品な笑い声が響いた。
『おいおい、新入りの元・将軍様じゃねえか。命知らずにも俺たちのシマに何の用だ? 脳天に風穴を開けられる前に、持ってる水と食料を置いてさっさと消えな』
アレクセイは表情を変えず、懐から血に染まった小型の演算端末を取り出した。それは、先ほど襲いかかってきた野盗から奪い取った、数世代前の粗悪なジャンク品だ。
「君たちの防衛システムは、連盟の旧式AI『ケルベロス・バージョン3』をベースにしているな。パスワードの暗号化プロトコルに致命的な脆弱性がある。……例えば、こうだ」
アレクセイが端末のキーをわずか数秒、流れるような手つきで叩いた瞬間。要塞全体を覆っていた重力シールドがフッと消滅し、防爆ゲートがけたたましい警報と共にゆっくりと開き始めた。
スピーカーの向こうで、海賊たちの慌てふためく声が響く。
『な、なんだ!? ゲートが勝手に! 迎撃タレットも沈黙してやがる!』
「戦術の基本だ。門が堅ければ、鍵穴を溶かせばいい。……入るぞ」
アレクセイは悠然と、武装した数百人の海賊たちが待ち構えるアジトの深部へと足を踏み入れた。
巨大なドーム状の広間では、海賊の首領であるサイボーグの大男が、震える手で大型のブラスターライフルをアレクセイの眉間に突きつけていた。
「て、てめえ……! 何の魔術を使いやがった! たった一人で、丸腰で俺たちをどうするつもりだ!」
周囲を数百の銃口に囲まれながらも、アレクセイの態度はかつて連盟の旗艦で指揮を執っていた時と何一つ変わらない、圧倒的な支配者のそれだった。
「魔術ではない。君たちの頭が致命的に悪いだけだ」
アレクセイは首領の銃口を指先で軽く払い除け、広間の中央にある作戦テーブルに堂々と腰を下ろした。
「提案がある。君たちの組織が保有している旧式の武装輸送船20隻、およびその乗組員を全て私が貰い受けよう」
「……は? てめえ、寝言は寝て言え! なんで俺たちが連盟を追い出された敗北者の下につかなきゃならねえんだ!」
「選択肢は二つだ」
アレクセイの琥珀色の瞳が、極寒の吹雪のように冷たい光を放った。
「一つ目。この場で私をハチの巣にすること。ただし、私はすでにこのプラントの生命維持装置のマスター権限を掌握している。私の心肺が停止した瞬間、このドームの空気が全て宇宙空間に排出され、君たちは3分以内に血を吐いて窒息死する」
海賊たちの顔から一斉に血の気が引いた。ブラスターを構える手が震え、互いに顔を見合わせる。
「二つ目。私の『牙』となり、連盟の金庫から一生遊んで暮らせるだけの富を略奪すること。……私は祖国という首輪を外された。もはや守るべき法も、気にするべき支持率もない。連盟の輸送ルート、防衛網の死角、すべて私の頭の中にある。私に従えば、銀河の富の半分を君たちに約束しよう」
圧倒的な知と狂気を前に、海賊の首領はゆっくりと銃を下ろした。彼らは本能で理解したのだ。目の前にいる男は、ただの敗残兵などではない。飢えきった本物の化け物だと。
「……俺たちに、何をさせたい」
「『ブラッド・ハウンド(血まみれの猟犬)』という名は陳腐だ。今日から君たちは『黒狼』と名乗れ。神を喰い殺す終末の獣だ」
アレクセイは薄暗いアジトの天井を見上げ、そこにはいない宿敵の姿を思い描いた。
「待っていろ、ローゼンバーグ少佐。私の新しい牙は、君が教えてくれた『泥水』の味を覚えた。君の絶対の数式を噛み砕くまで、私は決して止まらない」
銀河の最底辺の泥沼から、新たな恐怖が産声を上げた瞬間であった。




