第1章:シリウス回廊の死神
「全艦、機関停止。慣性航行へ移行。通信波、光学迷彩、すべて『死んだふり(デッド・サイレンス)』を維持しろ」
艦橋に響くリネア・フォン・ローゼンバーグ少佐の声音は、絶対零度の宇宙空間よりも冷ややかだった。
彼女が座乗する旧式巡洋艦『アルテミス』を含む第8遊撃艦隊、計120隻。彼らに与えられた任務は、迫り来る汎銀河共和連盟の精鋭・第3艦隊(3,000隻)の足止めである。
軍上層部の無能な貴族将官が立案したこの作戦は、戦術論はおろか算数すら放棄していた。「帝国の盾として名誉の戦死を遂げよ」という、体裁の良いトカゲの尻尾切りである。
「少佐……敵艦隊、第3警戒宙域を突破。本艦隊との接触までおよそ1200秒」
副官の青年中尉が、悲痛な面持ちで報告する。彼の目には、確実な死への絶望が浮かんでいた。
リネアはため息をつき、手元の戦術端末のパネルを無機質に叩いた。
「泣き言を言うな、中尉。死にたくなければ私の言う通りにしろ。我々は帝国万歳を叫ぶためにここにいるのではない。明日も温かいコーヒーを飲むためにいるのだ」
リネアの視線の先、メインスクリーンには小惑星帯「シリウスの墓標」の三次元マップが映し出されていた。高濃度の磁気嵐と無数の暗礁宙域が入り組む、航行不能の絶対死地。
「敵の指揮官は定石を好む秀才だ。圧倒的戦力差を背景に、我が艦隊を包囲殲滅しようと正面から陣形を展開する。そこを叩く」
「叩くと言いましても、たった120隻でどうやって……!」
「物理学と引力に働いてもらう。全艦、座標アルファ・スリーへ機雷を一斉射出。ただし、起爆はさせるな。推進剤を抜き、ただの『質量兵器』として重力井戸へ投下しろ」
副官は息を呑んだ。小惑星帯の不安定な重力バランスの要所に物理的衝撃を与えれば、何が起きるか。小惑星同士の玉突き衝突による、人工的なデブリ・サージ(岩石の津波)の発生である。
「しかし少佐! それでは我々も巻き込まれます!」
「だから『死んだふり』をしている。動力炉の熱源を絶ち、デブリと同じ速度で慣性ドリフトすれば、システム上我々はただの岩石と同化する」
リネアは薄く、ひどく冷酷な笑みを浮かべた。
「連盟の優秀なAIレーダー網が、ただの岩石の動きまで警戒してくれるといいがな」
800秒後。
整然たる陣形を組み、威風堂々と進軍してくる共和連盟の艦隊群の側面に、突如として宇宙の闇から「地獄」が襲いかかった。
予測不能の軌道で殺到する数百万トンの岩石群。それは強固なエネルギーシールドを物理的な質量で容易く粉砕し、次々と連盟の巡洋艦や戦艦の装甲を紙のように引き裂いていく。音のない真空の海で、無数の閃光が咲き乱れた。
「敵艦隊、大混乱! 陣形崩壊! 指揮系統が寸断されています!」
通信士の絶叫に近い報告を聞きながら、リネアは静かに立ち上がった。
「さて、掃除の時間だ。全艦、主機関始動。対象は陣形から弾き出された孤立艦のみ。深追いはするな、反撃の暇を与える前に一撃離脱で食い散らかせ」
「了解! 主砲、発射用意!」
「全軍に告ぐ。我々は英雄ではない。生き残った者だけが勝者だ。蹂躙せよ」
漆黒の宇宙空間に、突如として120の熱源が灯る。それは死の淵から蘇った亡霊の群れのように、パニックに陥る敵艦隊の腹を情け容赦なく食い破っていった。
後に「シリウスの虐殺」と呼ばれるこの戦いで、リネア・フォン・ローゼンバーグの名は、両陣営の血塗られた歴史に深く刻み込まれることになる。




