鍛冶屋の息子
アレンが剣を手にする前、
彼はただの――鍛冶屋の息子だった。
王都の外れ。
煤と火の匂いが染みついた一角に、ノルド家の工房はあった。
大きくはない。
だが、無駄がない。
道具は手の届く場所に揃い、床はいつも片づいている。
炉の火は、必要な分だけ燃える。
派手さはないが、そこには「暮らしを支える鉄」が確かにあった。
父――ヴァルド・ノルドは、王国一の鍛冶師と呼ばれていた。
だが父は、その称号を好まなかった。
「作っているだけだ」
そう言って、話を終わらせる。
王城の仕事を受けたこともある。
名のある貴族が頭を下げに来たこともある。
それでも父は、仕事の後に酒場へ行くでも、誇らしげに語るでもなく、
翌日にはいつも通り炉に火を入れた。
アレンにとって、父は“偉い人”ではなかった。
ただ、強い背中だった。
父の背中は、必要以上に言葉を使わない。
「見て覚えろ」
そう言われた記憶だけが、妙に鮮明だ。
細かい説明は少ない。
だが、間違えれば止められる。
理由は、そのあとで一言だけ告げられた。
「急ぎすぎだ」
「手が先に行くな」
「鉄は嘘をつかない」
アレンは、その言葉の意味を何度も噛んだ。
理解できた気がする日もあれば、
何も分からないまま一日が終わる日もあった。
それでも、工房で過ごす時間は嫌いではなかった。
火の音。
鉄が冷める匂い。
道具がぶつかる乾いた音。
工房は、アレンにとって世界の中心だった。
だからこそ、父がある日ぽつりと言った言葉が忘れられない。
「剣は、結果が出るのが早すぎる」
「振れば、人は死ぬ。
だが、なぜそうなったかは置き去りになる」
アレンは反論したかった。
剣で救われる話もある。
英雄譚は、いつだって剣と共にある。
けれど父は、剣を否定しているわけではなかった。
ただ、剣の“速さ”を恐れているように見えた。
「剣を持つ前に、持たない理由を考えろ」
父は言った。
アレンは頷いた。
だが、その言葉が重かった。
持たない理由を考えるということは、
持つ理由を捨てることではない。
ただ――自分がどんな人間か、先に知れということだ。
「俺は……何者になるんだろうな」
ある夜、アレンが口にした。
父はしばらく手を止め、炉を見つめたまま言った。
「決めるな」
「え?」
「今、決めなくていい」
父は振り返り、アレンを見た。
「選ぶ力が育ってからだ」
その言葉が、胸の奥に沈んだ。
選ぶ力。
それは、剣の腕や体力のことではない。
迷ったときに。
逃げたくなったときに。
自分で決める力。
アレンはそれを、育てている途中だった。
――途中だったのに。
その「途中」が、突然途切れた。
工房の空気が変わった夜のことを、アレンはまだ言葉にできない。
いつもと同じ夜なのに、火の匂いが違っていた。
父が一瞬、戸口の方へ視線を送ったこと。
そして、こちらを見て静かに頷いたこと。
それだけが、胸の奥に残っている。
その夜以降、父は目に見えて口数が減った。
「父さん、何かあったのか」
問いかけても、父は短く返すだけだ。
「大丈夫だ」
その“大丈夫”が、
アレンを安心させるための言葉なのか、
自分に言い聞かせる言葉なのか、分からなかった。
数日が過ぎた。
工房はいつも通り動いている。
客も来る。仕事もある。
けれど、父の背中だけが、少しだけ遠い。
アレンは不意に、思ってしまった。
このままでは、
自分は“選べないまま”になる。
王都には冒険者ギルドもある。
登録すれば、仕事には困らない。
だが、王都に残るということは――
工房の影から逃げられないということでもあった。
市場の噂。
酒場の声。
「ああ、ノルドの倅か」
「あの鍛冶師の息子だな」
悪意はない。
それが、いちばん苦しかった。
父の背中に守られたまま生きるのか。
父の背中を失ってから生きるのか。
そのどちらも、今のアレンには選べない気がした。
だからこそ――
あの夜が来る。
工房の炉が落とされ、
いつもより静かすぎる工房の奥に、一本の剣が置かれている夜が。
そしてアレンは、父から剣を受け取ることになる。
名もない、飾り気のない剣。
だが、手にした瞬間に分かる。
これは、ただの武器ではない。
彼の人生を、決定的に変えてしまうものだ。




