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忘れ門

霧が降りる夜、王都の外れにある「忘れ門」は、通る者の記憶を少しずつ削ると言われていた。


門の前で足を止めた青年は、外套の襟を立て、背中の剣に手を添えた。


名はアレン。

いまは逃亡者だ。


逃げている理由を、うまく言葉にできない。

罪を犯した覚えはない。誰かを殺した記憶もない。


ただ――剣がある。


鞘は煤けた鉄、柄は黒革。

見た目は地味だが、抜いた瞬間だけ刃が淡い青で脈打つ。


そしてこの剣は、話しかけてくる。


「疲れただろう、アレン。ここまで来たんだ。少し休めばいい」


声は優しい。

否定しない。責めない。拒まない。


――だからこそ、厄介だった。


剣の声に従うと、必ず何かが変わる。


景色がずれ、相手の言葉が違い、昨日の出来事が微妙に書き換わる。

最初は幸運に見える。危険が避けられ、誰かが助かり、アレンは生き残る。


けれど、ある日気づいた。


この剣が変えているのは世界ではない。

まず、自分の心だ。


恐れを消し、罪悪感を薄め、選択の重みを軽くする。

「正しかった」と信じ込ませる。


そうして持ち主が自ら運命をねじ曲げる瞬間だけ、剣は本当に“運命を変える力”を発動する。


――力のようで、毒。

――救いの顔をした檻。


人はこの剣を、ノルドの剣と呼んだ。

由来は噂だ。王都の外れの工房だとか、王国一だとか、いくつも尾ひれがついている。

今のアレンには確かめようもない。


剣が囁く。


「進め。門を越えれば、追手はいなくなる。君は自由だ」


門を越えれば、楽になる。

過去も、罪も、迷いも、薄れていく。


父の背中も、

あの夜の足音も、

選べなかった自分も。


全部、霧の向こうへ置いていける。


……置いていけるはずだ。


「本当に、それでいいのか」


自分に問いかけた瞬間、霧の向こうから足音がした。


鉄が擦れる音。

揃いすぎた歩幅。

追う者の足並み。


追手だ。


同時に、門の前に一人の女が立っていた。


巡礼の装い。だが、目だけは鋭い。

アレンの背中の剣を見た瞬間、その女は息を飲む。


「……それを持っているなら、あなたはまだ引き返せる」


「誰だ」


「名を言えば、あなたは信じますか? その剣の声よりも?」


アレンは答えられなかった。

信じるという行為そのものが、いまの自分にできるのか分からなかったからだ。


女は懐から、小さな金属片を取り出した。

古い紋章が刻まれた、割れた勲章――近衛の標だ。


「私はミラ・アーカム。元・近衛の記録官。……その剣の“被害者”です」


「被害者?」


ミラは忘れ門の石柱に手を当て、静かに言った。


「その剣は運命を変える。でも代償として“あなたの真実”を奪う」


「奪われた真実は、記録からも人の心からも消える。残るのは――あなたが剣に与えられた“納得”だけ」


胸が疼いた。


救ったはずの出来事が、最初からなかったことになっていた。

助けたはずの誰かが、最初から存在しなかったことになっていた。


それでも剣は、いつも言った。


「仕方がない。君は最善を尽くした」


最善――その言葉は、刃物よりも鋭い。


アレンは剣に手を置いた。


「違う。こいつは……俺を救った」


剣が囁く。


「そうだ。君は悪くない。彼女は奪われたものに縋っているだけだ。門を越えろ。自由になれ」


声は甘い。痛いほど優しい。

それだけで、足が前に出そうになる。


ミラは揺れるアレンを見抜いたように言った。


「剣の声、あなたの声に似ているでしょう?」


アレンの指が止まる。


「……似ている」


「似せているんです。あなたが自分を嫌いにならないように。その優しさの形で、あなたの判断を盗む」


追手の気配が近づく。時間がない。


ミラが言った。


「選びなさい。自由か、真実か」


自由は甘い。真実は重い。

痛いものから逃げるのは自然だ。剣はそれを知っている。


「君は被害者だ」

「君はただ生きればいい」


その囁きは、涙が出るほど救いだった。


だが――救いの顔をした檻でもあった。


アレンは剣を抜いた。


淡い青の脈動が、霧を切り裂く。

その瞬間、世界が“提案”される。


門を越える自分。自由。静かな家。暖炉。笑顔。

罪のない人生。


嘘ではない。起こり得る未来だ。

だからこそ危険だった。


アレンは、刃先を自分ではなく、忘れ門へ向けた。


「俺は……被害者じゃない」


ミラの目が見開かれる。


「俺は、選んだ。選んでしまった。だから……重さを背負う」


剣の声を止めることはできない。

だが、従わないことはできる。


アレンは門の石柱を斬った。


石が割れ、刻まれた文字が砕け散る。

霧が渦を巻き、門が呻いた。


剣が、初めて怒りに似た音で唸る。


「やめろ、アレン。君は耐えられない。君は壊れる」


アレンは叫んだ。


「壊れていい! 騙されて生きるよりましだ!」


二撃目で門が崩れ落ちた。


その瞬間、記憶が雪崩れ込んでくる。


消えた場所。

消えた人。

守れなかった声。

見逃した嘘。

そして――父の背中。


膝が折れた。吐き気がした。涙が止まらない。


剣の囁きが、弱くなる。


「……どうして……」


ミラがアレンの肩に手を置いた。


「戻ってきたのね」


霧の向こうから、追手の灯が近づいている。

もう逃げ道はない。


それでも、胸の奥に奇妙な静けさがあった。


「運命を変えるって……こういうことか」


ミラは小さくうなずく。


「世界を都合よくすることじゃない。あなた自身を変えること」


アレンは剣を見下ろした。

青い光は消え、ただの鉄の刃に見える。


それでも剣は、まだ囁く。


「君は、苦しむぞ」


アレンは柄を握り直した。


「苦しむ。償う。守る。……俺の声で決める」


追手の足音が、霧を割って迫る。

世界は容赦がない。


だがアレンは初めて、“自分の足”で立っていた。


刃が月明かりを受け、静かに光った。

青ではない、ただの、真っ直ぐな光だった。

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