子供の頃に言えなかった『ごめんなさい』を集めてみた
低学年の頃、たびたび家出をしていた。
家出したこと自体は、あまり反省していない。
しかし、弟には大変申し訳ない事をしたと思う。
小学二年生の時、母親と大喧嘩をして、小さい弟を連れて家出をした。
その時が、初めての家出で心細かった為、まだ保育園児だった弟を巻き込んだ。
冬の寒い日だったので、弟だけが風邪をひき、肺炎になってしまった。
母親に、しこたま怒られたが、叱られて当然である。
「家出したいなら、一人でしなさい!」
そう言って説教を締め括られたので、そのようにしたが、ただの一度も迎えに来て貰えなかった。
見つけ易いように、わざわざ祖母の家の前に広がる畑に、堂々と座っていたというのに、決して来てくれなかったのだ。
最終的には、一人で、とぼとぼ虚しく帰る事になるのだが、家に戻っても、「ごめんなさい」は絶対に言わなかった。悲しいのと同時に、悔しかったのだ。
ただ一度だけ、祖母の姉で大好きなおばちゃんが、迎えに来てくれた事がある。
おばちゃんが、祖母の家に、遊びに来ていた晩だった。
あれは、本当に嬉しかったので、今でも、はっきり覚えている。
足音が聞こえた時、初めは、(あ、お母ちゃん!)と喜んだ。
しかし、そうではなかった。
「〇〇、帰ろう」
優しい声で名前を呼ばれて、すぐさま返事をした。
「うん!」
家までの短い距離を、手をつないで帰ってくれた。
懐中電灯を持って、真っ暗な夏の夜に飛び出しても、母親は迎えに来てくれなかったのだ。
それで、その晩は、今日と言う今日は迎えに来てくれるまで帰らない!という固い決意と、子供なりの意地があった。
しかし、頑なになっていた筆者を迎えに来てくれた、おばちゃんの優しい言葉と温かい手に心が癒された。
家出しても迎えに来て貰えないというのは、非常に寂しいものだったが、おばちゃんが迎えに来てくれた晩以降、家出は止めた。
なぜか満足したからだ。
今思えば、忙しい母親に構って貰えなくて、寂しかったのだろう。
何年か前、ふとその思い出話を、食卓で話題に出した事がある。
すると、母親が、目を吊り上げた。
「今思い出しても腹が立つ話よ!ほんと、あの時は腹がたったわよ!」
二回も腹が立つと言われてしまった。
小さい弟を肺炎にかからせた一件を、未だに根に持っていたので、それだけは謝った。それと、医療費がかかった点は、大いに反省している。
折角なので、謝りついでに、昔聞きたかった事、どうして迎えに来てくれなかったのか理由を聞いてみた。その答えは、こうだった。
「別に行かなくても、家の中から畑は見えるから、心配ないと思ったのよ」
そういう問題ではなかったのだ。
しかし、結局のところは全部、今更な話である。
ただ、覚えていたいのは、迎えに来てくれたおばちゃんの優しさである。
これだけは、一生忘れたくない。
『浮雲九十九番地』の主人公たち世眠と三宝の家出ストーリーを創ったのは、筆者自身の子供時代が要因かもしれない。
一緒に家出をしてくれる友達がいたら楽しいのに………そう思いながら畑に座っていた。あの頃の子供心が、胸の奥に残っていたからだと思う。
迎えに来て欲しかったという願望が、根強く残っていたのかもしれない。
十羽と九羽のお迎えに、自分の願いを重ねてしまったのだと思う。
弟は、家出こそしなかったが、友達と一緒に保育園から脱走した。
スライド式の大型門扉を、ガラガラと横に開けて、外に飛び出したのだ。
その保育園は、筆者も卒園したので、よく知っている。
園児の背より遥かに高い鉄の門は、相当重かった。
いくらスライド式といっても、そんな簡単に開くものではない。
なかなか根性溢れる子供たちであった。
おそらく、皆で力を合わせて、うんしょうんしょと横に押したのだろう。
だが、脱走に成功した子供たちは、地元のおばあちゃんたちに見つかって、保育園に連絡された。無事で何よりだ。
この一件は、母親が祖母に話しているのを聞いて知ったが、弟のお迎えに行っていた筆者は、肩身の狭い思いをした。
特に、あの日、立ち聞きした会話は忘れられない。
保育園の門扉の傍で、三人の母親が話し込んでいたのだ。
話し声が聞こえた瞬間、足が止まった。
一番若い母親が、眉をひそめて文句を言っていたのだ。
「先生たちは、何の為にこんな事をするの?こんな事をされたら、開け難い!」
「ああ、それね、脱走した子供がいるんですって」
冷静に答えた一人に対して、後の一人は、ずばっと言った。
「まあ、迷惑な話ね!!一体どこの子!?」
筆者は、立ち止まったまま俯いてしまった。
(ごめんなさい、うちの子です)
とても口に出して言えなかった。
いたたまれなくなって、回れ右をして裏口へ急いだ。
脱走組が、重い鉄門を二度と開けられないようにする為、保育園の先生たちは、タオルを何十枚も使って、何重にも繋ぎ合わせた頑丈な縄を手作りしたのだ。
それを門扉の脇に引っ掛け、しっかり括りつけたものだから、迎えに来た親たちは、門を見ると顔をしかめて、「ほんとにもう!」「開けづらいのよ!」等ぶうぶう文句を言いながら縄を外していた。
そして、中に入ると、その縄を再び掛け直していた。二重の手間である。
その原因が、うちの弟だ。
迎えの親たちが、溜息を吐きながら縄を外しているのを見掛ける度、心の中で、ひたすら謝ったものである。
自分が悪い事をしていないのに散々謝った経験は、後にも先にも、あの一件だけであって欲しい。
先生たちが苦心して作った縄のおかげで、この問題は解決したと思われたが、甘かった。
脱走した子供たちは、前がダメなら後ろから出ようと思い付いたようで、保育園の裏山から脱走した。
発想力の豊かな子供たちである。
アイデアだけは褒めてやりたいが、先生たちは、頭が痛かったに違いない。
山に縄は使えないので、先生たちは、裏山に行くのを禁じたようだ。
しかし、当然ながら効果はなかった。
柱にでも縛りつけない限りは、土台、無理な話である。
祖母は、母親が仕事から戻るまで、夕飯を作る間は、弟を紐で柱に括りつけていた。
放っておくと、一人で三輪車に乗って、坂から一直線に滑り落ちようとするのだ。
傍から見ると、さながらリアルジェットコースターである。
さすが裏山から脱走するだけの事はあった。
楽しくてたまらなかったようで、祖母が、何度叱っても、遊ぶのを止めない。
言う事を聞いた試しがなかった。
これでは夕飯が作れないと、祖母が考えた苦肉の策が、紐である。
可愛い孫を紐で縛り付けるのは、祖母も胸を痛めたと思う。
母親が戻って来るまで、弟は、根限り泣き喚いた。
涙を流して、鼻水も垂らして訴える姿は、本当に可哀そうで、解いてやりたかったが、命にかかわる話だったので仕方がなかった。
紐を緩めたが最後、あっさりと抜け出して、一瞬のうちに逃げ出すのは、目に見えていた。
クラス一足の遅い筆者では、まず捕まえられない。
更に、運動神経ゼロの筆者が、リアルジェットコースターで遊ぼうとする些かぽっちゃりの弟を、止められるわけがなかった。
坂の下は、道路なのだ。いつ車が通るか分からない。
あの時、絵本の一つでも、傍で読んであげれば良かったのかもしれない。
だが、三輪車から降ろされた時点で、わんわん泣いていた。
実の弟といえども、小さい子供の世話が苦手だった。筆者があやせるレベルは、とうに越していたのだ。
もはや、どうしようもなかった。
ただひたすら、母親の帰宅を待つ他なかったのだ。
夕飯作りが終わる頃、早くに帰って来た母親は、ぎゃんぎゃん泣き叫ぶ子供の声を外から聞いて、血相を変えて家に飛び込んで来た。
「一体どうしたの!?誰が泣いてるの!?」
そう聞く母親が見たのは、枯れ花のように項垂れる息子だった。
弟は筆者と違って、母親に甘えるのが上手だった。
いつも母親が帰った途端、「お母ちゃーん」と満面の笑みで出迎えて、飛び込むように抱きつく息子だった。
そんな可愛い息子が、紐で柱に括り付けられ、泣き疲れた弱々しい声で、うっうっと涙をこぼしているのを見て、度肝を抜かれたふうであった。
母親は、仰天した顔で弟に駆け寄って紐を外した。
そして、崩れかかるようにして抱きついた息子を、ぎゅっと抱きしめていた。
「かわいそうに」と、しきりに言って頭を撫でていたが、その後、祖母に食って掛かった。
「お母ちゃん!なんて事するの!」
激昂する母親を見て思った事は、おなかすいた、だったので、我ながら何て薄情な子供だったのだろうと、今なら思う。
しかし、言い訳にはなるが、母親が帰って来てくれて、心底ほっとしたのだ。
ほっとしたら、おなかがすいたのだから、それもしょうがない話である。
祖母は悪くない、でも、弟は可哀そう、そうかといって、自分は何も出来ない。
祖母と弟との板挟みになって、心身が疲弊しきっていたのだ。
母親の帰宅で、ようやく肩の荷が下りた気分だった。
そうしたら、おなかがすいたのだ。
今思うと、腕白な弟の脱走と比べれば、筆者の家出など取るに足らない可愛いものだった。
そんな昔を思い起こしながら、世眠と三宝の家出ストーリーを執筆している。