8 心の交流
美術館を出た俺たちは、少し遅めの昼食を摂るために道端で目についたカフェに入った。店内は白を基調とした落ち着いた雰囲気で、ゆったりとしたBGMが流れており居心地が良い。案内された窓際の席からは、人々や車の流れがよく見えた。
「雪也くんなに頼む? 私、このボロネーゼにしようかなって思ってるんだけど」
メニュー表を捲りながら、向かいに座る若葉が尋ねてきた。俺は少し悩んだ後、俺は特に食べたいものはなかったし、最近は夏バテのせいか少し食べただけで満腹感を覚えるようになっていたので、見た目も涼しい夏の水玉ゼリーセットという軽いメニューにしようと決めた。
「なんか最近あんま食えなくてさ」
「そうなんだ? まぁ、今年すっごく暑いもんねぇ。夏バテかな?」
「多分そうだと思う」
俺は適当な相槌を打ちながら、メニュー表を閉じた。すると、タイミングを見計らったように店員がやってきて、オーダーを取り始める。しばらくして料理が運ばれてくると、二人で手を合わせながら食事を始めた。
「ん~美味しい!」
注文したボロネーゼを口に運んだ瞬間、若葉は幸せそうに顔を綻ばせた。その様子を見て、俺も自然と笑みが浮かぶ。彼女の笑顔を見るたびに心が温かくなるような気がした。
俺もスプーンでゼリーをすくって口に運ぶ。ひんやりと冷たくて、ほのかに柑橘の香りが鼻を抜けた。夏バテの身体にちょうどいい。つるんとした喉越しで、胃がほっとしているのがわかる。
「あ! そういえば。金曜日に返ってきた実力テスト、世界史の点数ちょっと良くなったんだよ」
ボロネーゼのフォークをくるくると巻きながら、少し嬉しそうにそう言った若葉は相変わらず眩しい笑顔を俺に向けてくる。
「へぇ、どのくらい上がったんだ?」
俺はゼリーを口に運びながら尋ねる。さっきまで喉を通るのも億劫だったはずなのに、若葉とこうして話していると、少しずつ食欲が戻ってくる気がする。
「えっとね……たしか、前回が五十二点で、今回は六十二点!」
「十点も上がったのか。そりゃ『ちょっと』じゃねぇよ、すげぇじゃん」
「雪也くんのお陰だよ。世界史で良い点数取れたのって初めてだったから、本当に嬉しい! あの時はありがとう」
屈託のない笑顔のまま、若葉は俺を見上げてくる。俺は息を呑んで言葉を詰まらせた。彼女の言葉が本心であることは疑いようがないし、感謝されることは素直に嬉しい。が、なんだか照れくさい。こんな風に誰かにまっすぐ感謝されるのは、久しぶりだ。
「あ……別に……お前が頑張った結果がついてきただけのことだろ」
ぶっきらぼうな物言いになってしまったことに少しだけ罪悪感を覚えたが、春先から向けているこんなつっけんどんな態度を今更変えることもできないでいるので、俺はそのまま若葉から視線を逸らした。
「雪也くんって照れ屋さんだよね。私、そういうところ好きだなぁ」
「!」
そんな俺の心情など知る由もなく、彼女は無邪気に笑う。心臓がどきりと跳ね上がった。
若葉の言動は、まるで俺のことが好きと言っているようにしか思えず、勘違いしてしまいそうになる。だが、それは俺の自意識過剰だ。きっと彼女の言う『好き』とは、友人としての好意を表現しているだけなのだろう。そうに違いない。
「……アホか、お前」
「ええ?」
若葉はきょとんとした顔で首を傾げた。本当に分かっていないのか、それとも分かっていてとぼけているのかは分からないが、どちらにせよタチが悪い。
とはいえ、若葉が他の奴にも同じようなことを言っているところを想像すると、少しだけ心にさざ波が生まれるような気がした。それがなんなのかはよく分からないものの、あまり良い気分ではないことだけは確かだ。
(からかうなっての……)
そう心の中でぼやきながらも、全身が熱を帯びていくような気がしてならない。それを誤魔化そうと窓の外を見上げたが、ガラス越しに見える空模様は、俺の心境とは正反対の雲一つない青空だった。
「でもでもっ、絶対雪也くんのおかげだってば! 雪也くんはいつも通り学年一位だったし」
「な、……なんで知ってんだよ」
まさか彼女が自分の成績を知っているとは思わなかったので、つい上擦った声を上げてしまう。
図書室で勉強していることを若葉に見られていたと知って以降、自分でもなぜか理由はわからないけれど、俺は今まで以上に勉強をするようになっていたものの、若葉とすれ違ってしまったあの日から何を見ても集中できなかった。教科書の文字が頭に入らず、イライラして眠れなかった。
何を読んでも、何を見ても、頭に入ってこなかった。ページをめくるたびに、思い出すのはあの顔と言葉だけ。悔しくて、苦しくて、でも謝る勇気も出ず、それでも、何のプライドか誰にも成績を落としたところを見せたくなかった。ただそれだけで、ギリギリまで粘り、若葉とまた話せたあの夜、ほぼ徹夜して必死に教科書にかじりついた。
「だって掲示板見たもん」
若葉は、何でもないことのように言って、フォークでボロネーゼを口に運ぶ。その仕草が妙に自然で、だからこそ、俺の方が勝手に気持ちをかき乱されてしまう。答え合わせができ、俺はなんとなしに息を吐いた。
「……あぁ。掲示板……」
「うん。進学科目取ってないのにその順位はすごすぎるよ。そんな雪也くんが勉強を教えてくれたからこそ私も成績が上がったんだし……やっぱり雪也くんのおかげだよ」
若葉はそう言いながら、少し照れくさそうに笑う。その瞬間、言葉にできない何かが胸の奥に湧きあがってくる。
『認められた』ような気がした。誰かに『必要とされた』ような気がした。
若葉の言葉の一つ一つが妙にくすぐったくて、俺は堪りかねて頬を掻いた。
「まあ……それならよかったけど」
「それに、あんな風に、誰かと一緒に学校帰りに寄り道するの、久しぶりだったから……すっごく楽しかったし」
若葉はそう口にしながら嬉しそうに目を細める。その表情に、俺はまた鬱積した感情が込み上げてくる錯覚を抱いてしまう。
(なんだよそれ……反則だろ)
そんなことを言われたらどう反応していいかわからない。俺は内心動揺していたものの、それを悟られないようなんとか平静を装った。
「まあ、俺も久しぶりに羽を伸ばせたしな」
「ほんと? ならよかった!」
俺の答えに満足したのか、若葉は満面の笑みを浮かべながら大きくうなずく。ころころと表情が変わる彼女に、俺は小さく息を漏らす。
(ったく、なんなんだよこいつ……)
そんな悪態を心の中でぼやきながらも、俺は無意識のうちに笑みを浮かべていた。彼女の言動一つで一喜一憂してしまう自分がいることに気づくと、少し悔しくなると同時に気恥ずかしさを覚えてしまう。
食事をしながら、他愛もない話をぽつぽつと交わした。最近ハマっているアプリの話とか、体育の授業で誰が足をくじいたとか、そんなくだらない話。けれど、それが妙に心地よかった。若葉はよく笑って、俺のつまらない返しにもちゃんと反応してくれる。そんな彼女を見ていると、不思議と胸の奥がゆるんでいくような気がした。
ふと、話が途切れたその時、若葉がふいに俺の顔を覗き込んでくる。
「そういえばさ。雪也くんって、誕生日いつなの?」
彼女はコップを机の上に置くと、興味津々といった様子で身を乗り出してきた。その勢いに気圧されながらも、俺は素直に答える。
「二月十日。早生まれ。雪が降る日に生まれたから、名前に『雪』が入ってるらしい」
「えっ……」
俺の返答に若葉は驚きで言葉を失ったようだった。予想外の反応に俺は首を傾げる。なにか変なことでも言ってしまっただろうか。不安になりながら彼女の顔色を伺うと、彼女はハッとしたように首を横に振ってから口を開いた。
「私も……二月十日生まれ、なんだ」
「え……マジで?」
三百六十六の一の確率に、今度は俺が言葉を失う番だった。同じ誕生日の人間を間近で見るのは初めてだった。思わぬ偶然に驚きながらも、どこか嬉しさを感じる自分がいた。それは彼女も同じなのか、どこか照れくさそうに笑っている。
「しんしんと降り積もる雪に負けない子に育って欲しい、っていうのが私の名前の由来なんだって。ちなみに雪也くん、血液型は?」
「A型」
「私もA型!」
そこまで確認し合うと、なんだかおかしくなってしまい二人して笑った。血液型まで同じであることに心が躍る自分がいる。
「苗字も一緒だし、すごいねぇ」
「……だなぁ」
誕生日に血液型、そして苗字が一緒なのもただの偶然だろう。けれどその偶然は俺たちを今まで以上に近付けてくれたような気がして嬉しかった。
「この話、今度施設の先生たちに話してもいい?」
「ん?」
突然の提案に、俺は首を傾げた。俺の反応を見て若葉は慌てたように両手を振る。
「あ……えっとね、私、預けられてた施設でボランティアみたいなことしてるんだ。入所してる子たちの遊び相手になってあげる程度だけどね」
彼女が世話になった施設に恩返しをしていることを聞き、俺はますます若葉の心の優しさを感じ、さらなる好感を抱いた。聞けば、その施設は彼女の生家の近く――東京と神奈川の間にあるらしく、年に一度か二度足を運ぶ程度らしい。自分がしてもらったことを、他の誰かにもしてあげたい。そんな思いを抱くことはあっても、実際に行動に移せる人間は少ないのではないだろうか。
俺としては、特に止める理由はない。彼女がボランティア活動に勤しむことは自由だし、乳児院との繋がりも彼女だけのものだ。俺が口出しする権利はない。
「まぁ、好きにすれば……」
「うん! ありがと」
若葉は嬉しそうに笑うと、カトラリーに手を伸ばしふたたびボロネーゼを口に運び始めた。彼女の表情を見つめていると、ふと心の中にぼんやりとした疑問が浮かんでくる。
(そういや……俺の生まれって、どんな感じだったんだろうな)
物心ついたときには今の施設で過ごしていた。両親の顔も知らない。捨てられたことだけは知っているが、その理由を俺は知らない。そこまで考えると、胸の中になんとも言えないざわめきが生まれてくる。
(……)
今まで自分がどういった経緯で施設に預けられたのか、深い部分までは聞く勇気がなかったのだ。けれど若葉と話しているうちに、そのことが段々と気になってきてしまう。自分の知らない事実を知ることは怖いと思う反面、それでも好奇心のようなものも抱いてしまう。
(今度……相良先生に聞いてみるか)
彼は施設に勤める職員の中でも古株で、俺のことを幼少期から知っている数少ない人物の一人だ。高校進学を勧めてくれたのも彼だったし、なにかと気にかけてくれる先生だった。彼なら、少し踏み込んだ過去のことも話してくれるのではないだろうか。
そんなことを考えながら、俺はゼリーを一口含んだ。炭酸のしゅわっとした食感が舌の上を転がっていき、俺の心情を代弁しているかのように爽やかな後味を残していった。少しだけ――胸のざわつきが和らいだ気がした。