7 芸術という架け橋
今まではただのクラスメイトだったはずなのに、どうして急にこんな展開になってしまったのか自分でも不思議でならない。ただ、なぜか嫌な気はしなかったし、むしろ少し嬉しいと思っている自分がいた。
「雪也くん、こっちだよ!」
待ち合わせ場所である東京駅に着くと、先に着いていた若葉が俺を見つけて大きく手を振った。白いブラウスに淡い水色のシフォンスカートを合わせた彼女は、まだあどけなさを残しつつも、どこか大人びた風貌をしていた。
心が浮き立つような感情をおさえつつ、俺は軽く手を挙げながら彼女の方へ小走りで向かう。
「すまん、待ったか?」
「ううん全然! 私もさっき着いたばっかりだから」
若葉はそう言って笑うが、その額には少し汗が滲んでいるようだった。もう七月、この暑さの中ずっと待っていたのかもしれないと思うと申し訳なくなる反面、俺のことを待っていてくれたという事実に嬉しさも感じる。
あの中庭で話をした翌日から、若葉は教室内でも俺によく話しかけてくるようになった。とはいえ、帰宅部の俺と美術部に属している若葉ではそもそも自由な時間が合わないため機会はそれほど多くなかった。
若葉が友人たちとしていたドラマやテレビ、SNSでの話題など、他愛もない会話に適当に相槌を打つといった程度だが、それでも以前よりも会話の数は増えている。
彼女と接するうちにじわじわと込み上げてくる感情の正体に、俺は気付き始めていた。それは言葉にするには難しいもので、とても曖昧で不確かなものだったが、それでも間違いなくその感情は俺の中で芽吹いていた。
けれど、俺はその気持ちにあえて名前を付けることはしなかった。いや、出来なかったと言った方が正しいかもしれない。この気持ちを言葉にして彼女に伝えてしまうと、今の関係が壊れてしまうような気がして、その瞬間を想像するとひどく恐ろしかった。
「んじゃ、行くか」
「うん!」
若葉の笑顔は、まるで太陽の光を浴びたひまわりのようで、見ているだけで心が温かくなる。俺は少しだけ咳ばらいをしながら、手に持っていたスマホをジーンズのポケットにしまい込んだ。俺が目の前の横断歩道に向かって歩き出すと、若葉は嬉しそうに俺の隣に並ぶ。俺は彼女の歩幅に合わせて歩く速度をわずかに落とした。
今日は約束していた通り、俺たちは二人で展覧会へ行くことになった。場所は三菱一号館美術館で、若葉が見たいと言っていた特別展が開催されている。
(言うなら……ここ、だ)
俺はぐっと唇を噛みしめた。若葉から展覧会の詳細をメッセージアプリでもらった際、場所を調べてふっと思いついたことがあったのだ。
けれど、口に出すには少し勇気が要った。たかが『美術館をもう一軒寄ってみないか』というだけの話だというのに。けれど、そんな簡単な一言が喉の奥に引っかかって出てこない。
「三菱一号館って、すごく綺麗な建物だってネットに書いてあったの。それも楽しみなんだよね~」
若葉の明るい声が、思考の迷路から俺を引き戻す。彼女の横顔が、まっすぐ前を向いて笑っていた。太陽の光を受けて、髪の色がほんの少し茶色く見える。
この時間を――少しでも長く一緒にいたい。
そう思った瞬間、ふと勇気が湧いた。いや、湧いたというより、もうこのまま黙っていられなかった、という方が正しいかもしれない。
「あのさ」
「ん?」
俺はふと立ち止まって、彼女の顔をしっかり見つめた。心臓が、ひどく大きな音を立てていた。
「その……展覧会のあと、出光美術館とかも行ってみねぇ? 陶磁器の色彩とか、いいインスピレーションになるんじゃねぇかなって」
若葉は、目を瞬かせて俺を見上げた。一瞬だけ、時間が止まったような気がした。
驚かせた――かもしれない。いや、たぶん、確実に。
けれどすぐに、若葉のその桜色の唇の端がふわっと持ち上がった。
「行ってみたい!」
若葉は目を輝かせて大きく頷いた。その動作に合わせ、彼女の結われていない黒髪がさらさらと揺れていく。
目の前の柔らかな笑みに、胸の奥がじんと温かくなった。さっきまで張りつめていた緊張の糸が、ふっとほどけていく。俺は思わず息を吐いた。
安堵、という言葉だけじゃ言い足りない。肩からすとんと何かが抜け落ちて、胸の奥に溜まっていた重いものまで、一緒にどこかへ消えていった気がした。
「じゃぁ、決まりだな」
「うん!」
学校でも普通に会話しているのに、こうして私服姿で二人で出かけるというのはまた違った感覚だ。いつもとは違う場所に行くという非日常感もあるのかもしれない。それに――今日はデートなのだという事実が、余計に俺の鼓動を逸らせる。
(なんか、緊張するな……)
今まで女子と出かけることなんて施設の子たちとでもほとんどなかったし、ましてや誰かと二人で出歩くことなど全くなかったため、今日は一体どんな服が適切か分からず少し悩んでしまった。結局無難にTシャツとジーンズに落ち着いたが、本当にこれでよかったのだろうかと不安になる。
(化粧……とかもしてるし……普段と雰囲気が違うんだよな)
ちらりと隣を歩く若葉を観察しつつ、俺はこっそりため息をついた。彼女の華奢な首元には小さなネックレスが光り、耳には雫の形のイヤリングが揺れている。その姿は学校で見る姿とは少し違って、なんだか新鮮だった。
東京駅から徒歩圏内にあるこの一帯は、日本の玄関口ということもあり、様々な商業施設やオフィスビルが立ち並ぶエリアでもある。そのせいか人も多く賑わっている。その雑踏を少し進むと、レンガ造りの重厚感あふれる外観の建物が見えてきた。
「あ、あれかな?」
「多分そうっぽい」
想像していたよりも大きな建造物に圧倒されながら入り口へと向かって歩いていく。案内板には常設展と企画展が並んでおり、どうやらこの美術館では定期的にテーマに沿った特別展を開催しているらしく、この特別展に若葉が通う画塾の先生が出展しているようだ。俺たちはまず常設展から見ることにした。
入ってすぐのホールには巨大な絵画が飾られており、それらの優美さに圧倒されてしまう。展示されているのは西暦一八〇〇年前後に描かれた絵画で、当時活躍していた画家たちの作品が多いようだ。
「これ、ナポレオンが生きていた時代の絵なのか」
幼子イエスを抱く聖母マリアを描いた宗教画や、革命を導いたナポレオンの戴冠式の様子が描かれている絵画は、当時の空気や雰囲気まで伝わってくるようだった。見ているだけで時間を忘れてしまいそうだ。明確な線と形、そして鮮やかすぎない色彩で描かれたそれらの風景は、まるで写真のようなリアリティがある。肌の質感や、光の当たり方など、細やかな部分まで緻密に描かれているのが印象的だった。
「そう。フランス革命があって、ロココ調の時代が終わって……っていう頃の作品たちみたい」
俺は壁に掛けられた絵画を眺めながら感嘆の息を漏らした。歴史の授業で習った知識はある程度頭に入っているものの、こうして実際に目にするとまた違う印象を受けるものだ。
「なんだっけな。教会や王家のプロパガンダで写実的な系統の作品が多く発表されたって時期か」
「え、そうなんだ?」
俺の言葉に目を大きく開いた若葉は、驚いた様子で俺の顔を覗き込んだ。
「やっぱり雪也くん、世界史詳しいねぇ。私、その辺の背景は知らなかった。いつも、こう……構図とか色の表現とか、描き方にしか目が行かなくって」
「あ……いや……」
彼女の視点は、どうやら俺が思っているよりもそれらを生み出す技術に向いているらしい。若葉からキラキラした視線を向けられるのが擽ったく感じて、俺は反射的に顔を逸らす。彼女の期待に応えられるほどの知識を自分が持ち合わせているわけでもないし、いささか気恥ずかしくなってしまった。
「まぁ、俺はそういう技法とかが全然わかんねぇから、あれだけどな」
照れ隠しなのか、自分でもよくわからない返事になってしまった気がする。ただ、俺の答えに満足したのか、若葉は嬉しそうに微笑んでいた。
常設展で一通りの作品を見た後、俺たちは企画展へと向かった。ここでは現代に生きる若手アーティストたちが手がけた様々なジャンルの作品が展示されているようだった。
「あ、これ! 先生の作品だよ」
若葉はとある絵画の前で足を止めた。それは淡い色彩で青いネモフィラが描かれた油彩画だった。花弁の質感や筆致から繊細さが伝わってくるような絵だ。俺はその絵をまじまじと見つめながら口を開く。
「なんか……すげぇリアルだな」
「うん! この絵もそうだけど、先生の作品ってどれも色使いがすごく綺麗なんだよね」
展示されている絵画を一つ一つ目に焼き付けるかのように眺めていく。他にも彫刻や写真などが展示されていたが、どれも迫力があり見応えがあった。不思議となにを見ても鑑賞のペースが合うため、俺たちは美術館内をゆっくりと歩きながら作品を一つ一つ鑑賞していった。
芸術に触れて生き生きと輝く若葉の表情を見ていると、自分の心も満たされていくようだった。普段はあまり意識しないが、芸術というのは人の心を豊かにする力があるのかもしれない。
「すごく楽しかった!」
美術館を出た後、若葉は晴れやかな笑顔でそう口にした。俺も同じ気持ちだったし、彼女と過ごす時間は本当に楽しいものだった。
「俺も、楽しかった」
俺自身、特に芸術に興味があるわけではないので知識はなかったが、不思議と見ていて退屈しなかったし、むしろもっと見ていたいと思うほどだった。
素直な感想を口にすると、若葉は驚いたように俺を見上げて瞬きをした。そして照れたように視線を逸らす。
「本当? よかったぁ……私ばっかり楽しんじゃってたらどうしようって思ってたから」
安心したように胸を撫で下ろす若葉につられて、俺も口元を緩める。今日という日が彼女にとって良い思い出になってくれたのなら嬉しいと思った。それと同時に、もっと彼女のいろんな表情や仕草を見てみたいという気持ちが湧いてくる。
「よし、じゃあそろそろ次行くか」
「うん!」
俺の言葉に、若葉は大きく頷いた。その瞬間、ぐぅ、と、彼女のお腹から可愛らしい音が鳴る。その音に若葉は赤面し、恥ずかしそうに目を伏せた。
「えへへ……おなか鳴っちゃった……」
照れ笑いを浮かべながら、彼女はお腹を擦る。もう昼の一時近くだ。俺は腕時計を確認しつつ口を開く。
「どっかで飯食うか」
「うん! 行こう!」
若葉は元気よく頷くと、東京駅の方向に向かって歩き始める。その足取りは軽やかで、今にもスキップでもしそうな勢いだ。子どものように無邪気なその姿に、自然と頬が緩んだ。