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6 夕陽に溶ける

「あ……」

 西日のオレンジが、頬の線を淡く染めていた。光に浮かぶ表情は、思ったよりもずっと繊細で、そして――傷ついていた。

「……雪也、くん?」

 その声には、驚きと、少しの戸惑いが混じっていた。喉の奥で、さっきまで用意してたはずの謝罪が消えていく。何かを言おうとして、でも何一つ言葉が出てこず、俺は苦し紛れに口を開いた。

「……あのさ」

 ようやく絞り出したのは、それだけだった。

 夕陽に照らされた若葉の表情は、どこか疲れて見えた。眉尻がほんの少し下がっていて、目の奥には影が差しているように思えた。

 俺は、口の中に溜まった言葉を必死で探す。けれど、しっかりとした言葉なんて出てこなかった。たったひと言が、どうしてこんなに遠いのか。

「ごめん、変なとこ見られちゃった。今……全然、描けなくて。今までは目の前に筆を持っていけば自然と手が動いてたんだけど……今は全くダメ」

 無理に笑おうとしても、その笑顔は少し歪んでいるように思えた。若葉はそのままゆっくりと視線をスケッチブックに落とした。

 彼女の言葉に対してどんな返しをするべきなのかわからず、俺はただ相槌を打つことしかできなかった。

「……そう、なのか」

「何やってもダメでさ。……私、ほんと、才能ないのかもって思っちゃった。自分で、全部壊してる気がして」

 ぽつぽつとこぼされる言葉に、ずくりと胸が痛んだ。その横顔にはどこか寂しさのようなものが滲んでいる気がした。

「……」

「絵が好きなのに、うまく描けない自分が、もう……分かんなくなる」

 若葉の声は掠れていた。

 それから少し間を置いた後、若葉はぽつりぽつりと言葉を紡いでいく。

「私、養子だって言ったじゃない? 小さい頃から絵を描くことが好きでさ。ず~~っとお絵描きしていたんだって」

 俺自身、施設育ちであるし、親がどんな人物なのかも分からない。施設で同じ境遇の子どもたちと一緒に遊んだり、世話をしたり、そういう時間を過ごすことで孤独な感情を埋めてきた部分はある。だからこそ、家族であるはずの両親と血が繋がっていないと知っている若葉の気持ちは、察することはできても、完全に理解することはできない。

「でも、……三歳になる前に、両親に捨てられたんだ。そのとき、すごくショックだったんだよね……なんで? どうして? って」

 彼女は寂しげに微笑みながら言葉を続ける。くるりとカールした長いまつ毛が、ふるりと震えた。

「まだ小さかったはずなのに、あの日のことはすごく覚えてる。私の最初の記憶。けやき通りの中にあったアパートを母に連れられて出て、近くにあった乳児院の前に立たされてた。すぐ……迎えにくるからって……」

 若葉は膝の上に視線を落として小さく息を吐き出した。その声音に微かな震えを感じて、俺はそっと目を伏せる。

「乳児院の先生たちに保護されて、しばらくして児童養護施設に移って……小学校に上がる前、かな。今のお父さんとお母さんに引き取ってもらったの。絵が上手って、ず~~っと褒めてくれて」

 そこで言葉を区切ると、彼女はどこか遠くを見るような目つきで頭上に視線を上げた。その横顔は穏やかで、懐かしむような表情を浮かべている。俺は黙って話の続きを待った。

「それから、たくさん絵を描いて……小学校の時、いくつか賞ももらって、お父さんもお母さんも、すごく喜んでくれた。高校受験の時に画家になりたいって言ったら、お父さんもお母さんも真剣に調べてくれて……予備校だけじゃなくて有名な先生がやってる画塾(がじゅく)にも通わせてもらってるの。だから、描けなくなったことが……すごく怖いっていうか。あ~、私、焦ってるんだろうな、って」

 そう言って彼女は寂しそうに笑った。その表情にはどこか諦めのようなものが含まれているような気がした。

 彼女の言葉の端々から、若葉が今の両親をとても大切に思っていることが、強く伝わってくる。だからこそ『絵が描ける、絵が上手な若葉』でなければいけない、という強迫観念のようななにかが、彼女の中に巣食っているのかもしれない。

「ダメなの。完璧じゃないのを見せるのが怖い。何度描いても気に入らなくて、すぐ破いちゃうの。描けば描くほど、自分が『何者でもない』気がして怖い。絵だけが私の証明だったのに、それすら壊れていくみたいで……」

 その声には、焦りと苛立ちと、何よりも――孤独が滲んでいる。

 若葉の表情が痛々しくて見ていられず、俺は一歩前へと踏み出した。

「才能とか、そんなもんじゃねぇ。お前の絵は……生きてる。俺には、それが分かる」

 俺の声に、若葉がはっとしたように顔を上げた。夕焼けの光が差し込む中庭で、その茶色の瞳が俺の言葉をじっと受け止めていた。

「生きてる……?」

 ぽつりと繰り返す声は、風の音よりも小さく、震えていた。俺はゆっくりと頷いて、若葉の隣に腰を落とした。

「俺、絵のこととか全然わかんねーけど、お前の絵はなんかすげぇってことだけはわかる」

「……」

「その……前にスケッチブックを見たとき。教室とか、図書室の風景とか……全部、動き出しそうで。見てると、そこの空気まで伝わってくる。色の重なりとか、光の入れ方とか……そういうのって、教わってできるもんじゃねぇだろ?」

 あの時、一瞬、ちらりと見えただけだった。それでもどれも丁寧に描かれており、緻密で美しくて、それでいてどこか力強さを感じたことは確かだ。儚いようでいて力強く、情感豊かな筆致で描かれていて、見る者の心を強く揺さぶるなにかがある。それらが彼女が今までに積み重ねてきた努力の結晶なのだということがしっかりと伝わってくる絵だった。

「お前が書く絵には、誰かの心を揺らすような力があるんだ」

 どんな理屈も、今はどうでもよかった。ただ正直な気持ちだけが、ぽろぽろと零れていく。

 若葉は何も言わなかった。ただ、小さく息を吸って、目を伏せた。だけど、さっきよりもほんの少しだけ、表情がやわらいで見えた。

「なんか……雪也くんからそう言ってもらえると嬉しいな」

 照れたように笑いながら、彼女は自分の頬に手を当てた。その表情はどこか安堵しているようにも見え、声色も先ほどよりも明るい調子に戻っているようだった。俺との会話が少しでも前向きになれるきっかけとなったのであれば素直に嬉しいと思う。

「お前は、笑ってる顔の方が似合ってるよ」

 俺のその言葉に、彼女は一瞬驚いたように目を見開いた。けれどすぐにその瞳は柔らかく細められ、嬉しそうに口元が綻ぶ。

「ふふ……そう?」

 若葉は照れ臭そうに笑いながら、スケッチブックの端を指でなぞった。その手の動きがどこか迷いを含んでいて、まだ不安は完全には消えていないのだと察した。

 だから俺は、少しだけ勇気を出して、言葉を続けた。

「俺……お前が絵を描くの、やめちまったら、なんかムカつくと思う」

 若葉が目をぱちくりとさせて、俺を見遣った。言い方を間違えたかもしれないが、それでももう止まらなかった。

「だって、お前の絵、すげーのに。こんなとこで投げ出すの、もったいねぇよ。自分のこと、勝手に才能ないとか決めつけてさ、諦めるなんて……もったいないっていうか……」

 そこまで吐き出してふっと言葉に詰まる。うまく言いたいのに、まとまらない。けれど俺なりに、どうしても伝えたかった。

 言葉にならない感情が、胸の奥で渦を巻いていた。目の前にいる彼女は、本気で悩んで、もがいて、それでも一歩を踏み出そうとしている。

「お前、絵描く時、ちゃんと前見てるじゃん」

 ぽつり、と、俺は呟いた。まっすぐな彼女の横顔を見つめながら。

「過去とか、怖かったこととか、寂しかったことも、たぶん全部背負って、それでも前向いて、ちゃんと向き合って描こうとしてんだろ? それって……強ぇよ。俺なんか、あの時ただの嫉妬でお前にひどいこと言って逃げたのにさ」

 若葉が目を見開いて、何かを言いかけて口をつぐむ。その視線を感じながら、俺は続けた。

「絵が描けなくなるのって、たぶん……お前がそれだけ、ちゃんと本気で描いてきたからなんだと思う。手癖で描いてたわけじゃなくて、自分の全部使って描いてきたから、今、止まっちまってるんだ」

 俺の言葉に、若葉がぎゅっとスケッチブックを抱きしめるようにして、それからゆっくりと頷いた。その仕草に、俺は小さく息をついた。

 言いたかったことの半分も伝えられてないかもしれない。けれど――それでも。

「俺……お前の絵、好きだよ」

 そのひと言を口にした瞬間、胸の奥がじんと熱くなった。ようやく言いたかった言葉を、ちゃんと口にできた気がした。

 ざぁっと風が吹き、若葉の髪をさらっていく。

「……雪也くんってさ、……こういうとき、ちょっとまわりくどいっていうか……でも、不思議とまっすぐだよね」

 若葉はそう言って、少しだけ笑った。今度はしっかりとした笑顔だった。さっきまでの、無理に笑っている笑顔ではなかった。

 頬の力が抜けて、瞳がほんのり潤んでいて、でもその奥に、ちゃんと強さがある。

「ちょっと……泣きそうになっちゃったじゃん」

 照れ隠しみたいに言いながら、若葉はスケッチブックを抱きしめた。その仕草で、若葉にとって『絵』はどれほど大事な存在かということが、痛いほど伝わってくる。

「泣きたくなったら、泣いてもいいだろ」

 そう言った俺に、若葉は小さく笑って、そっと首を横に振った。

「ううん、泣かない。今は……もうちょっと頑張ってみたい、って思ったから」

「……ん」

 うまくいくかなんて、わからない。

 でもきっと、大丈夫だ。若葉がまた絵を描きたいって思えたなら、それが一歩になるはずだから。

 そのまま二人とも押し黙ったまま、わずかばかり無言の時間が訪れる。少し気まずいような静寂を破ったのは、彼女の方だった。

「……あの、ね」

 不意に、若葉が声を上げた。少しだけ躊躇うように視線を逸らして、けれど、すぐにまた俺を見つめて唇を開いた。

「日曜にね、展覧会があって。画塾の先生も出してて……よかったら、一緒に行ってくれない?」

 唐突に放たれた若葉の言葉に、俺は一瞬耳を疑った。まさかそんな提案をされるとは思いもしなかったので、ぽかんと口が空いてしまう。

(これって……デート、ってことか?)

 あんなにひどいことを言って突き放したのに――そんな俺が、彼女と二人でどこかに行ってもいいのだろうか。

 頭の中を様々な思考が駆け巡り、うまく言葉が出てこない。聞き間違いではないかと思ったが、彼女の真っ直ぐな瞳と視線が絡まって、それが真実なのだとようやく飲み込めた。

「……俺と?」

「うん。雪也くん、そういうのあんまり行かないかなって思ったんだけど……でも、今の話聞いてたら、なんか、その……一緒に見てくれたら嬉しいな、って」

 目の前に若葉の柔らかな笑みが浮かぶ。西日が彼女の輪郭を縁取って、そこだけ世界から切り取られたような、温かい景色だった。

「あ、もちろん嫌なら全然――」

「……行く」

 俺は少し早口で若葉の言葉を遮った。驚いたように目を瞬かせた若葉に、少しだけ照れくさくなって、俺は頭を掻いた。

「俺でよけりゃ、だけど……」

「本当⁉」

 俺の返事を聞き届けた途端、若葉は勢いよく顔を上げた。ぱっと華やいだ表情が眩しくて、直視できずに目を逸らしてしまう。自分の頬が先ほどよりも熱を持っているような気がしてならない。それは初夏に似つかわしくないこの気温のせいだと思いたかったが、きっと違うのだろうと思う。

「やった! 嬉しい」

 嬉しそうに笑う若葉の表情に胸がざわついて、視線を逸らすしかなかった。心臓が、どくん、と大きく跳ねたような気がした。

 と同時に、喉の奥が少しだけ苦くなる。

(……本当に、俺でいいのかよ)

 絵のことも、美術のことも、ろくに知らない。感性も乏しいし、感情をうまく言葉にするのも苦手で、思ってることを伝えるのにいつも回り道をしてしまう。

 若葉が見ている世界に、俺なんかが並んで立ってもいいのだろうか。

 それに俺は、あのとき若葉を突き放した。嫉妬して、勝手に怒って、最低な言葉をぶつけた。そのくせ今さら、優しいふりなんかして。

 なのに――

「ほんとに、楽しみになってきたかも」

 俺のそんな思考を遮るように若葉の無邪気な声が届く。ふっと顔をあげると、若葉の表情はさっきまでの曇ったそれが嘘のような、太陽のような笑顔を浮かべていた。

 その笑顔があまりにも綺麗で、胸がぎゅっと締め付けられるような錯覚を覚えた。

「日曜……連絡とか、取り合えた方がいいよね?」

「あ、ああ……うん。そうだな」

 慌ててポケットからスマホを取り出す。こういう時にどうすればいいのか分からなくて、指先がぎこちなくなる。

 俺がスラックスのポケットからスマホを取り出すと、若葉もまたスカートのポケットから自身のスマホを取り出して操作を始める。短く切られた爪と細い指。きらきらとした光を宿した長いまつ毛が瞬きの度に揺れる。

「インスタで繋がろ!」

 教室内で何度か目にした光景に俺は小さく息を止めた。ここ数年は写真投稿を中心としたアプリのダイレクトメッセージで仲を深め、メッセージアプリの連絡先を交換する……というのが主流らしいのだが、高校に上がって新たな友人を作らなかった俺はそれをダウンロードしたことがない。直にメッセージアプリの連絡先を教えてほしいと伝えるのは気が引けるが、かといって今から別のアプリをダウンロードするというのもなんだか気まずいものがある。

「俺……ラインしかやってない」

「え? あ、そうなんだ?」

 俺の言葉に若葉は意外そうな表情を浮かべたが、それ以上深く追及してくることはなかった。そのことに内心安堵すると同時に少しの罪悪感を覚える。

 若葉は慣れた手つきでメッセージアプリを開き、俺に向けてQRコードを表示させた。読み取り音が鳴ると、若葉が嬉しそうに微笑んだ。

「ふふ、ありがと。これで、連絡取れるね」

「あぁ」

 俺はできるだけ平静を装いつつ返事をするが、心臓の鼓動は耳の奥で鳴り響いているくらいに大きな音を立てていた。平常心を意識するほどに余計に気恥ずかしくなってくるが、もう今さらどうしようもない。

 若葉がスケッチブックを抱えて立ち上がり、ふわりと微笑んだ。

「じゃあ、また明日! 実力テストも頑張ろうね」

「……ん。また、な」

 俺も言葉を返しながら、スマホをポケットにしまいつつ小さく手を振り返す。そのまま中庭を去っていく若葉の後ろ姿を見送ってから、俺はゆっくりと夕焼けの空を見上げた。

 茜色に染まる空の下――胸の奥が少しだけ、あたたかくなっていた。

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