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3 名前のない距離

 昇降口に差し込む夕方の光が、床のタイルに淡い影を落としている。

 鞄の中に教科書とノートを詰め込みながら、俺は少し遅れて昇降口へと向かった。周囲では既に多くの生徒が帰り支度を済ませ、ちらほらと学校を出ていく。六月も半ばを過ぎて、実力テストが近づいているせいか、いつもより足早に感じる。

「あ」

「……あ」

 靴箱に手を伸ばした瞬間、俺は思わず間の抜けた声を上げてしまった。目の前の若葉も驚いたように目を丸くしながらぱちぱちと数回瞬きをした後、はにかむように笑った。

「雪也くんも、今帰り?」

 相変わらず、若葉は自然すぎるくらい自然に人との距離を詰めてくる。俺は一瞬、返事に迷いながら、ぎこちなく「まあ、な」とだけ応じて自分の靴箱の扉をゆっくりと開いた。上履きからローファーに履き替えつつ、視線を足元に落とす。

「私も今帰るところなんだ」

「……部活は?」

「来週実力テストだから、今日からみんなお休み~」

 靴を履き替えて顔を上げれば、若葉は手にしている鞄を肩にかけ直しながらこちらを見つめていた。その双眸がどこか嬉しそうに細められるものだから、俺は咄嗟にふいと視線を逸らしてしまう。なんだか気恥ずかしいような、それでいて居たたまれないような、形容しがたい妙な感覚が胸の奥でぐるぐると渦巻いている。それらを振り払うように小さく咳払いをしつつ、手に持った上履きを下駄箱に押し込んだ。

「この前図書室で勉強してるの見たから、放課後はいつもそっちに寄ってから帰るのかと思ってたの。だから今日はちょっとびっくりしちゃって」

 まさか、誰かに図書室で自習をしている様子を見られているとは思ってもおらず、俺は僅かに息を呑んだ。児童養護施設に保護されている俺は、放課後は図書室で勉強をしてから帰ることが多い。施設ではまだ幼い子どもたちに囲まれ、遊び相手をしたり宿題を見てやったりするので、俺自身が勉強する時間がなかなか取れないのだ。

 それに、学校の図書室の方が資料や参考書が豊富で勉強しやすいからということもある。ただ、今日はなんとなく気が乗らなくて、そのまま帰ることにしただけだ。

「別に、毎日図書室で勉強してるわけじゃねぇよ」

 彼女に秘密にしているわけでは無くとも、それがなんとなく気恥ずかしくて俺は若葉の言葉につっけんどんな調子で返事を返す。

「そうなんだ」

 若葉はそう短く返事をしてから、どこか少し照れくさそうに微笑んでいる。彼女のその笑顔に、また心がざわめくのを感じた。

(……なんでこいつ、こんな嬉しそうな顔してんだろ)

 俺は特に面白いことを言ったわけでもないし、むしろ素っ気なく乱雑な返事だったと思う。なのに彼女はどうしてか嬉しそうな顔をしているのだ。その笑顔にまた心が弾むのを感じながらも、俺はそれを悟られないように小さな咳払いで誤魔化した。

「そういうお前は?」

「私? いつもは部活がお休みの時は友達と一緒に帰ってるんだけど……今日はその子用事があるみたいで」

「……ふーん」

 つまり、今日は一緒に帰る相手がいないから俺に声をかけたということなのだろうか。俺はちらりと横目で若葉を見遣る。彼女は特に気にした様子も無く、にこにこと笑いながら隣を歩いている。

「雪也くんさえ良ければ、なんだけど。今日さ、図書館行かない?」

「……は?」

 予想外の言葉に一瞬驚いて目を丸くする。若葉はそれに気が付いているのかいないのか、少し緊張したような面持ちでこちらを見つめていた。

「今日の世界史、全然ついていけなくって……このままじゃテストだめかもって思ったらちょっと心配になって。この前校内模試でトップだった雪也くんに勉強教えてもらえないかなって……」

 若葉はそう言いながら、柔らかく首を傾けた。悪意なんて一切感じない。むしろ、純粋すぎて眩しい。

 確かに俺は一年の頃から試験では常に上位をキープしていた。それは別に頭が良いからじゃない。ただ、やるしかなかっただけだ。

 施設に入っていれば、ある程度の支援は受けられる。高校まではなんとか通える。けど、その先は違う。生活費は自分でどうにかするしかない。

 だから――俺は進学しない。

『誰かに必要とされる』ために高校を出たら働く。それが当たり前だと思っていた。施設の大人たちも、そのつもりで俺の就活を応援してくれている。だから俺も、それに応えるために、成績は一番を取るようにしてきた。

 どんなに小さなチャンスも逃さないように。一般家庭のやつらに負けないように。学費分の三年間を、一滴残らず使い切ってやるつもりだった。

 でも。

(なんで、……こいつは俺に関わろうとするんだ)

 勉強を教わるなら俺じゃなくてもいいはずだ。成績上位者なら他にもいる。俺より社交的で、感じのいいやつなんて、それこそいくらでも。

 それなのに、なんで――俺なんだ。

 この前の昼休みもそうだった。若葉は、わざわざ俺の隣に座って昼飯を食った。あんなの、他に誰もいなかったからってだけの理由で済ませられることじゃない。

 俺のことなんて何も知らないくせに。いや、知らないから関わろうとしてくるのか。

 それとも、上辺だけの優しさか――『勉強できる人に教えてもらいたい』っていう、ただの打算か。

 そんなはずない、って思ってしまう自分が、面倒くさい。でも、本当にそうなら、と、期待してしまう自分も、もっと面倒くさい。

(俺なんかを誘っても、つまんないだけなのに)

 彼女は、いつも誰かに囲まれている。誰とでもうまくやれる。笑顔だって絶やさないし、話題も豊富で、気配りもできる。

 俺みたいに何も持っていない人間と並んで歩く理由なんて、どこにもないはずなのに。

「……なんで、わざわざ図書館で?」

 俺の声は、自分でもわかるくらいに冷たかった。若葉は少し驚いたように目を瞬かせたあと、小さく首を傾げた。

「家だと、誘惑多くて。漫画読んじゃうし、つい寝ちゃうし」

 あっけらかんとした答えに、俺はかえって困惑した。おそらく、本当にそれだけなのだろう。彼女の中では、たいした意味なんてない。ただそれだけのこと。

(……やめろよ、そうやって気安くされると)

 そんなふうに笑ってくるな。そんなふうにまっすぐ話しかけるな。

 俺の中にある『壁』が、音もなく崩れていくのがわかってしまうから。

 そんなことを思ってしまう自分に、嫌気が差す。誰かを疑うことでしか、自分を守れないなんて、情けないと思う。

 他人に頼らず、誰かとの関わりも最低限で。自分の力だけで、静かに、ひっそりと生きていければそれでいい――そう思っている、のに。

「……別に、いいけど」

 気づけば、俺はそう口にしていた。断れなかったのは、若葉の声のトーンがあまりにも日常の延長に思えて、拒絶する理由を失ったからだった。

 わざと無関心を装うようにして言ったつもりだったのに、自分の声が少しだけ掠れているのに気づく。情けない。けれど、そんな俺の心情を知って知らでか、彼女は嬉しそうに顔を綻ばせていた。

「ほんと? じゃあ、駅前の市立図書館、行こうよ! 私、世界史のノートと資料集持ってるから!」

 無邪気にそう言って俺の隣を歩く彼女を見ながら、俺はなんとも言えない気持ちで視線を前に戻した。

 六月の夕暮れは、ほんのりとまだ明るいものだった。駅へ向かう人の群れに混じって歩きながら、ふと、自分の歩幅が若葉とぴたりと合っていることに気づく。

 俺の足に合わせたのか、それとも偶然か。そんなことを考える自分が、なんだかひどく子どもっぽく思えて、小さく舌打ちをした。

(俺は、何がしたいんだろうな)

 俺と若葉のあいだには、まだ名前のない距離がある。それを測る言葉を、俺はまだ知らない。

 でも――今だけは、この沈黙が、少しだけ心地よかった。

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