2 隣に座る理由
ガタガタと机を引きずる音。どこかのテーブルで「ねえ、それ食べすぎ!」という弾んだ声と笑い声。雑音に満ちた昼休みの教室で、俺はひとり、登校中にコンビニで買ってきた惣菜パンを机に広げた。
三年に進級したからといって特に変わったことも無く、ただ淡々と月日だけが過ぎていった。五月に入って開催された体育祭は例年と同じように運動部の連中が活躍していたし、部活動をしている連中は最後のインハイ地区予選に向けてピリピリムードだが、帰宅部である俺にはそれらはまったく関係のない事柄だった。
若葉と同じクラスになったものの、始業式の日に席替えが行われたので席が隣だとかそういうこともなく、毎朝友人たちと登校してきた彼女と昇降口で挨拶を交わす程度。美術コースを選んでいる彼女は造形やデッサンといった専門科目を選択しているので、同じ授業を受講する機会も少なく、現状の俺と若葉はただのクラスメイトで、ただの顔見知りなだけだった。
(なんか、今日はやけに眠いな)
昨日は夜更かしをしたわけでもないのに、なんだか頭がぼんやりとする。それに少し息苦しさを感じるような気さえした。風邪でも引いたのだろうか。
眠いのは朝目覚めた時からずっとだが、今日は妙に視界が霞む。それに、一時限目で配布されたレジュメで指先を切った時の血がなかなか止まらない。昼休みに入った今もなお、張り替えた絆創膏に血が滲み出ている。
(とりあえず……飯、食うか)
そんな風に心の中で独りごちながら、惣菜パンを一口かじる。いつもの味なのに、やけに味が薄く感じた。舌が鈍っているような、感覚が奥の方で霞んでいるような、そんな奇妙な感覚。
机に頬杖をついたまま、ぼんやりと教室の雑音に耳を傾けていた。笑い声、箸が当たる音、ビニールの包装を開けるカサリとした音。全部、少しだけ遠い。自分だけが、分厚いガラス越しにその風景を眺めているような――そんな気がした。
昼休みともなると多くの生徒が各グループごとに机をくっつけ合って談笑をしているが、俺はいつも一人だ。だけど、こうして一人でいるのが、楽なわけじゃない。
でも、誰かと一緒にいるには、俺はあまりにも『他人に説明しなければならないこと』が多すぎる。
家族の話。兄弟の話。お正月や誕生日の思い出。普通に交わされるそんな話題ひとつとっても、俺はそれを語れない。
それらの会話に参加できないし、嘘をついてまで繕うこともしたくない。
だったら――最初から、関わらなければいい。
施設育ちだと知られれば、たいていのやつは一瞬、目を伏せる。気まずそうな笑いを浮かべて、「そうなんだ」「大変だったね」と、うすっぺらい共感の言葉を口にする。
それを聞くのが、たまらなく嫌だった。
(なんで、知らなきゃよかったって顔をするんだよ)
同情されたくて話してるわけじゃないのに。哀れんでほしくて、今ここにいるわけじゃないのに。
だから、俺は進学する時に決めた――高校では、施設のことは言わない。教員は進学指導で必要だから知ってるけど、それ以外には話さない。
そう決めたのは、自分を守るためだった。
誰かに憐れまれるよりも、誰にも興味を持たれないほうがずっとましだ。
だから、友達なんか作る気もなかった。作れなくても、別に困らないし。
そう思っていたはずなのに――
(……なんでだろうな)
気づけば、視線は自然と教室の扉の方を向いていた。その自分の無意識に、ちょっとだけ腹が立つ。
昼休みに入ると、若葉はいつものように教室を出ていった。隣のクラスに、いつも仲良くしている女子がいて、昼休みにはそっちで食べるのが習慣らしい。俺には関係のない話だ。
(いつも通り、なのに。……俺、なにやってんだよ)
ほんの少し前に会話しただけ。たったそれだけなのに、どうしてこうも気になるんだろう。
彼女は明るくて、よく笑って、友達が多くて。俺とはまるで違う世界に生きている。
それに――
(きっと『いいとこの子』なんだろう)
制服の着こなしひとつ、文具の趣味ひとつ、仕草の節々に育ちのよさが滲んでいる。俺みたいなやつとは、分かり合えない。分かり合えるはずがない。
そう思うことで、自分を保ってる。自分から手を伸ばせない理由を、正当化している。
惣菜パンを齧りながらも、妙な虚しさだけが喉の奥に引っかかって、食欲もまばらだった。手元のパンを千切っては口に運び、何も考えていないふりをして、もう一度、何の気なしに入口へ視線を向けたその瞬間、ガラリ、と教室のドアが開いた。
「……あ、いた」
弾むような声。思わず顔を上げると、そこには若葉がいた。息を弾ませながら教室に戻ってきた彼女は、俺を見つけると一瞬嬉しそうに目を細め、それからすぐこちらに向かって歩いてきた。
「今日ね、友達が弁当忘れちゃってさ。だから、こっち戻ってきたんだ」
明るい声が耳朶を打つ。でも、俺の中では警報が鳴っていた。
「……だからって、なんでわざわざこっちに来るんだよ」
言葉にトゲが混じったのは、意識的じゃなかった。ただ、なんだか胸の奥を見透かされそうで、怖かった。
若葉は少しだけ目を丸くしたあと、ふわりと笑った。
「だって、ひとりだったから。隣、空いてるでしょ?」
そう言って、俺の隣の席をポンと叩く。若葉の表情は、からかうでも、哀れむでもなく、ただ純粋な疑問を浮かべていた。
俺は言葉に詰まって、一瞬、何も言えなかった。
だけど、彼女のその視線が、自分の奥深くに踏み込んできそうで――俺は、とっさに視線を逸らした。
「なんで……わざわざ、俺と食べようなんて思うんだ」
ぽつり、と、そんな言葉が口からこぼれた。我ながら感じ悪いと思った。でも、止められなかった。
俺なんかと一緒にいると、損するぞ。噂されるぞ。浮くぞ。
そういう無数の『警告』が、心の中で警報みたいに鳴り響いていた。
けれど若葉は、少しだけ俺の方に身体を傾けて、不思議そうに唇を開いた。
「……なんで、そんなふうに言うの?」
「は?」
若葉の声は、思ったよりも真っ直ぐだった。責めるでも、呆れるでもなく。ただ、心からの疑問のように。
「そんなふうって……」
「まるで、私が変なことしてるみたいに聞こえたから」
若葉はそう言って、少し首を傾げる。揺れたポニーテールから、光がこぼれた気がした。
「だって、そうだろ。……俺となんて、普通、わざわざ一緒に食べようなんて思わない」
「なんで?」
まただ。その『なんで?』が、いちいち俺の中の何かをざらりと逆撫でてくる。なるべく無表情を意識しながら、俺は言葉を探した。彼女にそれ以上踏み込まれないように、心に壁を立てて。
「俺、別に、話しやすいとかそういうタイプじゃないし……」
「うん、それはちょっと思った」
「……っ」
ズバリと言われ、少しむっとする。けれど、若葉は笑ってなかった。からかうわけでもなく、真剣な目で、ただ俺を見ていた。
若葉は、自分のタッパーを机に置きながら、小さな声で続けた。
「前にスケッチブック拾ってくれたときも、すごく丁寧に扱ってくれたよね。ああいうとこで、雪也くんって優しいんだなって思ったから」
俺は口を噤む。その一言が、胸のどこかに刺さって、俺はただパンの袋を握り直すしかできなかった。
「でも、そんなの……誰だってやるだろ」
「そうかな。私、あの絵見られたとき、ちょっと恥ずかしかった。でも、雪也くんが何も言わずに返してくれて……なんか、うれしかったの」
その声に、下手に応えることができなかった。俺の中にある「俺は特別じゃない」という言い訳が、少しずつ崩れていく気がした。
言葉を探しても、上手く声に出せなかった。これ以上何を言っても言い訳になりそうだ。
なにより――心が、ひどくざわざわと騒いでいた。
「一緒に食べたらダメかな? ちゃんと静かに食べるから。無理に話しかけたりしないし、迷惑だったらすぐどくよ」
そう言って、若葉はもう席についてしまっていた。水筒をカチリと開け、弁当の蓋を開ける。その手の動きすら、どこかリズミカルで――俺とは違う生き物みたいだった。
でも、なぜだろう。不思議と、追い払いたいとは思えなかった。
「……好きにしろよ」
やっと出た言葉は、ぶっきらぼうで素直じゃなかったけれど。若葉はそれを聞くと、ふっと笑って、ひと口目を頬張った。
彼女の横顔は、どこまでも自然で、なんの見返りも求めていないようだった。
(……なんで、俺なんかと)
その疑問は、まだ胸の奥で渦を巻いている。
でもその渦の真ん中に、何か温かいものがひとつ、灯っていた。