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1 桜舞う日

 薄雲が膜を張ったような空に、ひらひらと桜の花びらが舞っている。このところの寒さで開花が遅れていたが、今日は春の陽気に包まれて一気に花開いたようだ。昇降口のガラス越しに見える淡い景色を見つめ、俺は小さくため息を吐いた。

「進路……なぁ」

 中学三年の夏休みに勧められるがまま高校に進学した俺は、順当に進級し、気が付けばこうして三年の春を迎えていた。午前中の始業式後のホームルームで配布されたGW明け締め切りの『進路希望調査【最終】』と書かれたプリントを鞄に押し込もうか少しの間迷ったあと、またひとつため息を吐いた。

(どうせ……俺に就職以外の選択肢なんて無いんだし)

 そうだ、困る必要なんて一つもない。身寄りがなく国に保護されている自分は、高校卒業後は経済的にも自立を目指して就職する以外の選択肢は残されていない。現に、これまで数度行われた希望調査でも俺は『就職』を選択している。

 俺には親がいない。物心ついた頃には児童養護施設で暮らしていて、親の顔なんか知らない。でも、別にそれを不幸だとは思わなかった。

 ただ――『親にとって自分は必要のない人間だった』という想いだけがずっと心残りだ。施設に保護される前の記憶なんてほとんど無い。『必要とされなかった』という事実だけが、これまでの俺の人生の全てだ。

 けれど、それを悲観する気持ちよりも『必要とされたい』という強い想いがいつも俺を突き動かし続ける。だから勉強は頑張ったし、スポーツだって頑張った。長期休暇中だけはバイトにも行っている。『誰かに必要とされたい』という想いが、俺の人生の中心にいつもあるから。

『誰かに必要とされる』ために、学校を卒業したら施設を出て働いて、社会の一員として一人で生きていく。高校への進学を決めたのだって、親代わりをしてくれている職員たちが高校ぐらいは出ておけと言ってくれたからだった。俺が抱く夢なんて、それくらいのものだった。

(ほんと……嫌になる)

 皆当たり前のように『教員になりたい』や『看護師になりたい』という夢や、『エンジニアになって起業したい』という目標を持っている。そこに自分の将来や希望を投影して、それに向かって頑張っていたりするのに、俺は皆と違う。施設で育った俺は、その生い立ちから『普通の人』とは少し違う人生を送ってきたと思う。同じ生き物なのに『俺』だけが劣っているのだと言われているような気さえして、こうしてたまに、どうしようもない孤独感に襲われる。

 だからせめて、俺以外の人たちと同じようになれるように努力しなくてはいけない。いつまでも憐れまれる側ではいられないのだから。そう、頭では分かっているのに。

(……疲れた)

 なにもかもが上手く行かない。生きているだけでこんなに苦しいのに、こんな俺に一体何が残されているというんだろう。

 小さく息を吐いてから進路調査票を鞄に突っ込んで靴棚に手を伸ばしたところで、後ろからバサリと大きな音が響いて思わず振り返る。

「あっ……」

 振り返った先には、小走りにこちらへ向かってくる女子生徒がいた。高い位置で結われたポニーテールが風に揺れ、頬にはほんのりと桜色の気配。見覚えがある――今年から同じクラスになった、もうひとりの「鈴木(すずき)」だ。

 彼女の視線の先に落ちていたのは、彼女のトートバッグから滑り落ちたスケッチブックだったようだ。

「ごめん、それ……!」

 俺の足元近くまで滑り込んできたスケッチブックを、俺は黙って拾い上げる。手に触れた表紙は、柔らかい布張りで、角は少し丸まっていた。何度も使ってきたんだろう。

「……落ちたぞ」

 差し出すと、彼女は「あ、ありがとう」と少し気まずそうに笑った。その拍子に、ふいに風が吹き、留め具のゴムが外れてページがめくれる。

 ぱら、と開いた中のページに、思わず目が留まった。

 教室の窓から射し込む光。並んだ机。誰もいない放課後の教室らしい空気。

 でもその描線は、写真のようにリアルなのに、どこか温かくて、柔らかかった。空気の匂いまで感じられそうなほど、静けさと光が描かれていた。

 その絵の隣に描かれていたのは、図書室だった。整然と並んだ本棚、やや古びた木の机と椅子──その静謐な空間の隅に、俯いて本を読んでいる男子生徒の姿がある。白シャツの袖を肘までまくって、少し猫背でページを繰っているその後ろ姿。

(……上手い、っていうか)

 上手いなんて一言じゃ済まされない。描いた人間の目に映ったものだけじゃなく、その時感じていた『空気』や『音のない時間』までもが紙の中に封じ込められている――そんな印象だった。

「……見ちまった、すまん」

 俺がそう言ってページを閉じると、彼女は少し驚いたように目を見開き、それから小さく笑った。

「ううん、気にしないで。……ありがとう」

 その「ありがとう」が、なんの礼なのか分からなかったけど、俺は「ん」とだけ返してスケッチブックを渡した。彼女の腕に戻ったそれは、なんだかとても大事なものに思えた。

「えっと、鈴木……くん、だよね?」

 名前を呼ばれて、なんとなくむず痒さが残った。自分の苗字を、他人の口から聞くのはどうにも馴染まない。特に彼女の高く透き通った声で呼ばれると、どうにも落ち着かなかった。

「……雪也(ゆきや)でいい。お前も苗字『鈴木』だろ」

 この高校は総合学科しかなく、授業も自分で好きな科目を選ぶことができるので、同じクラスになっても知らない顔はザラにある。それでも、クラス替えで初めて同じクラスになったとはいえ自分と同じ苗字だということもあり、彼女の顔と名前はいの一番に覚えた。クラスメイトを呼ぶのに自分の苗字を口にするのは、俺自身もむず痒いものがある。

 俺の言葉に彼女は一瞬驚いたような顔をしたものの、すぐに口元を綻ばせた。

「あ、うん……じゃあ、雪也くんって呼ばせてもらうね。私も若葉(わかば)って呼んでもらっていいから」

 自分の名前を口にするとき、若葉はほんの少しだけ声を下げた。無意識なのか、それとも何か特別な理由があるのかはわからない。でも、その声音が妙に耳に残って、俺は曖昧に頷いた。

 ふと、会話が止まった。

 沈黙が落ちたわけじゃない。ただ、少しだけ春の空気が入り込んでくる。花の匂いと、制服の擦れる音と、彼女がスケッチブックを持ち直す気配。それらの空気感がなんとなくむず痒くて視線を足元に落とすと、彼女の手が靴箱に伸びていることを視認する。どうやら俺と同じく下校するところらしい。靴箱のローファーは綺麗に揃えられていて、彼女は几帳面なタイプのだろうと察した。

「雪也くん、靴箱隣なんだね。これから一年、よろしく」

 自分の名を呼ばれることがなぜか妙にくすぐったくて、俺は短く「ん」とだけ返事をした。若葉は履き替えたローファーのつま先をトントンと整えていく。なんの気なしにその動きに目を遣れば、彼女はそのままこちらを振り返るようにして微笑んだ。

「雪也くんって部活とか入ってないの?」

「いや……なにも」

「そうなんだ。私は美術部に入ってるんだ。でも、最近描いててもしっくりこないことが多くて困ってる」

「へえ……」

 彼女と初めて交わす会話は、至極ありきたりなものだった。『部活に行かなくていいのか』と問いかけようとした刹那、胸元に生じた違和感に言葉を飲み込んだ。酸素を求めて浅く呼吸を繰り返すが、その度気道がヒューヒューと嫌な音を立てた。

(また……)

 このところ頻繁に起こるようになった喘息のような症状にぐっと唇を噛む。若葉は急に黙り込んでしまった俺に気が付いたのか、少し眉尻を下げてこちらを覗き込んできた。

「どうしたの?」

「……いや。ちょっと喉が詰まっただけ」

「そっか。この時期、黄砂とかもひどいもんね」

 さらりとした声音は、快活そうな彼女の見た目に調和していて、ひどく心地よい。第一印象通り彼女は話しやすくて、そしてころころと表情を変えていく人間だった。その変化をもっと見ていたいと思う反面、この症状のことをあまり他人には知られたくないという心理が働いて、彼女と距離を取ろうとしてしまう自分がいる。

「その、お前は今日は部活行かねぇでいいのかよ」

 女子と隣合って歩くことに慣れていないからか、なんとなくどぎまぎしてしまう。俺が少し詰まりながらもそう返せば、若葉は少しだけ苦笑いに近い表情を作った。

「あ、うん。明日校内模試があるでしょ? だから、三年生はお休み」

「ふぅん」

 若葉に倣うように靴を履き替えて昇降口を出れば、桜が散り始めた校庭には下校する生徒が多く見られた。花壇に植えられたパンジーやチューリップも色鮮やかで綺麗だ。

「じゃあ、またね」

 若葉はそう言って、小さく手を振った。

 その手を見送ってから、俺はようやく「またな」と口の中でだけつぶやいた。声に出すには、なんだか照れくさすぎた。

 春の風が通り過ぎたあとの昇降口は、すっかり静かになっていた。

(不思議なやつ、だな)

 あのスケッチブックの絵も、話し方も、名前の呼び方も。

 全部がどこか俺とは違っていて、遠くて、けれど……ほんの少しだけ近づいてきたような気がした。

 でも。

(たぶん、全部気のせいだ)

 そうやって、勝手に近づいたと錯覚して、勝手に傷つくのが俺だ。自分を特別だと思ったことなんて一度もないし、思えるほど何かを持っているわけでもない。

(鈴木若葉……たぶん、育ちも環境も、何もかも俺とは違う)

 彼女が持ってたサブバックは、少しだけ上質そうに見えた。髪を留めるリボンも、女子高生に人気のキラキラしたコスメブランドのものだった。

 そんなふうに見えるだけかもしれないけど――そう思った瞬間から、自分の中で境界線が引かれてしまう。

(どうせ、俺のことなんか、……あいつはすぐに忘れる)

 彼女の姿が見えなくなった昇降口の外を見つめたまま、俺はもう一度ため息を吐いた。

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