くたばる狐亭にて 前編
戦いの舞台は一時、遠のいた。
浮遊台座の魔力圏が収縮し、トボルクは姿を消す。意図的な撤退――あるいは、彼なりの「猶予」だった。
「なぜ撤退したんだ……」
レミィが地に沈み込むように座り、汗まみれのバットを見つめる。
「奴は“怒っていない”。遊んでいるのさ」
グリマルドの声は冷え切っていた。
三人は森を抜け、ふたたび《くたばる狐亭》へと戻ってきた。前に、『くたばり狐亭』という名前だったと、覚えておられる方もいるかもしれないが、青森の千葉直也君からのお便りで、「日本語としておかしいです」とのことですので、名前を変えました。テヘ。
木組みの扉を押し開けると、見慣れた風景――粗野で不潔だが、妙に落ち着く宿の空気が戻ってくる。
「おい、またあんたらか。今度は何やらかした?」
亭主のババロアが声をかけてくる。片目を失い、口からは常に酒の臭いを漂わせる元傭兵。
「鉄機を壊され、魔獣を倒して、今度はオーガメイジとバットで殴り合いっす」
ミナが顔を伏せながら、ぼそりと言った。
「……随分とスケールが変わったな。酒代と風呂代は、今度こそ前金だぞ」
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夜。
三人は久々に湯に浸かり、くたばる狐亭の粗末な部屋で肩を並べて眠った。
「……鉄機、直せるかもって思ってた。でも、もうあたし――」
ミナが布団からつぶやいた。
「鉄なんかより、バットの方が手応えあったろ?」
レミィの返事に、ミナはちょっとだけ笑う。
「まあね。でも、たまに油臭いのが恋しくなるかも」
「じゃあ、バットにオイル塗っとくか」
「意味わかんないよ、それ……!」
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一方――宿の地下。
グリマルドはひとり、封印されし「古代の兵法書」を開いていた。
《補給なくして勝利なし》
「いずれ……また“補給線”の問題に戻る。バットだけじゃ、戦は続かん。だが、今はあの二人に任せておこう」
老人は静かに頁を閉じた。
外では、また夜が深まっていた。