1
「再婚しようと思う。子供も彼女に懐いているから」
蝉が鳴いてた。わたしは深爪した親指を眺め、そっかそれもいいんじゃないかな、と言ったんだ。
『所詮、他人』
職場に離婚を報告した際、これから大変だけど頑張ってねと返される。親権がわたしにあると決め付けるものの、子煩悩と思われていないだろうし、一般的な感覚でシングルマザーは大変と言う。
実際のところ、わたしはシングルマザーにならず大変とも思っていない。同僚や上司の気遣う態度に困った作り笑いを浮かべ、ついでに退職願を添えた。それが一昨年の話。
単純にわたしは結婚に向かなかった。他人の足音、寝息、話し声など生活リズムが聞こえると苛立ち、自分のペースを乱されるのが嫌で堪らない。
こんな事を言うとわたしの人間性に問題があると指摘されよう。もちろん、ある。協調性の欠落、神経質が過ぎると批難されても否定しない。
例えば朝起きてテーブルに飲みかけのコーヒーがあると頭痛がする。カップを片付けなかった事に腹を立てているんじゃない、1日の始まりを他人に汚された気がして悔しいのだ。
目覚めたら三十分くらいダイニングテーブルへ突っ伏し、まどろむ。これはわたしにとって儀式めいたルーティン、低血圧の体質を覚醒させる時間。結婚してからも誰より早く起床して続けていた。
モヤがかかる脳内に芸能ニュースを流すのが好き。自分に一ミリも関わらない誰かのスキャンダルは関心と執着の天秤をフラットにしてくれる。
本来わたしには結婚、まして子供を授かりたい願望など無かった。本来と前置きするのは田中に出会い、変わった、変えられたから。
では、田中の話をしよう。
元夫である田中はダンサー・イン・ザ・ダークを定期的に鑑賞する、わたしに無い価値観を持つ男。
田中と出会った頃、わたしは妻かいる相手と交際しており、彼の奥さんに慰謝料を請求されていた。
わたしは田中の金を支払いへ当てられないか目論む。ダンサー・イン・ザ・ダークを観て絶望しないならば女に騙されるくらい平気だなと。なんなら罪悪感を持たせてくれないのが田中である。
歴代の恋人達は夜職と言うだけあって金払いは良く、結果、慰謝料を肩代わりしてくれた。
田中の女から強請らせないスマートさというか、小賢しさが鼻につくも「セックスの前に口座残高を囁くと感度が上がる」というアメリカか何処かの論文を真に受け、そこそこリアルな金額を提示する姿に悪くない感情を抱くまで時間はそうかからない。
貸した金の話を一切せず、たまに会って食事をして、気分が乗ったらセックスする関係でいいと割り切っていた。ところが借金を返済すると決めたあたりでわたしとの結婚を意識しだしたのだ。
ちなみに良心の呵責で返済する訳でなく、元々払う金はあった。つまり田中の金で慰謝料を立て替える事に意味がある、こう打ち明けた日は台風の影響で停電した八月。他にやることがなくてセックスしていた。
エアコンが効かない締め切ったワンルームでするセックスは口座残高を聞いてするよりも良くて。昔、虫カゴに入れたセミが交尾していたが、あの光景と重なる。セミのメスは一度しか交尾しないらしく、オスは複数回するそう。だったら不倫した女は来世でセミのメスになればいい。わたしはひぐらしになりたい。
どうして慰謝料を田中の金で建て替えたのか、話を戻そう。彼が既婚者とわたしは知らなかった。
いやいや白々しい、知らなかったからといって許されるのか、テンプレート化した非難を浴びるのは分かっている。他人のものを盗ってはいけないって小学生でも理解してるし、別のメスがいるオスを嗅ぎ分けられない本能の低下は由々しき事態だ。
だが、それでも本当に知らなかったんだ。
まぁ仮に知らなかったと主張したとて、奥さんは絶対信じない。慰謝料の減額を求めるパフォーマンスと受け取るはず。わたしはいちにもなく謝罪と支払いをすると受け入れる。彼との交際もやめ、一切連絡しない旨の誓約書を書く。
そして先方が関係の再構築を目指し、慰謝料を使って旅行をすると聞かされた時、生まれて初めて飛行機が墜ちればいいのにと願った。
お願いだからわたしの金で旅行へ行ってほしくない、田中の金なら勝手に行けばいいし飛行機も墜ちなくていい。こんな独りよがりの思考に田中は怒るでも叱るでもなく、自分は結婚したら浮気はしないと宣言。
振り返るとこれが交際スタートの合図で、約一年後にわたし達は結婚する。