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第三話 香油と侍女と貴族の紋章

 レイの用意してくれた朝風呂にも近いそれを終えたわたしは、様々な思考の疲れからほっと解放されたような、そんな気分に浸っていた。

 起きた後、脳裏を漂っていたのは恋人と親友に対する怨嗟と言っていいほどの抑えきれない怒りだった。

 それを年の離れた侍女は見事に癒してくれたと言うか、もつれにもつれて拗らせていたわたしの感情をあっさりと解きほぐしてしまった。

「こういう時はあまり熱くない湯に浸かるといいのですよ。全身を緩めて、好きな香りを楽しめる香油を垂らしてそれを楽しめばいいんです」

「この中に油が入っているの?」

「まさか直接入れるなんてことはしませんよ。多めの塩に少し混ぜている だけです」

「へえ……」

 女性としてのたしなみより魔導の辺境にその身を捧げてきたわたしにとってはこういった細かなことはまだまだ未知の領域だ。というよりは自身の女子力のなさが露呈しているに過ぎないのだけど。

 この香りはわたしの好きな匂いかというと、実はそうでもなかったりする。

 ルーデンスという名の冬の野生に咲くその花は、甘くもなく涼やかでもない。

 なんと表現すればいいのだろう。 少し深みのある木の香りが怒りや焦りを癒してくれる。 王宮に仕える二級魔導師としての顔とは別に、調香師に頼まれて魔素の深い森から原木を伐り出してくる仕事をしていた祖父が好んだ香り。

 まだこのボルデスの街に住んでいた幼少時代に、祖父について山に入り色々と教わったことを思い出し、鼻の奥がツンとした。

「アルフリーダーはまだまだ女性としてのたしなみが足りませんね」

「そんな嫌味を言う侍女なんて、我が家にいるあなたくらいのものだわ……レイ」

「褒め言葉と受け取っておきますね」


 誰も褒めてなんかいない。それどころかぬるま湯と言っていたのに彼女は湯が冷め始めるとどんどん追加の熱湯を注ぎ込んでくる。

 なんだか大きな鍋の中で煮られているような感覚に襲われる。

 わたしはちょっとだけ首筋に脂汗をかいていた

「昨夜から手入れもせずにほうりっぱなしで寝たから、髪を固めているその油を溶かすのはなかなかに大変なんですよ」

「忙しい朝に手を煩わせて申し訳ないと思っているわ」

「その気持ちだけで十分です。もう少し終わってのんびりしていて下さい。その間に朝食の支度と、他の家人たちに指示も出しておきますから」

「やっぱりこんな髪型をしているわたしは、だめな主人……?」

「そんな自信のない発言はやめてください。二級魔導師になりおじい様の後を継いでこの街のために働くと決めた時のあなたは、もう一人前の淑女の顔をしてましたよ」

「 私はそんな淑女の顔をよりも、準士として――最低の位の貴族だけど。おじい様がずっと管理してきたこの土地を、受け継げるかがを問題だと思うの」

 ラルクとの婚約はその意味ではとても有用なものだった。

 彼と結婚すれば王族の一員にもなれるし魔導師としても箔がつく。

 土地に古くからいる貴族の最上位にもなれるし、まだ若い女魔導師の言葉なんてと軽んじる老人たちの口さが無い一言も効かずに済むからだ。

 なんて、仕事のことを口にするとレイにはあっさりと見抜かれてしまう。

「男に振られてもしくは男を振って、仕事に生きる女もよろしいと思いますが、まずは昨夜の問題をさっさと片付けた方がいいんじゃないかしら」

「……ぐっ」

「嫌味を言うみたいで申し訳ないけど、お嬢様。相手が相手ですから早く手を打った方が後々面倒くさいことにならないと思います」

「それは……分かっているわ。でも今すぐにこうしようなんて思っても頭が……心が付いて来てくれないの、レイ」

 そう言うと待女は仕方がないですねー、何て間延びした返事と共に、がっちがちに固まったわたしの髪にお湯をかけ、ある程度緩んだところでお湯を交えながら解きほぐしていく。 その手つきは繊細だけどちょっと乱暴で、怒っているのかとも思ったけど怒りの矛先はどうやら婚約者に向けられているようだった。

「まず何からしましょうかお嬢様。ラルク様は持ち物全てをもたれてこの家から出て行かれたとそういうことですか? エリダ様も」

「それは――その……多分、裸に近い格好だったんじゃないかしら」

「 たぶん?  私が休ませていただいた後にそっと帰られれたのではなかったのですか」

 その問いに、私はつい返事を返すのが遅くなってしまった。

 言えなかったからだ、二人がベッドに裸でいるところを発見してしまい、魔術で屋敷の外に放り出してやったなんて。

 年上のレイから見ればなんてはしたないことをした、と言われそうで恐かったのだ。

「結界を発動したことと、このなかなか解けてくれない寝癖と、お嬢様の機嫌の元はすべて繋がっているようですね。ということは、あの二人の衣類や持ち物はまだ屋敷内にあるということですか」

「……そうね。ラルクとエリダの服はもちろん。彼の魔法剣もベッドのそばにあったし、エリダが普段身につけていた宝石なんかも多分まだ残ってると思う。 あの二人どうやってそれぞれの屋敷に戻ったのかしら」

「 戻った? そう言えるということは、最後まで確認をされたということですかお嬢様」

 そう問われ私は首を振った。

 最後まで確認する余裕なんてなかった。

 ただ、あの二人はもし河の中に放り出されたとしても、しぶとく生き残っているように思えて仕方がなかった。

「なるほど。わかりました、ではまずやるべきことからやりましょう」

 そう言うと、膝をついてわたしの髪を解きほぐしていた彼女はすっくと立ち上がり部屋を出て行こうとした。

「え、ちょっと待ってよ、レイ。何をするつもりなの!?」

 わたしは彼女の行動に驚き、質問と同時にほっていかないでと声を上げる。

 レイは扉を開けたまま、こちらに振り返りにっこりと笑って見せた。

「私の可愛いアルフリーダが泣くような目に遭わされたのです。おまけにその犯人たち二人は裸でこの屋敷を出て行くような恥知らず。そんな連中を、何もせずに放っておくなんてこんな馬鹿な事はありませんよ」

「でも…… どうするつもり?」

「決まっています」

 レイはもう一度微笑むと、これからするべきことを数えて教えてくれた。

「決まっているって……」

「まずは他の家人たちに本日は屋敷に入れないということを伝えます。ラルクの私物は早く戻した方がいいでしょう。最も彼がこの屋敷の中で何をしていたかということの証拠に残しておくのも一つの方策ですが、お嬢様が盗み取ったなんて噂でも流されたら、それこそ大変なことになりますから。彼の大事なものだけは頂いておくとしましょう」

「大事な物って……あの魔法剣とか?」

 しかし侍女はそっと首を振った。

 どうやらそれよりもよ良い物があると言いたそうな彼女はとてもとても悪い笑みを浮かべて提案する。

「あの二人は貴族の令息や令嬢なのですから、それこそ身分を証明する何か常に身につけているはずです。例えば家紋の入った指輪とか宝石とかネックレスとかそういったもの。もしかしたら残っているかもしれませんよ」

「レイ、あなたって……。本当にただの侍女?」

「はいお嬢様。お嬢様のただの侍女です」

「どうか全てが良い方向で終わることを祈っているわ」

「もちろんです、お嬢様」

 レイが悪い顔を始める時はいつもこれだ。

 表面は優しくに優雅な仮面をつけて、心の中では深い深いこちらが不利にならない立ち回るための計画を練っている。

 これまでの十年の付き合いの中で、この時ほど侍女に感謝を捧げたことはなかった。

「それではお嬢様。ご自分の髪は、ご自分でななさいませ。レイは他のことで忙しくなりますから」

「……頑張ってみる」

 では、と一声残しレイは見えなくなった。

 自分でやりなさいと言われなくても、そうするつもりだ。

 だけど、このもつれた髪は――なかなかに大敵だった……。

 どうにかそれをやっつけていつものように髪を洗い終えた頃、レイはバスローブとタオルを用意して戻ってきた。

「本当っ、ひどい目にあわされたって感じ」

 そうぼやきながら浴室を出てバスローブを羽織り、髪に巻いたタオルで湿り気を取りながらソファーに座ろうとするわたしを、レイはダメですよと静止する。

 居間にある家具はほとんどが祖父の邸宅から持ち込んだもので、どれも貴重な逸品だった。レイは古いものの手入れに関しては意外とうるさくて、総革張りのソファーに水滴一つ落とすことすら許してくれない。

 こちらにどうぞと誘われて木製の椅子に寄りかかったわたしは彼女にされるがまま全てを任せていた。

 やがて髪が乾き全身に手入れも終わった頃、レイがそばにいてくれることに安心したわたしは、まだ寝たりなかったのか少しウトウトしてしまっていた。



「アルフリーダ、さあ起きてください。今から朝が始まりますよ」

「うーんーっ。まだ寝ていたい……」

「駄目です。 時間は待っているようで待ってくれませんからね」

 わたしの訴えはあえなく却下された。

  では見てくださいとそう言うと、テーブルの上に彼らが残していったいくつかのものを広げて見せてくれた。

 ラルクが昨夜来ていた紺色に染められたサテンのスーツに魔法剣。その他、小物が少々……財布とウイスキーを持ち運ぶために小さな水筒。スキットルと言ったか、その他には小銭だの魔道具だの、騎士が非番のときにも常備するナイフのようなものまでそそこにはあった。

 エリダの私物は、と言えば小さな革製のバッグが一つ。

 片手サイズのそれには小銭はおろか、紙幣すらも入っていない。

 常に家人が同行している貴族なら当たり前のことだけど、化粧品の類と宝石類が中に入っていたのが彼女の淑女の体面を保っているかに過ぎなかった。

「またたくさんというほどでもないわね。 あの子ったらラルクとのデートにも家人を連れていたのかしら」

「そういう関係でしたか。なら遠慮することはないのではありませんか? ラルク様も公子ですから愛人の一人や二人は結婚前にいてもおかしくはありませんが」

「……レイ? あなた誰の味方なの?」

「別に誰ということはありません、お嬢様の味方です。ただ、あの若い年齢で王族に近い貴族となれば、そういった遊びがあってもおかしくないと思うだけです」

「それでもあなたは遠慮しなくていいと言うの? まるで復讐することは楽しいことよって言っているのに、 ラルクをかばっているように聞こえるのは気のせい?」

「いいえそんなことはないわよ。だってそういう意味ではわたしも被害者の一人だもの」

「は……?」

 侍女が言ったその一言の意味がわからず、わたしは奇妙な声をあげた。

 それはつまり、レイもラルクと肉体関係にあったのだろうかと。そう邪推してしまったからだ。

「ご心配なく肉体の関係はありませんから。 ただ彼に誘われたという意味ではわたしも被害者ですね」

「そんな驚きの告白を、いましないで頂戴! もうっ……もっと早く報告して欲しかったわ……」

「すれば婚約を解消されましたか?」

「それは――その時の状況に拠ると思うけど」

「では、そういうことです。貴族の子弟が爵位の低い家の侍女に手を出すことは、そうそう珍しいことでもありませんから。報告を上げるまでもないかと思ったの」

「そう……で、問題のなにかはあったのかしら」

 ええ、もちろん。そう嬉しそうに言うと、レイはエリダの家紋が綺麗に縫い付けられたハンカチと一枚。

 ラルクの方は、スーツの胸元につける貝殻のブローチの裏側に、それが彫られていた。

「立派なものね。カメオみたい」

「上の物を除けると、裏側に彫りこまれてありました。さすが公爵家の三男、素晴らしい彫刻です」

「それはどうでもいいけど、エリダの女子力はわたしより低そう」

「家人が付き従っているからでしょう。お嬢様のように研究に人生を捧げた女性も珍しいですけど」

「嫌味を言うなら、きちんと報告を」

 レイのことだから、わたしたちの間に不仲になるようなことにはならないようにと、心を砕いてくれたのだろうけど。

 その思いやりも、どこか裏切られているようで心が一段だけ落ち込んだ気がした。

「結婚したらうまく操れるでしょう?」

「……。本気? そんなことをする前に押し倒されたらどうするつもりだった?」

「あんなひ弱なか細い貴族の三男にですか? 騎士の真似事をしてただ剣を振るっているだけのお飾りぼっちゃんに負ける気はしないわよ」

「そう……」

 これまでレイの過去に触れたことはあまりなかった。

 これからは少しだけ聞いてみてもいかもしれない、そう思った瞬間だった。

 つまり今は見られようとしているということ

 北の大地ではいかに春が近いと言っても、まだまだ薪の価格は高い。

 そうそう簡単に全身を浸すようなお湯を使うことが難しいく、庶民にはできない貴族だけの贅沢と言ってもよかった。

 貴族だけの恩恵に預かれるのも、昨夜、追い出した婚約者の力と縁が貢献していて、それを思うとわたしは彼と関係の果てに自分の今があることを思い知る。

「結局あの人がいてくれたおかげでわたしは色々と自由にさせて貰ってたんだわ。この見知らぬ土地で……」

 そんなことを居間のソファーに寝そべりながらぼやいていると、髪を乾かしてくれている侍女のレイがふふふと面白そうに笑って「そうかもしれませんね」と肯定する。でも彼女の目は笑っていなくて声の口調も普段よりは硬い。

「 ねえ、レイ。そんなこと言うけれどあなたもどこか怒っているのではなくて?」

「それは当たり前ですよお嬢様。この家、ダーゼン家の当主はお嬢様ですから。その御方が朝起きてみれば眼を泣きはらして扉の向こうに立っていた。それだけでも憤慨ものです」

「憤慨ね。でもその割にあなたはとても落ち着いているように見えわ。今もそうだけど」

 やはり従者として主人に涙を流させた男というものは許せないらしい。

 けれど主人が自分から言い出さない限り、よけいな首を突っ込むのは使用人として正しくないことだ。そんな侍女としての立場が彼女の多くの行動に待ったをかけているようだった。


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