第二話 侍女はのんびり屋
夜明けを迎えた時。
わたしの脳裏にあったものは怒りでも悲しみでもなく、ただ一つの想いだった。
「……もう死んでしまいたい」
そんな情けない一言を発するのは何年ぶりのことだろう?
あの大変だった三級から二級魔導師への昇格試験で挑んだチームでのダンジョンの攻略戦や、最近迎えた祖父の葬式だってこんなに精神的な苦しみにはならなかった。
昇格試験では支え合える仲間がいたし、 祖父の葬式ではやさしくいたわりの声をかけてくれる親戚の存在があった。
でも今のわたしには支えとなるべき親友も婚約者もおらず、それどころか彼らは裏切り者に成り果ててしまった。
こんな時、王都に住んでいたならまだたくさんの友人に相談もできたと思う。だけど今の自分は生まれ古郷の田舎町に引っ越してしまっていて、彼らは遠い東の大地にいる。
「おばさん達に相談できないこともないけどでもこんな情けないこと、みだりに話せないじゃない」
そうぼやいても何も始まりはしないことはわかっていながら、ベッドの中から抜け出る気力がでてこない。
せめて鎧戸を開けて陽光を取り込もうと思ったけれど、そこに行くまでの気力が湧いて出ない。
恋愛で男性に裏切られる事がこんなに辛いなんて。
うじうじとベッドの中で無為な時間を過ごしていたら、通いの契約をしている近所の商家のおばさんや、 馬達の世話を任せている農家の誰かがやってくる時間になってしまっていた。
結界を発動したままではもちろん彼らは入ってくることができない。仕方なくわたしはベッドから這い出ると、そのまま鎧戸を開け朝の光を室内に取り込んだ。
冬の終わりから春先に変わろうとしているこの北のボルダスの街はまだまだ寒くて、太陽の光につつまれると少しだけ心安らいだ気がした。
「結界はさすがに寒さまでは防いでくれない、か……」
それをしようとすると大気まで手を加えなければならず、下手をすれば息ができなくなるのだという。精霊と契約を交わすことができる古代の魔法使い達ならそんなことはたやすく成し遂げただろうけれど生憎とわたしは魔法を操る術を知らない。ただ道具を介してのみ魔術成功させることができる一介の魔導士だ。
季節を操ることができるなら、どんなに素晴らしいだろうと思いつつ、その次に出てくるのは昨夜のことだった。
「偉大な魔法使いなら、あんな裏切りをされたら絶対に許さないだろうし、存在すらも消してしまうかもしれない。きっと、王族にだって媚びへつらうことはなかった……のかな」
元婚約者の忘れ物をまずは処分して、ついでに客間のベッドもこの際だ、自室の物と一緒に買い替えてしまおう。
それから、王都にいる友人たちを呼び寄せて、こんな酷いことが会ったのよ、と愚痴を言いながら飲んで騒ぎたい。
半年前までそばにあった当たり前の毎日は、いまはもう無いのだ。
これからは一人で強く生きていかなければいけない、そう自分に言い聞かせながら窓を閉めて室内を見渡した。
目的の物は壁際に置かれてあった。 姿見だ。
「 ……あーもう、なんて酷い寝癖……」
通いの家人を迎えるとしてもまずは身だしなみを整えなければならない。
そう思い、寝癖のついた髪を直そうと自分自身を映し出してみたら、寝ている間に泣いたのだろう。
真っ赤に腫れたまぶたと白兎のような血走った瞳――もとい、ただただ顔を泣きはらした不細工な女がそこにいた。
おまけに油で固めていた髪はぐしゃぐしゃになってしまっていて、もうこれは一度お湯で溶かさないとどうしようもないほどだった。
「やっちゃった、かな」
男の為に涙を流すなんて、何年ぶりだろう。
王都で元彼と別れたのは三年前が最後だった気がする。
恋愛を忘れて没頭した二級魔導師への昇格試験。それが実を結び、ようやく幸せを手に入れることができたと喜んだのも束の間の出来事。
昨夜、盛大な裏切りに会ってしまい、それはもうもう情けないったらなかった。
いいわ、それならそれでいい。
裏切りをするなら、それだけの報復も期待してもらわないと割が合わない。あんな男の止めに泣くのはよそう。ついでに繰り言を言うのも……心がか細くなりそうで嫌だった。
「レイを起こしてそれから――」
侍女を起こして――もう起きているかもしれないけれど。
お湯を用意させないと行けないかな。
そう思い、魔導で何とかならないかとも思って立ち止まる。
「無理。細やかなことは苦手だもの」
さすがにこんな細やかな一部の汚れだけを溶かすような魔術は、わたしには使えない。
がさつではないが、繊細な魔術は性格的に向いていないのだ。
両手を挙げて肩をすくめると、天井を仰ぎ見てもう一人の親友の助けを借りることにした。そう、侍女のレイ、だ。
祖父が王都で魔法学院に入学したわたしの為にと雇い入れた、十三歳年上の彼女とはもうすぐ十年の付き合いになる。気心の知れた年上の姉と呼んでもいい身近な存在だった。
「あの人たち溺れずに川から出られたかしら。もし、川面に入水していたらそのまま溺れてしまえばいいのに」
なんて――人前で言えば絶対に褒められない一言を呟やきながら、部屋を出て廊下を左に。そのまま二階から階段を降りて階下に向かい、玄関脇の扉を数度ノックする。
通いも含めて四人いる家人のうち、レイにはその部屋を与えていた。
普段、我が家で一番先に起き、一番最後に眠りにつく侍女は今日も早起きで「はい、只今」なんて明るい返事と共に、扉を開けた。
「おはようございます……アルフリーダ? 何、その頭は……?」
「レイ、聞かないでちょうだい」
「アルフリーダ? お嬢様…… そうしてあげたいけど、ちょっと無理な気もするわ……ラルクと何があったの」
「話したくないの。それより、これ何とかならないかしら」
「寝癖はどうにでもなるけどその腫れた眼は、得意の魔法で冷やした方がいいのじゃないかしら」
「そうする。魔法じゃなくて、魔導だから」
「そうだったかしら。いまお湯の用意をしますね」
いまはあまり深いことを聞かれたくないという私の心情を察してくれたらしい。レイは、はいはいと快活に頷くと、お湯を用意しに部屋を出てわたしを居間へと連れて行ってくれた。
ついでに家人たちを迎えなければいけないと彼女に伝える。
「馬番のトマスはもう少し後になりますよ。まずは朝の畑仕事をしてからでしょうし、セルカやグレーテも子供を送り出してからでしょうから」
「いえ、その――誰も門扉を潜れないと思うの……」
「誰も?」
と、レイは仕度をしていた手を止めて不思議そうな顔をする。
彼女には塀に仕込んでいた結界のことを教えているが、まさかそれが作動したなんて思わなかったようだ。
「あの者たちに何か御用でも言いつけたの?」
「違うの、その――今は誰も入れないと思うわ」
そこまで言うと、レイはなにかを察したらしい。
ああ、そういうことですか、と頷いて困ったわね、と首を傾げていた。
以前、この屋敷を手に入れた際にいろいろと魔導の仕掛けをしたことを教えたのを思い出したのだろう。ただ、結界の解除の方法までは彼女は知らないのだ。
「そうなると、どうなるのでしょうお嬢様? 私たちはこの屋敷にずっと閉じ込められたままですか、もしそうだとしたら食料はもつかしら」
「レイったら。心配するところがちょっとずれてる」
「そうかしら? だって、誰も入れなくしてしまったんでしょう?」
「大丈夫よ、わたしが決めればすぐにでも解除できるから……」
「なるほど。魔導って便利なようで不便ですね」
「かもしれないわね。ただ、いまはまだ解きたくないの」
そう言うとレイは困ったような顔をしてわたしに問い返した。
「でもアルフリーダ。あなた他の家人を迎える準備をしなきゃいけないって言うのは変じゃない?」
「えっ……あ、そういえばそれもそう……」
「みんなが中に入れるなら、結界を解かないといけないのでは?」
言われて初めて、自分の行動におかしなことに気が付いた。
会いたくなければ、誰も邸内に入れる必要なんて無いのだ。
それは、レイの言うとおりだった。
「私が門扉の前に、今日は屋敷には入れない。そんな内容の一文を掲げたらそれで済むのでは?」
「……任せるわ」
「もちろん。では、それをしておきますから、まずは湯を溜めて浴槽に浸かって下さいな」
「うん。ありがとう、レイ……」
なんて間抜けなんだろう。
気が焦りすぎていて自分自身の選択が間違っていることを気づけないなんて。こんな情けない自分に出会うのは、本当に久しぶりのことだった。
ところで、とレイは浴室の準備をしようと部屋を出て行こうとし、ふと顔をこちらに向ける。
レイの認識ではまだ邸内にいるはずの彼らのことが気になったようだった。
「お嬢様、ラルクとエリダはまだ二階で寝ているのかしら?」
「あの二人?」
「はい、何があったかは聞きませんが問題を起こして主人を泣かせた男性と、出入りの自由が利かないこの屋敷に一緒にいるのはちょっと……」
「そう、ね。でも、大丈夫。その心配は無用だから」
「無用? でもまだ邸内にいるのでは?」
「いないの、もう……ここには」
それだけしかわたしには言えなかった。
まさか親友と婚約者が同衾していたなんて。それも自分のベッドで行為をしているところを目撃したなんて。
ついでに、防犯対策で施していた転送魔術で街のそとにまで放り出したなんて――恥ずかしくて言えるはずがない。
顔を俯けて黙ってしまうわたしを見て、レイは「いないなら、まあ、いいですかね」なんてのんびりとした声でそう言うと、浴室へと続く扉をくぐってしまったのだった。