第十二話 エピローグ
苦い。
眠気覚ましにはちょうどいいだろうと思って濃いめのブラックコーヒーをもらったらとことん苦かった。
うえっ、と舌を出してしまいそうになる。
何とかそれを我慢し、絶妙に微妙な顔をしてみせたら、ダーレク神父は楽しそうに笑いながらミルクと砂糖を渡してくれた。
「お好きにどうぞ」
「……すいません」
「お気になさらずに。こんな夜は、のんびりと誰かと過ごすのもいいもんですよ」
「それはわたし対する当てつけですか?」
「まさかまさか、そんな悪意はありませんよ。あの話を聞いた後でも、ね?」
「それはどうも……」
幼なじみの女に、彼氏を奪われた話をした。
彼氏というよりも結婚する日取りすら決まりかけていた。
そんな仲だったのに。
あっさりと、奪われてしまった。
しかも、相手は彼を紹介してくれた女なんだから。
何と言うか――。
「たちが悪いという以外、言い表しようがないですね」
「あっ……はい。すいません」
「あなたが謝る必要はありません。問題は結婚する前で良かったということです」
「本当に、そうなんでしょうか。もう結婚式の日取りすら決まりかけていたのに」
「良かったと思いますよ。むしろ結婚したかったらもっと大変だ」
「離婚なんてできないんです……怖くて」
レイはラルクのことをさっさと捨ててしまえばいいという。
イデアは二人の問題だと言ったし、神父様はそこに関しては詳しく私的な感情を挟まないのはさすがというか。
やっぱりわたしは怖かった。
婚約破棄をすることで、王族であるラルクや、この街の管理人である父親をもつエリダに恨まれ、後から何かされやしないかと。
ようやく手にした二級魔導師という地位と、祖父から譲り受けたこの土地の管理権。
それを失うことが、本当に怖かった。
だって、それらは人が関わっているから。
演習場で巨岩を壊したように簡単には割り切れないものだから。
「怖いというのは千差万別な感情ですから。どこまであなたに共感して話をしていいかわかりません。が、男性からの暴力という意味であれば、教会はあなたを守りますよ」
「……え?」
「だってそうでしょ? この教会は女神様のお膝元。知恵と自由と法律の番人であるフォンティーヌ様がいらっしゃる場所なのですから。無慈悲な暴力から信徒を守るのも、また聖職者の務め。そう考えてはいますがね」
あなたはどうですか? 問いかけるその視線で見つめられてわたしは言葉に詰まった。
助けてほしい。
その一言はなかなか喉のおくから出てきてくれない。
出そうとしても出せないのだ。
「……王族に逆らうとしても、ですか?」
「ご心配なく。女神フォンティーヌの教会は、全世界のありとあらゆる場所に拠点を置く、世界最大の宗教法人です。こんな片田舎の王族ごとき、何ができるもんですか」
「呆れた……本気ですか? 正気を疑う発言です」
「それはこちらのセリフです。いいですか、アルフリーダ」
テーブルに対面して座るダーレク神父は、いつになく強気でこちらに向かい椅子を寄せた。
その勢いに思わず、のけぞってしまう。
「はいっ、なんでしょう」
「我が信徒はまず、女神の前で自由です。これが大前提です。しかし、この王国は法治国家。法律が支配する世界であり、そこに生きる限りそれに従わなければなりません。自由を得るためには大きな代償――つまり責任を負わなければならないということです。しかしですね、法律の番人である王族が無慈悲な行為をするのであれば、それをさばくのもまた法律なんですよ」
「でっ、でも……不敬罪なら。そく……死刑……ですよ」
「不敬罪が適用されますか? あなたの話では、あなたが所有するあなた自身の寝室に、恥ずべきことかいやいや愚かしいと言っていい。未来の妻の友人と一夜を共にする婚約者がいたわけですよ? あなたは王族に不敬を働いたんじゃない。婚約者という立場を利用して、婚約者のあなたの家に侵入し、そのベッドを占領した。いわば、泥棒がそこにはいたと考えてもいいわけです」
「泥棒? でも……何も盗まれてない……」
「盗んだでしょ。新鮮な洗いたてのシーツ。あなたの自尊心、そしてあなたと共に半年近くの時間をかけて培ってきた信頼というもの。それらを彼は盗んでいったんですよ。いや、叩き壊したと言ってもいい。そこに王族どうこうなんて関係あるもんですか。むしろ逆ですよ、その事実が明るみに出ればどうなるか、あなたは分かってるでしょ?」
「はい、そう――です」
分かっていた。分かっていて、ベッドの中でむつまじく微笑み合うあの夜の彼らに、わたしは助言までした。
これはとっても危険な行為だって。
あの二人の頭はお花畑で、全く聞き入れてもらえなかったけど。
「それを伝えたのなら、あなたに非はないんですよ。ついでに追い出しただけなんだから、さっさと婚約破棄すればいいんです」
「でも、その……慰謝料とか。そういうのまるでなくて、いえ。用意はできますけど、時間がかかります」
「あなたはバカですか!」
「ひえっ?」
ダムっとダーレク神父は拳を固め、テーブルを強く叩いていた。
いきなりそんなものが来ると思ってなかったから、飲みかけのカップから指先が抜けてしまう。
「おっと。これは失礼。つい、感情的になってしまった」
「え、いいえ。大丈夫です」
するりと指先から抜け落ちたカップを神父は器用に空中で受け止めて、テーブルへと戻していた
謝るくらいならしないでほしいんだけど。心臓に悪いから、本当に!
そんな抗議の一声もわたしの口からもれ出ることはない。
神父の神父らしからぬ言動に、度肝を抜かれていたから……。
「教会の主として、この街の市政を司る行政の長の一人として。認めます、今、認めました。あなたには責任はありません、あったとしてもそれは後からどうにでもしましょう。今は何も考えずこう言ってください」
「あ、なに、を?」
「婚約破棄します、と」
強烈な一言。
鮮烈であまりにも強引すぎて、続く言葉が思い浮かばない。
それでも無意識に本能はそれを口にする。
「婚約破棄……します」
「よろしい。ラルク・セナスとアルフリーダ・ダーゼンの婚約の解消を認めます。理由は、簡単にしましょう。互いに半年間という仮の婚約期間をおいて共に過ごしたとしましょう、そしてあなた達は気付いた。自分達は仲が良くない。それだけで十分です」
「そんな主語のない……慰謝料はどうなります、それにあの二人の浮気は」
「浮気は別問題。慰謝料はもういいでしょ? 朝方あなたの侍女がやってきました」
「ああ、そう――行かせました」
「拾得物申請書。確かに受け取っています。あれを公表されれば互いに困る家もあるでしょう? どう思います?」
「それを盾にして、後からの報復は考えないんですか」
「この教会を相手にして? もちろんやろうと思えばどんな報復も可能です。あなたは女性だし、大金を出して暗殺者を雇うという方法も考えられる。ですがね、いいですかアルフリーダ。何百年も昔ではないのです」
「それは分かりますけど」
「ラルク・セナスが特権を持ち出してくるなら、こちらも特権を振りかざせばいいのです。あなたにはあるじゃないですか、アルフリーダ。この街の水源の管理権。それは今あなたの手にあるんですよ。つまるところ、地下のドラゴン退治に、あの巨岩をも魔法剣で打ち砕いたラルク・セナスを指名すればいいのです。彼は騎士であり、その前に国民に奉仕するべき王族の一員であり、何よりも凄まじく強い魔法剣士なんですから」
そんな計画を聞いてしまったらもう笑い出すしかない。
そこまでは思いつきもしなかった。
いいえ、うっすらとそうしてやろうかと思う気持ちもあったけど。
まさかこんなにきっちりとこうすればいいなんて、わたしには思いもよらない。
「神父様、本当にただの神父様ですか?」
「もちろん、ただの神父です。ただし、世界に教会の神父は十数万といるでしょうが。紋章眼の宣教師は、たった数百人です。そこはお忘れなく」
「ダーレク神父との出会いに感謝いたします。女神様にも」
「ありがとう。それでは正式な受理証明を作成することとしましょう。ああ、それからあれです。この件は教会が請け負いましたので。教会から市長を通じて、ラルク・セナス氏に退治を依頼することにします」
「そうしていただければ嬉しい限りです」
にんまりと意地悪そう微笑む彼は、本当に神父なの? と言いたくなるくらい、悪党の顔をしていた。
その微笑みの対象にならないように気をつけよう。
この時、わたしはそう心に誓ったのだった。
翌朝。
婚約破棄に必要な関連書類をしたためて貰い、わたしは家路に就いた。
ドラゴンに関しては、改めて神父と地下に降りる必要があるけど。
その前に、ラルクを討伐に行かせるらしい。
思い出すのはあの一言で。
「ドラゴンは清純な乙女が大好きだという伝説がありますから。そこにはエリダ様にご協力いただくこととしましょう」
「えっ……」
あっけにとられるわたしを差し置いて、神父様はさらに計略を練り上げていく。
「周囲には私が結界を張りましょうか。ついでに、ラルク・セナス氏が後生大事に持っている、本物の魔法剣。それを使えるようにして差し上げたいからです」
「どうしろ、と?」
「簡単ですよ。あなたが演習場で行なったように。遠隔的な方法で魔法を転送してやればいいのです。それぐらいは、魔導具でも可能ではありませんか?」
「威力を弱めてドラゴンにぶつけろと……」
「その通りです。地下の空洞を破壊しない程度にね」
ラルク・セナス氏を地下に誘うにはしばらく時間がかかります。そう、神父様は言っていた。
三日から四日程度待ってほしいとか。
その間に、魔法の練習をしておけとか。
色々と言われて、もう疲れ果ててしまい、その日は帰ってすぐ。
レイにこんなことがあったのと話をしながら、わたしは舟をこいでいたらしかった。
一週間後。
報復の日だ。
神父から連絡を受け、護符をどうにか制御しつつ、威力を極力抑え込んだ古代魔法『白き灼熱の檻』を、あの魔法鍵を飲み込んだドラゴンをターゲットにして転送する。
あちらにはラルクをはじめとし、参加したくないと喚いていたエリダも引きずり出されて。
十数名の騎士団の応援を受け、魔法剣士ラルク・セナスは颯爽とそのデビューを飾ろうとして――盛大に失敗したのだとか。
わたしが転送した魔法は、ドラゴン達にくしゃみをさせるくらいの威力しかなかったみたい。
だけど、人間には抜群の効果を発揮した。
氷の柱に閉じ込められた二人は、騎士団の手によって地上に運び出され、陽光の下でゆっくりと解凍されたらしい。
それをじっと見つめていた神父様とイデアは、後から大笑いをしたのだとか。
ドラゴン達は記録通り、こちらから手を出さなければ何もしてこないことが確認された。
というか、人間程度が何かをしたところで彼らにとって脅威ではなかったのだ。
ついでに、水が濁るという問題は彼らの水浴びが原因だった。
それならそれで、上水道として使う水を事前に分岐させればいいだけの話。
様々な問題を解決し、二人の新しい親友がわたしの屋敷を訪れた時。
レイを含めて、四人の新しい家族がわたしにできたのだった。