第十章 教会と婚約破棄
レイが用意してくれた夜食を携行し、わたしは家からそれほど遠くないところにある教会へと足を向けた。
辺りは薄暗くなっており、人の背丈よりも高く定期的な幅をもって建てられた、常夜灯の灯りがあたりを照らし出している。
とはいってもその灯りの下で文字を読み書きすることができるほど明るくはない。
せいぜい、足元にある障害物を見分けながら歩くことが可能なくらいの、明るさがあたりには保たれていた。
朝七時頃から立つ露天の多くはたたまれてしまい、今からこの道沿いを通って夜の繁華街へとで向こうとする人々を対象とする飲食店や質屋などが、店先にランタンを吊るして、営業していることを示していた。
「アルフリーデ。こんな夜にどちらに行かれます?」
「教会に用がありまして」
「教会? 貴族様のあなたがですか?」
「ええ、大事の調べ物があるのです」
「はあ……どうかお気をつけて。夜の街は危険ですからね」
「ありがとう」
顔なじみの質屋のおじさんがたまたま見かけたのだろう。
自分の店の入り口近くから、心配して声をかけてくれた。
彼の言うとおり月が昇ってから市内を歩き回るのは賢くない。
特に貴族の女がたった一人でお供もつけずに歩くのは本当に愚かだ。
生憎と私は氷の魔女たから平気だけど。
「こんばんは。神父様はまだいらっしゃる?」
「これは……ダーゼンの御当主様。こんな時間にいらっしゃるとは、目と鼻の先とはいえ、夜は危険ですよ」
「ありがとう」
見るからに派手な化粧して目にも鮮やかなドレスを着た女性達がそこにはいた。
肌の露出も多くて、胸の谷間を強調したり、腰のくびれを強調したり、うっすらと照明が暗い夜に映えるようにどこまでもどこまでも濃い化粧して、彼女たちは男性を楽しませる。
その仕事に行く前の、貴重な聖なる時間。
仕事が始まるのはもうすぐで、だからこそ彼女たちが神父さまと語り合う時間を邪魔することは心苦しい。
教会に勤めるシスターの一人が、すぐに神父様に取り次いでくれた。
やはり、彼は女性たちの相手をしていて忙しそう。
「必要でしたらすぐに呼んで参りますが」
「いいえ……大丈夫。神父様がお手すきになるまで、裏の書庫を勝手に使わせていただくわ」
「それしたらどうぞこれをお持ちになってください」
拒絶はされない。
貴族というものはこういう時、便利な存在だ。
あ、でも関係ないか。わたしは二級魔導師だから、この街の市役所のような存在の教会を自由に出入りすることができる。
資料を調べたり、ある程度の権限も与えられているから許可を出したり、誰かを罰したりすることも可能だ。
シスターが差し出してくれたランタンを受け取り、そのまま教会の裏側に続く建物へと足を運んだ。
教会は講堂のような巨大な中が空洞になった造りで、裏側にある市庁舎は三階建ての大理石作りの建物だ。
火災などがあったとしても、貴重な資料は残されているように思える。
まあ、過去にどんな火災があったかなんて、わたしは知らないけど。
「確か、資料庫は一番上の階だったはず」
中心に螺旋階段がどんっと、建物の中央に据え付けられている。
これを登るのがまた一苦労で、外側から浮遊の魔導で三階まで行けば楽なのに。
昼やれば怪しい人だし、夜やれば明らかに盗賊だ。矢を射かけられても文句は言えない。
「登りますか……。なんだか朝からずっと上に上がったり下に降りたりしてるような気がする」
しんと静まり返った建物の中に、わたしの声が反響して降りて来る。
二階まで上がると、踊り場がありそこから自分の邸宅がある道が上から望むことが出来た。
コの字型になった行政に関わる組織が多く集まる我が家の周辺にはそんな店は少ない。
でも、教会には夜と朝。二度の礼拝があり、その夜の部は風俗であったり水商売であったりする。
そんな商売に身を置く者たちが心の悲しみや苦しみを吐き出せる、重要な場所。
「あっちもあっちで本当に昼間みたいね」
西の空を下から煌々と照らす人工の明かりが見て取れる。
風俗街だ。
そこで働く女性たちを勤務前に受け入れる夜の教会はまるで異世界で、そんな中に貴族のわたしが入っていくのは正直、心苦しいものがある。
そこは夜の世界。
男女の口にはできないような色濃いやお酒や欲望が色めく、そんな華やかのようで実際はどす黒く醜さの目立つ世界。
まあ、どす黒くて醜いのは社交界の方が、酷いのは否めないけど……。
「彼の家って……」
なぜだろう。
西の方角と考えると、そこには騎士団の宿舎がある。
宿舎にはラルクの部屋があって、彼はそこに寝泊まりしているのは当然のことで。
わたしと彼の家の間には、なんと色街が当たり前のように存在していたのだ。
いや、知っていたのだけれど、今更ながらに聞くことなんだか空しい思いが心の中にこみ上げてきた。
彼もあそこで遊んできたんだろうか。
朝早くこれまで私の家にやってきた時に、お酒と他の女性の匂いと汗臭い感覚。
それをまとわりつかせて、彼と騎士団の彼の友人たちが数人、我が家にやってきたことが、数回ある。
繁華街で酔い過ぎて、このままでは宿舎に戻れない。
そんな理由で風呂を浴び、質屋で適当な服を借りて、帰って行ったことが数回。
そんな記憶思い出して、まさか……? と、騙されていたことを知るわたしだった。
「もういいわ、忘れましょう」
そう、自分に言い聞かせるとわたしは三階へと早々に足を運んだ。
いつまでも彼のことを追いかけても仕方がない。
いや、追いかけているわけじゃない……あまりにも怒りが深すぎて忘れきれないだけの話だ、多分。
拳を握りしめて言い訳を一つ。
三階の書庫の扉は、予めシスターから受け取っていた。
分厚い赤樫の両開きの扉に、差し込んだ鍵を回すとガチャリと重苦しい音を立てて、鍵が開いた。
「んーっ、あいっかわらず……重たいっ」
女の力では全身を使って押すか引くかどちらかにしないと、この扉を開いてくれない。
毎度のことながら、魔導で適当な施錠の魔術をかければいいのにと思ってしまう。
王都では大体みんなそうしているし、その方が鍵が複製されて開錠されるような危険性も回避できる。
しかし、ここの神父様は強情な方で昔からこうだからと、やり方を変えようとする気はなさそう。
扉が開くと古い書物の匂い。
カビ臭くも紙が退化していくその香りは、知識の存在を改めて教えてくれる。
本好きにはたまらないかぐわしい匂いだ。
「ランタン……」
火を灯せばそれは明るく光を生み出して辺りを照らしてくれることだろう。
だからといって一つ間違えば、火事を引き起こす可能性だってあるわけで――。
「ここは光の魔導具を使うべき、かな」
家から持参した魔導具の一つ。
数珠のようなもの……親指大の宝石が丈夫な細い縄でひとつなぎになっているそれを、本来ならランタンをかけておく場所にそっとひっかけてやる。
手順を踏んでそれを光らせると、あたりにはランタンのそれよりも明るい光が溢れかえった。
「これでよし、と。どこから探したのかなー、街ができた頃から探した方がいいのかな」
もちろん地下に大量発生したドラゴンのことである。
あいつらをそのまま野放しにしたのでは、この街には安定なんてものは存在しない。
一時間でも一秒でも早く、野良ドラゴンを退治する方法を見つけなければならないのだ。
そう意気込んで古い時代の記録を保管している棚を探すわたしの背後にかけられた声が一つ。
「アルフリーダ様。お久しぶりでございます」
「ひぇっ?」
「おや、これは失礼。驚かせてしまいましたかな?」
「あ、神父……様」
「はい、今夜はどうなさいました」
にこやかに微笑む彼は、この教会の主ダーレク神父だった。
神父様とこんなに早く対面できるとは予想外だった。
シスター達が彼に伝えてくれたのだろう。
時間はあまり無い。
そう思うと、彼女たちの気遣いがとても暖かいものだと感じた。
「ダーレク神父、お久しぶりでございます」
「はいお久しぶりです。とは言っても、先週末の……昨日のことになりますが、その席ではお会いできませんでしたな」
「ああ、そう――です、ね。少し色々とありまして」
「そうですか。心配は要りません、女神フォンティーヌ様は、どこにいても我らを見守っておられます」
どこか感傷的な声で、彼はそう言ってくれた。
その視線の先にあるのは窓ガラスの向こう。
夜空の遥か向こうに浮かぶ三連の月の一つ。
赤、青、銀。
そのうちの一つ、青い月の女神様。
名前をフォンティーナ様という。
知恵と正義の女神をこの教会は奉っている。
ありがたいことにその女神さまは法律の番人でもあるから、教会はどんな国のどんな場所にあっても公正な判断を求められるという。
おおよそ、他の宗教と比べて格段に透明性の高い。
そんな宗教法人だった。
ある意味で頭が固くて困る時もあるけれど……。
「そうですね、その女神様ですが……」
「はい、フォンテーヌ様がなにか?」
「ああいえ、フォンテーヌ様どうこうではなく……この教会はいつ頃からこの場所にありますか?」
「この場所? アルフリーダ様は不思議な質問をなされますな。この街に我が教会が出来たのは、ボルダスという地名のこの土地に、まだ村があった。そんな過去からあるとは聞いておりますが」
「そんなに古いんですねー。では、地下水道の歴史なども保管されておりますか?」
「地下水道? そういえばアルフリーダ様の管轄は、この街の水に関わることでしたな」
「ええ、そう。そうなんです」
さすが神父様。
最近、この街に戻ってきたわたしの仕事まで把握されているなんて、と感心してしまう。
自分もこれくらい仕事に対して熱心に打ち込むことが大事かな。
そう思っていたら、神父様は怪訝な顔して、顔を傾けていた。
「地下水道に関して何か問題がありましたか」
「あー……その、ええ。まあ……何といいますか。大きな問題があります」
「ふん? それはここで過去の事例を調べるような。そんなものですか」
「ええ、そうなのです。でも、いつぐらいからこの教会があるのかとか、どんな歴史を持っているのかとか。その辺りのことを、わたし、まるで知らなくて」
すいません、と付け加えて頭を下げるわたし。
王都の歴史なら詳しいのに、生まれ故郷のことに関してはまるで無知な自分が恥ずかしくなる。
ダーレク神父は、そっと首を振って否定してくれた。
「気にすることはありません。むしろ自分の生い立ちを知ることはとても大事なことです。過去においても未来においても、己を知ることはとても大事ですよ」
「己……?」
「自分の出自、という意味です。さて、それでは何をお探しか。教えていただけますか?」
「ああ、はい……」
言うべきか。
それとも自分である程度調べてからにするべきか。
言ってしまえば自分の無能さをさらけ出すような気がして。
それはどうにも情けなくて。
でも街のことを考えたら、愛していると言ってくれたイデアのことを考えたら。
自分のプライドなんてどうでもいい小さなことだと、割り切ることができた。
「実は地下水道に大きな異変が迫っているんです」
「大きな異変? 何ですかそれは!」
神父様は、ゴクリと喉を鳴らしてわたしの返事を待っていた。
伝えるべきこと。
1.ドラゴンたちが地下水道最下層の空洞に繁殖していること。
2.ラルクとエリダの浮気を告発すること。
3.……とても不名誉だけど、女のわたしから――婚約破棄を申し出ること。
やるべきことはだいたい上の三つに集約される。
というか、それだけしかない。
まずは一番目。
「地下水道の最下層にある巨大な空洞をご存知ですか?」
「空洞? いいえ、まったく。そんなものがあるということ自体、聞いたこともありません。どれくらいの大きさなんですか?」
思ってもみなかった質問が戻ってきて、わたしはうーん……と眉根を寄せた。
いつもの癖なのだけど考え事をする時は必ず眉間にシワが寄る。
神父様はそれを見て、人差し指で自分の眉間を指して小さく笑っていた。
「あーこれですかあ。分かってはいるんですけどね、いえそうじゃなくて。そう、空洞の話です」
早く話が道を逸れるところだった。
わたしは左腕に幾つか付けているアクセサリー代わりの腕輪の形状をした魔導具の一つを、右手のひらで軽くさすってやる。
そして、えいっ、と両手の平を小さく打ち付けた。
パンっと、乾いた音が夜の室内に響き渡る。
そのままくっつけた両手をゆっくりと左右開閉する。
なるべく均等になるように、それの形が崩れないように気をながら両肩あたりまでそれを引き伸ばして固定した。
そこには空間に作られた四角い金色の枠。
そんなものが浮かんでいた。
「ほう……何ですかなそれは?」
「まあ、何と言いますか。記憶を魔力によって再現する。再現したものを、魔導具に入力し魔素を特定の空間に固定して絵のようにしてあるというか。まあ、この四角い枠のなかに、過去にわたしが目にした光景が映し出される。そんな感じ、ですかね」
「それはすごい。なんという魔法ですか」
「魔術で補正をしているので魔法ではないんですけど。過去の魔法使い達は『投影魔法』、なんて呼んでこれを再現していたらしいです。でもね問題もあるんですよ」
「問題?」
「今から始めるので見ていただけばわかります。そうですねー、この枠の中だけに始まる舞台劇みたいな、そんな感じだと思ってもらえばいいと思います」
「それでは、拝見することにしましょう」
「わたしの記憶ですから、恥ずかしくて見て欲しくないんですけどね」
なんてことをぼやきながら、あの光景を再現する。
色々と聞かれたくないこともあるので、音声だけはカットした。
長身で大柄な地下水道の案内人がまず出てくる。
イデアだ。
黒髪の彼が話し出すシーンはさっさと進めてやった。というか、恥ずかしくて思い出したくない。
空中に浮かび上がる画面は記憶をフルスピードで再生する。
隠したいところが隠せないのがこの魔術の欠点だった。
ちょっと行き過ぎて、わたしの視界が胸元だったり、前方の階段だったり、あるところまで階段を上がると視線が上下し、その合間にはすぐ間近にイデアの顔が見えた。
「……アルフリーダ様?」
「こっ、これは違うんですっ! 従者がっ、ドラゴン達から逃げるとき動けなくなってしまったわたしを抱き上げて、命からがら逃げてくれた時の記憶ですから……その。浮気とかではないのです、神父様」
「なるほど。あなた様は二級魔導師。貴族でもあらせられる。真実を語るべき場所はどこにあるかをよくご存知でしょう」
「そうです。だから浮気ではありません、そう……後からそれについては話しがありますが」
そう言うと、ダーレク神父はちょっと困った顔になり、両目を顔の上に泳がせてから、
「では。その大事なことはまた後から。それでどこにドラゴンがいるんですか?」
「ああ。巻き戻します」
「巻き戻す……?」
「記憶の時間を少し過去に戻すのです。そうすれば、話すよりも早い――」
そう言ってると、ようやく問題の光景が画面の中に投影される。
確かに、自分の胸元と上を見れば無精髭が生えたいかつい男性の顎先はそこにあった。
そんなものを見せされたら、それは浮気も疑いたくなるわよね。
口で説明した方が早かったかもしれない。
映像の中では、鉱石ランプの一つから目を移し、通路を曲がって――音声が出るようにしていたら、わたしの情けない悲鳴か大声があたりに響いただろう。
そんなシーンになっていた。
目の前に広がる光景。
巨大な空洞は見渡せば左右にそれぞれ二百メートルほどもあり、見上げれば天井があるようでないような。
その場所にも鉱石ランプは設置されているのだが、その灯りを辿っても照らし出せない高さが見て取れる。
その先に、彼らはいた。
「これは素晴らしい」
「え? 素晴らしいんですか!」
「こんな貴重な映像は滅多にお目にかかることが出来ませんよ」
「ああ、そういう意味……。ドラゴンには驚かれないんです?」
「ええまあ。私の生まれた王国ではドラゴンを飼い慣らして共に生きる、そんな環境で生まれましたので」
「そちらこそ貴重ですね」
そんな珍しい環境にながらどうして、この人は神父になったんだろう。
人にはそれぞれ人生があるんだなあー、と思いつつ。
ドラゴンの種類が分かるかと思って質問をしてみる。
「これ、危険なやつなんですか?」
「人に害を与えるかと、そういう意味でしょうか?」
「ええ。はい。場合によっては駆逐しないいけませんので」
「……多分ですが、あまり気の荒い連中ではないと思うのです。ええ、多分」
頭の先から尻尾の先まで数えれば多分、五メートル。
今更ながら、背中に羽はないし、ぬめぬめとした鱗も見当たらない。
がっしりとした肌はどちらかといえば亀の甲羅のようなモノに近いのかもしれない。
「種類がわかると、そういうことですか?」
「土竜……の一種ではないかと思います。ああ、地下に棲むという意味ではなくて。大地の魔力に誘われてふらりふらりとは集まって来たのでしょかね?」
「集まって来られても困るんですけど」
「しかしまあ、そこそこに数がおりますな」
「先ほどの地下に住む案内人の話では、先週はまだ十頭に満たなかったと。でも今朝になってみたら、二十数頭……」
「この映像はあなたの記憶からということなので細やかな部分まで見えなくても仕方がない?」
「はいおっしゃる通りです。あくまで人の記憶なので注意深く見たところはより鮮明に映ると思います」
「なるほど」
一瞬何か可哀想なものを見るような目で、彼はわたしを見た。
それは憐れみとかそういったものも含まれていたけど、どちらかといえば大変なお仕事ですね、と。
そんな意味合いを含んでいるような気がした。
「これは全て退治ですか」
「退治といいますか、いてもらうと困る存在も世間にはあるのでしょう?」
そう言うと彼はまた、うーん、と首をかしげて何かを考え始めた。