人間について考える
思うに私は、ある人について結論を出す速度が遅い。例えばある人は言う、「あの人は危険だ」と。だけどそれが親しい人からの善意の忠告であれ、恩人からの警告であれ、被害者からの非難であれ、一旦受け取った上で保留する。なぜならその時点では私は単なる第三者だからだ。当事者ではない。当事者ではないなどと言うと冷たい人間のように思われたりもするが、事実なので仕方が無い。
昔、成り行きというか、知り合いの女性からの「車出してくれる?」という要望により、殺人者と話す機会を得た。その人物は、息子を殺害し、服役した後に民宿を営んでいた。
彼女らが話すのを聞きながらぼうっとしていたら、いつの間にか昼になっていた。用意されていた昼食は、ステーキだった。それまで事件の詳細を聞き取っていた女性が、赤いソースの牛肉を「おいしい」と言いながら食べるのを見て、私もそれに倣った。
その後、殺人現場である民宿のそばの、空き地で事件の状況の説明を聞いた。それはこのようなものだった。
ある日息子が、知人を殺すと叫びながら家を飛び出した。その手には包丁が握られていたそうだ。母親は咄嗟に、息子を呼び止め、そして息子の首を背後から斧で襲い、切り落とした。結果、知人は助かったが、息子は死んだ。母親は服役する事になった。
その話をする時の殺人者の顔は、民宿の前に広がる海のように穏やかだった。その表情や声音からは、葛藤や憎悪、哀しみなどは読み取れなかった。ただ、淡々としていた。私はその時二十代の前半で、読み取るほどの感性が無かっただけかもしれないが。
事前に殺人者だと聞いていなければ、優しい、民宿のおかみさんでしか無かった。一体これをどう捉えたらいいのか未だに分からない。百聞は一見に如かずというが、見てもなお分からないのが人間だとも思う。百聞の方は、聞く人の立場によって受け取り方が異なるだろう。
ただ一つ、言える事があるとすれば。ある事を言うとき、当事者であるという事は何物にも勝る。その言葉がいかに、汚く、拙く、愚かであっても。そして、誰にも顧みられず、唾棄され蔑まれ、臭いもののように扱われたとしても。その言葉には、力が宿っている。それが善か悪かは、瞬時に判断できない。
人間は情報として消費されるものではなく、大きな流れの中でその存在を現す何かだと思う。その中には様々な色があり、快いものも不快なものも含まれつつ。その中で、溺れそうになりながら何とか息をしているのが、今の私の状態なのだ。その状況を何と呼ぶのか、知らない。
私は小説が読みたいというよりは、人間を見たい。