潮騒
When the night has come and the land is dark
And the moon is the only light we'll see
No I won't be afraid
Just as long as you stand, stand by me
沈んだ思考を鼓舞するように顔を上げると、窓の外では雪が降っていた。真っ白な羽が鉛色の空からはらはらと降ってきて、時間も音も草木の命も、全てを吸収しながら大地を覆い隠してゆく。あたたかな図書館の空気が、そんな外界の冷たさや静けさをどこか別世界の出来事に思わせていた。
このまま私の存在もその白で覆ってくれればいい。
この世界から隠れて、世間の目も駆けていく時間の流れも気にしなくて良いどこかにいられたら。
そんな取り留めもない思考の波に揺られていると、あるひとつの考えが私の意識を現実へと連れ戻した。
ー海まで朝日を見に行こう。
壁時計は午前2時を指していた。先の見えない将来への不安に息が詰まっていたのか。深夜の思いつきはあっという間に加速し、片道8時間の逃避行を決行するのに迷いはなかった。街灯のない田んぼ道を、終電の過ぎた線路を、月明かりの下私は歩く。ふと大学入学当初に見た、古いアメリカの映画を思い出す。小さな田舎町に住む小学生くらいの男の子4人が、線路を渡って森へ死体を見に行く話だ。「誰も自分を知らないところに、どこか遠くへ行きたい。」そう言ったあの子は必死に勉強し、周りを見返し弁護士になった矢先に事故で死んでしまった。人生とはなんて理不尽で残酷で儚くて、そしてこんなにもどうしようないものなのだろうか。全てのものは移り変わり、過ぎ去ってゆく。4人のひと夏の冒険も、忘れられない友情も、流した涙も、語り合った将来の夢も。それらはもう二度と戻って来ないけれど、きっと心のほんの隅っこでいつまでも居座り続けるのだろう。そしてふと思い出す度、ささやかなぬくもりと少しの寂しさを伴って、凍える心を暖めてくれるのだろう。私が歩くこの線路の先に死体は無い。何かがあるのかすら分からなかった。ただ、この果てしない暗闇を抜け出す一筋の光が、私に歩くべき道を示してくれる何かがあると。
縋るように、祈るように。
白い息を撒き散らし、雪を踏みしめ赤い鼻をすすりながら、たった一人で私は歩いた。
大学卒業をまじかに控えた12月、私は未だ自分の進路を決められずにいた。やりたいことが分からず、就職活動も上手くいかない。10年後のキャリアプランも、入社後したい仕事も、叶えたい夢も、計算し予測建てのできる未来というものが、私には全く分からなかった。将来のことを思えば思うほど思考は嵐のように荒れ狂い、泥沼の中を藻掻きながら歩いているかのように錯覚した。どんなに考えても悩んでも、ちっとも前に進んでいる気がしないのだ。来る日も来る日も問い続ける「私って誰だ」の先にあるものが、私にはまだ見えなかった。
ひなびた海浜公園に辿り着いたのは、時計の針が午前10時を回った頃だった。潮の香りを孕んだ風が、冬の朝の張り詰めた冷たさを伴って頬を撫でる。ぱっとしない曇り空の下、全く写真映えしない鈍色の海が広がっていた。半数以上が閉店して空き家になっている海の家。日焼けして文字の掠れた看板はもう読めない。分かっていたのだ。所詮は逃げの行為。逃避行の行き着く先は味気ない現実との対面でしかない。映画の主人公のように劇的に人生が変わる何かが待ち受けているなんて都合のいい幻想だ。分かっていたじゃないか。そうして全部、飲み込んで、深呼吸して虚しさに蓋をして。さぁ帰ろうと振り返ったその時、涙がこぼれた。え、と思った瞬間に決壊する。
こうして全て色褪せていくのだろうか。
大学での日々も、若さゆえの過ちも、一夜限りの逃避行も。
時間を止めてくれ。
ひとりで社会の荒波を航海していくことが、こんなにも怖い。
たとえ強い潮風に掻き消されても、世界の何も変わらなくても、私は大声で叫びたかった。間に合わなかった朝日が私を見下ろし嘲笑う。穏やかな波の音が耳を叩いた。
褪せる前に駆け抜けろ、そう聞こえた気がした。