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従者の響き渡るほどの怒声に一同唖然としてしまった。もちろん私も含めて。
「…あのハーグさん。お心遣いは嬉しいのですが、カシュイン家の皆様はご存知ないのです。どうか気を鎮めてください。」
顔を赤くして怒りに肩を震わせるハーグと呼んだ従者を宥めているトール。一体どちらが主人なのだかわからない。
「あの、古の乙女の後継者ということは、貴方は魔導師か何かということですか?」
顎に手をあて、困惑しながらレイディールが問う。
「魔導師…みたいなものですかね」
「な!なにをおっしゃる!!貴方様は双頭の大亀にあらせられます!!!」
トールの話を遮り、ハーグはトールに向かって怒鳴っている。怒鳴られたトールは額に手をあて溜息をついた。
「…双頭の大亀?」
マクドールが呟き隣にいるオクタヴィアに向き直る。
その声が聞こえたのかレイディールとギルディールも顔を見合わせていた。怪訝な顔を隠そうともせずに。
「そうだ!本来であれば貴君らが御目通りを願うのもできぬ程の高貴なお方!!我が国グリンバルク王国の守護獣様である!」
「いや、もう本当にやめて下さい。」
ハーグは鼻を鳴らし得意げに胸を張って部屋を見渡す。トールはそんなハーグに頭を抱えていた。
「順番を違えてしまったこと、誠に申し訳ありません。本来ならカシュイン家の皆様、もちろんナディにもお話しないといけないのですが、どうにも私は丁重に扱われるのが苦手で。」
姿勢良く座るいつものトール様は困り顔でマクドール、隣にいるオクタヴィアと視線を合わせた。
「ハーグさんが仰られたことは本当なのですか?貴方様が双頭の大亀であられると…」
いつも冷静なマクドールが珍しく困惑していた。
「古の乙女アモーラは、僕の母であり、建国史にあるように王祖ルフェウスと共に国を創ったと言われています。」
落ち着いて語るトールはとても穏やかで、いつもの他愛もない話をしている時と同じようにレーネは見えた。
「建国史はアモーラについては大いなる力を持つ。としか書かれていませんが、母アモーラはこの国の守護をしている双頭の大亀であり、今もなおこの国を支えています。」
古の乙女アモーラは建国史の最初こそ名前が記載されているが、建国後に書かれたどの歴史書をみてもアモーラの名前は載っていない。
「母アモーラは元々湖の水底に眠っていた双頭の大亀でした。そこに若いルフェウスが湖に落ちてきたのを助けたのが始まりです。」
荒れる大地を歩き続けていた。酷く疲れ、心身共に傷ついていたルフェウスは、奇妙な眩しい湖に辿り着いた。
小さいながらも底が見えないほど深く。なのに湛える水は澄んでいて空の光を反射している。周りには珍しく活き活きとした草木が生えていた。
手にしていた杖代わりの、身の丈もある木の棒を放り投げ、ルフェウスは湖の脇に体を投げだした。
ルフェウスはとても疲れていた。
住んでいた集落は稲妻や嵐に晒されて、木や緑も枯れてしまっている。麦はもう何年も実らなかった。
腹が減って山に登っても岩山には何も生えていない。腹を空かした狼の餌になるのがやっとだ。
痛いのは嫌だと思って逃げてきた。最初は走っていたのだが、腹が減り足が疲れて走れなくなった。
足は擦り切れ、足の裏は何度も石が刺さり枝が刺さって怪我をした。それでも、ルフェウスは木の棒を支えに歩きつづけた。
歩きつづけて、何日、何ヶ月とたったのだろう。
ある日、照りつけた太陽がルフェウスの背中を照らした。
顔を上げ目を凝らしてみると、夢にまでみた緑の群生を見つけた。枯れた大地は黒く水はとても濁っていたのに。
そこだけは眩しい程の濃い緑がぽつんとあった。小さいながらに湖まである。オアシスのようにみえた。縺れる足で走りより、転がりながら湖の淵に手を置いた。
ここが終着点なのかと。
神は最後に私に夢を見せて下さったのだと。
この湖が自分の最期の場所なのだと悟り、ルフェウスは頬に伝う涙も拭かずに湖の水を一口、二口と啜った。
横たえた体を起こす力もない、ルフェウスは転がるようにして湖に近寄った。なんだかとても惹かれる湖だった。濃い水の匂いに鼻がむわっとするのも心地が良い。
あたりは湿度も高いのか長らく汗すらかくことができないほど、渇いた体がうっすらと汗ばんだ。
死のうと思っていた。昨日まで、今日の今まで。疲れていた。実らない麦にも、集落は飢えてどんどん人が死んでいくことにも。怖くて逃げて、辿り着いた。
なのに。
また水が飲みたいと思った。汗を流したいと。
木ノ実が生えていないのか、木に鳥は?
縋るようにして湖の淵からまた水を飲んだ。
水を掬い顔に掛けて顔をあらう。何日ぶりだろう。
水を飲んで少し体に力が戻ったので淵に座って体に水を掛けた。冷えた水に驚いたがとても気持ちがいい。
調子に乗って多く水を取ろうと半身を乗り出した、突如湖の淵だった部分がぼろっと崩れ、ルフェウスは底のない湖に落ちていった。
あぁこんなに呆気なく死んでしまうとは。いや、痛くなく死ねるのであれば本望か。
水の中でもがくこともせず、ただ落ちていくスピードに身を任せた。だんだんと息は苦しくなり、涙も溢れた。
鼻からも水が入ってきて、とても苦しい。
悔しい。
何もできずにただ生まれて死んでしまう。
生まれてから一度も腹が減らずに夜を越したことなどない。
雷は集落に落ち、火事で家が燃えたのだって何度も見ていた。こんなにも荒れた大地。こんなにも無力な人間を。
なぜ神は作った。
悔しい。こうして逃げて死ぬことしか出来ないなんて。
実り豊かな大地。天候は落ち着き、空は晴れわたる。
豚やヤギのミルクを採り、女子供は機織り機を囲んでおしゃべりをする。
金の小麦畑が広がり、人々は飢えることなく夢を語る。
土と草を固めた粗末な家ではなく、稲妻や嵐にも耐えるそんな家に住まわせたい。
裸足で歩いてもケガなどしない。
そんな当たり前を何故欲しがってはいけないのか。
そんな夢を見て何がいかなかったんだろうか。
生きたい。
ルフェウスは唐突に浮かんだ思いに胸が締め付けられた。
こうして死のうと逃げだして、今やっと死ぬことが出来るというのに。
生きたい。
苦しくて息ももう続かない。
それでも自分は生きていたい。
生きたい。