コンビニのサトちゃん
「あっ」
レジに立つ彼女が、声をあげた。
その軽く驚いたかのような様子に、俺は財布の小銭を選ぶ手を止めて顔を上げる。
彼女……多分同じ位の年齢な彼女は、〝思わず声が漏れた事が恥ずかしい〟と分かるほど頬を赤く染めていた。
「え?」
俺はこの瞬間、まるで海面にウキが沈んだのを確認してすぐさま釣り上げるような、そんなタイミングを感じていた。
夜九時のこの時間、俺の後ろに並ぶ客もいないし、会計に来る様子もない。
折角のこのチャンスを無駄にするわけにはいかなかった。
「ええと、何ですか?」
この僅かな取っ掛かりを押し広げようと、わざと素の顔をして聞き返してみる。
すると彼女は、レジ操作を続けながら、台の上に置かれたお茶のペットボトルにシールを貼った。顔を赤くしたまま目を軽く伏せ、鈴の鳴るような可愛らしい声をだす。
「え、と……今日は『イチゴミルク』買わないんですね」
ドクン。
俺の心臓が一回大きく鼓動して存在を強調する。
だめだ、今の一撃でもう参った。どうしてピンポイントでそこなんだよ。
完全に言葉をなくして立つ俺に、彼女は慌てて付け足した。
「あのっ、いえ、ごめんなさい。いつも買われていたからっ……」
今日は?
いつも?
見ててくれたんだ。
知っててくれたんだ、俺の事。
その場から動けないでいた俺を現実に引き戻したのは、おっさんの声だった。
「サトちゃん、そろそろ上がって! お疲れ様ー」
「はーい! あ、すみません! えっと、百円のお返しです」
サトちゃん、と呼ばれた目の前の彼女は、隣のレジにいた店長らしき人に返事をして、俺につり銭を渡す。
へえ、彼女は〝サトちゃん〟って呼ばれているんだ。
俺は心の中にシッカリとその名前を刻みつける。
「ありがとうございました」
サトちゃんは頬を赤く染めたまま、俺に向かってペコッとお辞儀をし、店の奥へと小走りに消えた。
あー、もう! 折角の会話のチャンスが店長のせいで!
内心毒づくけれど、これは店長のせいでもないし、勇気を何一つ出せなかったのは俺自身だった。完全に八つ当たりだけど、恨みがましくじろっと店長を一瞥したあと、店の外に出る。
――今日はイチゴミルク買わないんですね。
彼女が覚えていてくれた、イチゴミルクの紙パック。あれは部活帰りだったから買ったまでであり、普段あんな甘ったるい飲み物なんていらない派だ。
俺は青く光る誘蛾灯の下で、買ったばかりのペットボトルのお茶を開けて一口飲んだ。
*****
彼女と出会ったのは、夏休みに入った頃だった。
運動部に所属している高校二年生の俺達は、来年の夏休みにある大会を最後に、引退して受験一色になる。それまではと、悔いのないよう全力で部活に向きあう毎日を過ごしていた。
このクソ暑い夏の真っ盛り。日差しは西に傾いても刺すように強く、吸い込む空気もやたらと生暖かい。
夏休み中の部活帰りは無性に糖分が欲しくなり、毎回イチゴミルクの紙パックと共に、パンやおにぎりを購入していた。どうして毎回同じものを買ったのかといえば、懐事情により、安くて腹に溜まるというのが第一条件だからだ。
いつもは決まった店などなく、ふらりと立ち寄った場所で燃料補給をしていた。
そんなある日、普段は通らない道沿いにコンビニがあることに気付き、ちょうど小腹が空いていた俺はふらりと立ち寄った。全国どこでも同じ店舗だから、特に何を意識したわけではない。飲み物とパンでも買おうかな、と自動ドアから店内に踏み入れた瞬間、周りの風景がすうっと消え、ある人物だけがそこから切り取られたかのように俺の目に飛び込んできた。
それはまさに、俺の好み〝どストライク〟。そんな容姿の彼女が、レジカウンターに立っていたのだ。
サラサラとした細くて柔らかな黒髪は肩辺りで揃えられて、コンビニの制服からのぞく手足はほっそりと白い。女子としては割と背が高めだけれど、少しタレ目で優しげな面立ちをした彼女は、どこまでも俺好みだった。
そんな彼女が、ふとこちらに視線を向け、小さく小首をかしげた。呆けたように立ちすくす俺を不審に思ったのだろう。俺は油の切れたロボットみたいにぎこちなく通路を歩き、いつものイチゴミルクとパンを二つ手に取った。
それらを初めて彼女からレジ打ちをされたのだけど、まだ不慣れな様子で、先輩らしき人に教わりながらバーコードを読み込む。
「あ、えと、以上三点で四百五十円です」
「五百円お預かりします……はい、すみません」
「お返しは……と、はい、五十円です」
「レシートはご入用ですか?」
「あのっ、ストローはお付けしますか?」
可愛らしい声で、たどたどしくお決まりの言葉を発していく彼女。
会計ピッタリの小銭は持っていたけれど、ちいさな下心でお釣りを貰える金額を出した。五十円玉とレシートを、サトちゃんはたどたどしく手にし、俺が受け皿のように出していた手のひらにそっと乗せてくれる。その時、手と手が掠めるように触れ、俺の心臓は爆発するかと思った。
ぼうっと見とれていた自分は、最後に「ありがとうございました」と笑顔で締めくくられ……一発KOされてしまった。
それからの俺は、彼女に一目でも会うため、このコンビニに通い詰める日々が始まったのだ。
***
今日、珍しく夜にいつものコンビニへ寄ったのは、先週から通い始めた塾の帰り道だからだ。
部活に明け暮れていた俺は三年に進級したものの、受験という魔物の事をすっかり失念していて、いつもクラスで中の下だったのが下にまで落ちてしまった。
これから夏の大きな試合を終えたあと、三年生は部活を引退する。今まで部活に打ち込んできた人たちが、一斉にシフトを切り替えて勉強に打ち込むから、テストの点が大きく動く。
真ん中あたりをウロウロしていた俺なんて、平均点すら取れなくなる恐れがある。そうしたら、合格圏内だと言われていた進学もかなり……危ないだろう。
危機感を覚えたのは親で、とにかくスパルタで有名な塾へと俺は押し込められた。
勉強と部活のあとに塾とで慌ただしい毎日だけど、部活のあとにこのコンビニで彼女に会える。それが、俺の活力源になっていた。
今夜の塾は八時上がりで、ツレとくだらない話をしていたら。いつの間にか九時近くなってしまった。慌てて解散して自転車で帰宅を急ぐけれど、塾周辺は道が入り組んでて見通しが悪すぎる。
だから今日はルートを変更し、いつものコンビニの前を通ることにした。
煌々と外に明かりを洩らして、周囲に存在を示しているコンビニの姿に、俺はなんとなく安堵する。
何の気なしに店内をざっと眺めたら――
わっ! 彼女がいた!
慌ててブレーキをかけ、ぐりんと進行方向を変える。もちろんあのコンビニへ行くためだ。
彼女は夕方から今ぐらいの時間までのシフトなのかな……? それを知っただけでも得した気分だ。
* * *
そして最初の「いつも」発言に戻る。
いつも、いつも、いつも……? その言葉がぐるぐると頭の中を駆け巡って、彼女と初めて出会ってからの思い出を、巡り辿ってしまった。
といっても客と従業員だから、会計するときの機械的なやりとりの、大した思い出ではない。
それくらいしかないけれど、それでも俺は目で見て声を聴けるだけでも幸せだった。
――駄目だな俺……会話をするのが初めて、って事だけで感動してる。
『部活の鬼』『脳内筋肉』と後輩から陰口されてるこの俺が、なんて乙女な!
お茶を一気に飲み干して、空のペットボトルを、コンビニ備え付けのゴミ箱へ捨てに行ったら、ちょうど彼女が店から出てきた。
フワッとした水色のワンピースが涼しげで、彼女にとても似合っている。俺がいるのに気付いた彼女は、あ、の口をあけて視線がぶつかった。
話しかけるチャンス! そうだ、俺! 頑張れ! 今なら不自然じゃないぞ!
そう自分を鼓舞し、小さく咳払いをして口を開いた。
「お、お疲れさま。いまバイト終わり?」
何の気負いも感じさせない普通の声が出せただろうか?
声、裏返ってないか?
声、震えてないか?
声、固くないか?
ひとこと声を発するさえこんなに緊張をするだなんて、初めての体験だ。
「あっ! さっきはごめんなさい。変なこと言っちゃって」
そう言って彼女は、ぽっと頬を染めて俺の方へと小走りに近づいてきた。俺より若干身長が低い彼女は、俺の顔を見上げ、少しだけ首を傾げている。黒髪が頬を撫で、さらりと肩口へ流れた。
うわ、可愛いよマジそんな表情しちゃうの? 俺の言葉にそういう反応返してくれちゃうわけ?
しかしここは挙動不審になってる場合ではない。なんとか彼女との会話を繋げようと必死に考えを巡らせる。
「アハハ、俺イチゴミルクの紙パックを毎回買ってたからね。でも、あれは部活の日限定だよ。普段は飲まないんだ」
「そうなんですか。ああ、でも疲れているときに甘いもの欲しくなる気持ち、わかります! ……あの、そういえば、この時間に来るのって初めてですよね?」
「う、うん。先週から塾に通い始めて、いまその帰りなんだ」
そこから不思議なほど会話が弾み、彼女は近くにある女子高の三年生であること、普段は夕方から、夏休みだけは夜の九時までアルバイトのシフトがあることを知った。俺すげえ! 俺グッジョブ!
思い切って「サトちゃんてさ」と言うと、タレたその目をめいいっぱい開いて驚いた。
やべ、踏み込みすぎた!?
慌てて、「さっきの店長さんがそういってたし」と言い訳をしたら、サトちゃんはにっこり笑って「ずるいですよ私ばっかり。じゃあアナタの下の名前教えてください」と返した。
「トモ」
「トモ君ですね。覚えました!」
俺にとってはその笑顔がずるいと思うんだけどな。
しかし俺は知らなかった。会話下手なはずの俺が、何故こんなスムーズに続けられたかという理由を――
「あ、やっべ。遅くなっちゃったな」
すっかり話し込んでいた俺の目に、ふと飛び込んできた時計の針は、とっくに十時を回っていた。
家はどこ? と聞くと、彼女の家は俺の自宅までの道沿いにあるのが分かった。
「途中まで送るよ」
「わ、ありがとうございます! 実は……夜道がちょっと怖くて」
ホッとしたような表情の彼女に、内心ガッツポーズを上げた。夢のような時間を手に入れた俺は、次のバイトの日も必ずコンビニへ立ち寄る約束をして、二人で歩いて帰った。
……そう。この時も俺は気付くべきだったんだ。どうして二つ返事だったかというのを。
それからの俺は、塾がある日は彼女のバイト上がりの時間に合わせて、必ず立ち寄るようになった。気分はお姫様を守る騎士騎士だ。夜だけにね!
纏わりつくような蒸し暑い夜の空気をうんざりしつつ、自転車を押し歩きながらサトちゃんとの会話で知ったこと。
あの店は自分の叔父さんが経営している事。人手が足りなくて、手伝うようになった事。
「でもさ、なんでもう一軒のコンビニじゃなかったの? 同じオーナーだし、あっちの方が近いじゃん」
サトちゃんの家からは、このコンビニは少々離れているので、どうしてわざわざ遠い方なのかと疑問を持っていた。それを聞くと、うーんと顎に手を当てて困った顔をする。うわもうそれ犯罪だよ可愛すぎ!
オーナーである叔父さんは、もう一つ慢性的な人手不足を抱えている店があるので、そちらをと言う話があった。けれど、なんだか寒気というか居心地が恐ろしく悪いので、『ここで働くなんて絶対無理!』となってこの店に決めたそうだ。
――――ああ、それ俺も知ってる。俺の周囲では有名で、そのコンビニのある場所は通称『魔の三角地帯』。神社、寺、墓地を頂点にもつ三角形の丁度中央に位置していて、下手なオバケ屋敷に入るより恐怖体験ができると専らの噂だ。
俺は全く平気だったけど、一緒にそこのコンビニに入った霊感のあるらしい後輩は、五秒で店外脱出を計ったものだ。
客が殆どいないのに経営し続けていられるってのも、恐怖物語の一つである。
そんな話を聞かせると、サトちゃんはクスクスと頬を緩ませ可愛く笑った。
ああ、この時間がもっと続けばいいのに。
――しかし、サトちゃんは多分好きなヤツがいる。
あのコンビニの先輩らしき人。ネームプレートには〝渡辺〟と書いてあるのを、俺は目で捕らえていた。
サトちゃんに常に纏わりつく嫌なやつ、と俺の主観ではそう見える。
いや、冷静になってみれば渡辺という男は、新人にレジ業務や品出しを指導しているだけなんだけどさ。
おっさんがニヤニヤしながら、キワモノな成人雑誌の表紙を見せつけるようレジカウンターに出す時なんて、サトちゃんからさりげなくレジを代わったりする、大人の男だ。
その後、ありがとうってめっちゃ笑顔で礼を言っている姿がみえて、週刊漫画を見ている振りをしていた俺は、ズキズキと心臓が痛くなった。
いつもの帰り道では、それはそれは楽しそうにコンビニの話をするサトちゃん。
夕方から入る〝ミクロ〟ちゃんというアダ名の女子高生がいて、一四七センチの身長でかわいいの。
自分は一六二センチだから逆にうらやましいな。
ミクロちゃんとは対照的なノッポの人がいるよ。
静香という名前の、新しくバイトに入った人が、大人の女性って感じでいいな。
夜勤の人達がすごく楽しそうだから、年齢達したらその時間に入ってみたい。
〝ののじさん〟という恋愛にとてもご利益のある犬がいたらしいの……などなど。
俺そこのコンビニで働いてないけど、めっちゃ詳しくなったよ。
その中でも渡辺――〝ナベちゃん先輩〟の話は出現頻度が高い。
そりゃ先輩だからアレコレ助けてくれるだろうし、見た目も正直カッコイイ。汗の臭いを感じられる爽やかな好青年で、すらっとした体躯をしている。中学から同じ運動部に所属する汗臭い俺とは、真逆のタイプだ。性格だって、俺が脳筋ならあちらは冷静沈着頭脳派で、全くもって敵う要素が見当たらない。
部活の帰りに立ち寄るときも、サトちゃんと渡辺が一緒のレジにいるのを見るのが嫌で、ミクロちゃんと言われている子のレジにわざと行くこともあった。
心のちっさな男で自分自身にうんざりだ。
だけど、塾の帰りはいつものように彼女と待ち合わせて、一緒に帰る。色んな話を尽きることなく喋るけれど、渡辺に関しては絶対に俺から話題にすることはない。
そんな毎日が続いていたけれど、サトちゃんはこの夏休みいっぱいでこのアルバイトをやめてしまうといっていた。俺も大学受験のために、追い込みをかけるつもりだ。
それがいよいよ差し迫った週末に、俺は一世一代の決心を固めた。
それは――
夏休み最後の日である八月三十一日の夜に、サトちゃんに告白する!
あいかわらず渡辺の影はちらつくけれど、最後の最後にこの気持ちを伝えたいんだ。
八月二十八日、日曜日の今日は部活最後の試合であり、部全体でバスに乗り込み遠征に出た。
試合自体は俺の納得の行く結果が出せたので、非常に満足している。ただ今は、夕方に寄れなかったコンビニの事ばかりが気になって仕方がない。
行楽日和だったことも重なり、ノロノロとしか進まない大渋滞にバスは捕まっていた。この分では塾はともかく、夜の待ち合わせにすら間に合わない――!
サトちゃんの番号はおろか、メールアドレスも知らないのが悔やまれる。携帯であのコンビニを検索して電話をかけたいところだけど、あの渡辺に知られるのが何となく癪だから、その選択肢はないものとする。
イライラとしたまま時間は経過し、結局バスが学校へ着いたのは日付が変わる頃だった。
翌日。二十九日の月曜日。
塾の帰り、いつものようにコンビニへ行くと――サトちゃんはいなかった。
店内どこを探してもいなかった。
え?
どうして?
呆然と立ちすくむ俺の視線の先に、渡辺がいた。俺の姿を見て、ああ、と口を動かし何か気付いたようにニヤっと口の端で笑みを浮かべた。
――うわ、やなヤツ! 絶対聞くもんか!
その日は、きっと体調でも崩したのだろうと思い直し、そのまま家に帰った。
だけど。
次の日の夕方も夜も……八月三十一日の夕方も、サトちゃんはいなかった。
これで、最後の夜。
これで会えなかったら……いや、元々サトちゃんには俺なんて〝夜道友達〟位にしか思っていなかったのかもしれないし、俺の気持ちなんて大迷惑だったかもしれないし、むしろ伝えないで正解だったのかもしれないし……うん……
いつもの場所に自転車を置き、ほんの少しの間、期待を胸に抱いて待ち合わせの場所に立つけれど、サトちゃんはこなかった。
今日で最後だ……
諦めきれない俺は、意を決してコンビニの店内に入る。
――やっぱりいない。
頬をすぐ染めるサトちゃん。
俯くとサラッとした髪が顔にかかり、それを片手で耳に引っ掛ける仕草がかわいいサトちゃん。
ありがとうございましたの言葉と、極上の笑顔を浮かべるサトちゃん。
どれもこれも眩しくて、可愛くて……大好きで。
もっとサトちゃんに色々聞けばよかった。携帯番号、メールアドレス、学校生活、好きな人がいるのかどうか。……最後はどんなに勢いのある俺でもきっと言えないだろう質問だけど。
会いたいよ。
会って話したいよ。
君の笑顔、また見せて欲しいよ。
ボンヤリとしたまま、未練がましくイチゴミルクの紙パックを一つだけ買った。ミクロちゃんとアダ名された子のレジで、会計ピッタリの硬貨を出し、レシートは断る。
その一つだけを持って店のドアをくぐった所で――
「……っ、トモ君!」
息せき切って俺の目の前に駆けつけたのは……サトちゃん!?
荒い息を吐き、上下する胸を片手で抑えて落ち着かせていたサトちゃんは、もう片方の手を伸ばして俺の腕を掴み、コンビニ外の暗がりまでぐいぐいと連れて行かれる。
「え!? ちょっと待ってよサトちゃ……」
「どうして!」
俺は突然の展開に全く思考が追いついていなくて、サトちゃんがなんで今ここにいるのか、なんで……泣いているのか。
理由がさっぱり思い当たらないでいると、サトちゃんから前置きなしに詰問された。
「どうして、最後の日に来てくれなかったの? ねえどうして!」
「いや、どうしてって何が? 俺の方こそどうしてだよ。なんで急にいなくなったんだ?」
タレ目のサトちゃんは、ポロポロと流れる涙を拭いもしないで、怒った顔して俺を見上げる。
ああ、綺麗だな。場違いにも見とれてしまった。
「最後の日って……今日だろ?」
「違う! 私は夏休みの間だけって言ったじゃない」
「だから、今日が最後じゃんか」
「さい……あっ!」
はっと何かに気付いたのか口をつぐみ、みるみる顔を赤くするサトちゃん。それはまるで真っ赤に色付いた林檎のようだった。
何か思い出したのだろうか。俺は恐る恐る腰を屈めて視線を合わせると、か細い声でサトちゃんは話し出した。
「あのね、私の学校は九月が始まる週の月曜日から……つまり八月二十九日が始業式だったの」
「えっ……」
「てっきりトモ君の学校もそうだと思い込んでて。私の夏休みは、日曜日までなのよ」
「そ、そういうことだったのか……」
勘違いが明らかとなり、俺はホッと胸を撫で下ろす。俺の学校の新学期は、土日抜いての九月一日で、サトちゃんの学校では、九月が始まる週の月曜日から始業式と決まっていたらしいのだ。
だから、お互い最後の日がずれていたということになる。
「私、あの日ずっと待っていたのよ」
「もしかして……俺が来るのを?」
「うん、トモ君が来るのをね。――でも来なかったから、病気なのかな、事故に遭ったのかな……それとも私、嫌われちゃったのかなって……」
まさか! そんなこと地球がひっくり返ったってあるわけがない!
俺は必死になってその日のことを話す。
「あの日は試合で、チームのみんなでバスに乗っていったんだよ。帰りは大渋滞で戻れなくて、それでええと」
「えっ、部活の遠征だったの!? あぁ、よかった、すごく心配してたの。でも私、連絡先知らなくて」
サトちゃんとの会話が楽しすぎて、試合があるって伝えることが、すっかり抜け落ちていた。後悔先に立たずとはこのことだ。
「ごめん、俺がもっと早く言えばよかったんだ」
「ううん、私もちゃんと確認しなかったから……叔父さんは私の親と『夏休みまで』って約束したから、あの日で私はアルバイトを辞めたの」
サトちゃんも俺も高校三年生だから、受験に向けて勉強一色となるため、部活を引退したりバイトを辞めたり、これからの戦いのために身辺を整理した。でもサトちゃんにこのまま会えなかったら、俺は集中なんて絶対できなかったと思う。
いつの間にか、サトちゃんの涙は止まっている。でも、頬に伝った涙の痕はまだ少し残っていて、それをハンカチで拭いてあげたい衝動を堪えるのに必死だった。
「私ね、さっきナベちゃん先輩から電話を貰って、びっくりしたの」
渡辺の名前が出て、俺はどんなことを言われるのかと身構えた。つい自分の声に険のある言い方になってしまう。
「なんて言われたの? あいつに」
「ここにトモ君が来てるから早くおいでよって。身支度している時間ないし、勘違いだったら恥ずかしくて。……でもね、いますぐ行かなきゃ後悔する! と思って急いできたの」
一気に語り終えたサトちゃんはようやく落ち着き、クッと顔を上げ、僕にひたと視線を合わせる。涙の名残の潤んだ瞳に、決意の色が見えた。桜色の唇から、僅かに震える声で俺に向かって声を出す。
「だから、あの……えっと、トモ君に好きな子がいるのは分かってるし、迷惑かもしれないけど……」
「えっ?」
「私……」
「ま、ま、まって!」
まさか? いやそんな? でもこの展開は……!?
サトちゃんのその可愛らしい口から飛び出しかけた言葉を制止して、俺は必死に考えを巡らせる。
「だから、ちょっと待って。ええと……俺、確かに好きな子いるよ」
「……やっぱり。ミクロちゃん、でしょ?」
「――――は?」
「だからミクロちゃんの事、トモ君が気になってるの知ってるんだから! だって、ミクロちゃんのレジにわざと並んだり、視線で追ってたりしてるでしょ!」
俺は――――
なんというか、頬が緩むのを押さえられなかった。なんという事だろう。ヤバイ、嬉しすぎる。
「ねえ、サトちゃん。ちょっと俺たち……勘違いしてたみたいだ」
きょとん、俺を見上げるサトちゃん。どういうこと? と困惑した表情で、小さく首を傾げた。
その様子を見て少し余裕が出来た俺はククッと笑って、店の前にある駐車スペースの段差に一緒に座るよう誘導する。
俺の隣にちょこんと座ったサトちゃんは、頬にかかるサラサラの髪を耳に掻き上げ、不安そうな顔を浮かべる。
俺がこれから話すことで、サトちゃんが笑顔になってくれるといいな。
「あのな、俺は別に……ええと、ミクロちゃん? に対して何とも思ってないから」
「ええ? だって……」
「目で追ったのは、小っさいから、店のなかで小回り利いていいなーとかその程度だし。俺がサトちゃんのレジに行かなかったのは、俺の狭い心のせい!」
さあ、畳み掛けるなら今だ!
「俺は、〝ナベちゃん先輩〟が羨ましかったからだよ。サトちゃんが、その……先輩を好きなんじゃないかと思っていたんだ。でも今なら言える、っていうか先に俺に言わせて」
大きく深呼吸をし、まっすぐに目を合わせる。
「サトちゃん、好きです。俺と付き合ってください」
サトちゃんの顔が、今までで一番真っ赤に染まった瞬間だった。
* * *
残暑って暑いのが残るって書くのに、残るどころか堂々居座ってるじゃねーか!
という悪態をつきたくなるほど、まだまだ太陽の光が厳しい今日この頃。
俺は部活を引退し、二年生に引き継いだ。まだまだやりたい気持ちはあるけれど、自分の人生の夢を追いかけるために、受験に意識を集中するのだ。
とはいっても、朝から晩まで机にかじりついているわけではない。
「トモ君おまたせ!」
女子高の制服に身を包んだ彼女と待ち合わせたのは、いつものコンビニ。夏休みまでのアルバイトは終わったけれど、あれからなんとなく二人で立ち寄るクセが付いていた。
「らっしゃいませー……って、なんだトモかよ」
「ちわー。ナベちゃん先輩」
「キモ! お前が言うとキモイってマジで!」
俺とサトちゃんを繋いだのは、結局〝ナベちゃん先輩〟だったらしい。彼女が辞めたのを知らない様子の俺をみて、ナベちゃん先輩は、今となったらグッジョブ! と叫びたくなるようなお節介をしてくれたんだ。
――――彼、いま来てるよ? うん、昨日も一昨日も来てた。今なら間に合うから来いよ!
サトちゃんと一緒に電話の礼を言うと「高校生の青い恋には、大人の手助けが必要だろ」と笑って、届いた弁当の陳列を始めた。
ナベちゃん先輩はオトナの余裕をもつカッコイイ人だな……と、ちょっと前まで〝嫌なヤツ〟認定していた俺は、アッサリと考えを覆す。
これから大学受験に向けて、勉強を頑張らなきゃ。サトちゃんと同じ志望校だったのも何か運命的なものを感じる。俺が落ちさえしなきゃね! ははは……ハァ。
今日はこれから一緒に図書館に行って勉強するんだ。超健全なデートだよ、全く。でもサトちゃんが一緒なら勉強が頑張れる気がする。
「受かったらこのコンビニのバイト、ヨロシクな!」
「何? あっちのコンビニは何も感じない? よーし、あっちのシフト開けとくからな!」
ナベちゃん先輩と店長に、脅迫とも取れる予約をされて怖い未来予想図もあるけれど。
サトちゃんと一緒に、店を出る。その手に持ったレジ袋の中には、イチゴミルクが入っていた。ストローが二本入っているのは、ナベちゃん先輩のいらぬお節介だ。
扉を開けた途端、むわっとした湿気の強い空気と太陽光が降り注ぐ。しかし若干影が長く伸びているのに気づき、ほんの少し秋が近づいているのを感じた。
高校三年生、思い出の夏のお話。