表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/11

生活のきっかけ

 母はいつからか、アーミッシュな生活を標榜するようになった。

 できるだけ家から電化製品を遠ざけ、携帯電話は解約してゴミに出した。ガスを使わずにバケツにためた水でからだを洗う。

 どこから手に入れたのか、ネットではないことは確かなのだけど、アーミッシュ料理のレシピなる本を読んでは、忠実に再現しようとする。

 木綿や麻でできた薄茶色の服を着て、髪はいつもギトギトしている。

 はじめのうち、わたしたちはこの母の行動推移を、ダイエット感覚のベジタリアンのようなもの、いつものとおりすぐに飽きるさ、と嘲笑にふしていたのだけど、そんなわたしたちの思わくに反して、母は飽きることなく激烈に暮らしを変えていった。それでも、あまり趣味も交遊もしなかった母のことだったから、わたしたちは母にはっきりと珍奇や困惑、厄介などの感情を隠すことなくぶつけていたけど、どこかおもしろおかしく思って、ひとりでやる分にはとあまり問題視はしていなかった。「会社まで馬に乗っていかなきゃならないのはつらいなあ。パパはかんべんだよ。でも馬主になるってのはさぞかし気分のいいものだろうね」父のそんな冗談なのかなんなのかよくわからないもの言いに、母はよく笑って応えた。

「最近太ってきたからダイエットしているみたいです。詳しくは知らないのですけど、海外のスーパーモデルのあいだで流行っている新しい方法らしいのですよ。スーパーモデルと同じやり方をしても、スーパーモデルになれるわけじゃないのですけどねえ」

 近所のひとと母の話になると、わたしはそう説明した。その方がすくなくとも、突如として現代文明の利器を断つ生活を送りはじめたこと、の説明するよりだいぶ楽だったし、わたしもなぜ母がそんな生活スタイルを標榜しはじめたのかはわからなかったから、そう言うぐらいしかできるものでもなかった。さいわいにも、近所のひとたちはそのダイエットの内容を詳しく聞いてきたりはしなかった。

 母の生活が変わってからどのくらい時が過ぎていただろう。10キロほど離れた湧水地まで歩いて行き、人のあたま程の大きさの、いつか行った汽水湖への家族旅行で買った変な顔の描かれたヒョウタン、買ったはいいけどまるで使い途のなかったヒョウタン、どうしてこんなものをとなにかの拍子に押入れの奥から引っ張りだされるたびに三人で笑いあったヒョウタンに、湧き水をいれて帰ってくるようになると、周りの目もあることだし、わたしたちはそれまでとちがって真剣に母のこの奇行と向きあうことになった。

 話し合いは夜、頼りない一本のロウソクの灯りのもと行われた。

「だいたい、そんなに汗をかいて持ち帰ってくるのがそれっぽっちの量の水じゃ、これはたいへん効率が悪いじゃないか」

 父がへんに理屈をといて母に言うと、

「じゃあどうしろっていうのよ!? あなたはわたしに水を飲むなと言うの!? ねえ!? ねえ!?」

 母は、いままでわたしが見たこともない顔になって突拍子のない反論をした。わたしが朝にだらしなく二度寝、三度寝を決めこんでも、母はこんな顔になったことはない。

 何度も何度も同じ言葉をくり返す母の剣幕におされ、わたしは部屋の電気をつけた。久しぶりに灯ったまぶしすぎる白い光は、父も母もわたしも部屋のすべてのものを模型のようにうつしだしてみせた。まるで作りものの世界に迷い込んでしまっかのようだった。

 その世界のなかでも、やはり母は異形だった。

 口角にシワを寄せ、おちくぼんだ眼窩の奥にあるうつろな目をつりあげて、おそろしい顔だった。おぞましくさえあった。子供のころ、船上で漁師にシメられたイカが一瞬にしてからだの色が変わる映像をみたことがあるけど、母もおなじで、激昂しているというのに、ひどく蒼ざめた顔色になったことが表情以上におそろしかった。まるでなにか人とは相容れないものに憑かれたかのようだった。

 それまで、生活の変化により変わりゆく母の姿をわたしたち家族は、それこそ、良いダイエット、だとみなしていた。事実として母は以前よりも笑顔が増え、気色も良く、履けなくなっていたデニムに余裕ができた、二重あごが消えた、とニコリと笑いながらその副作用をわたしたちに喧伝していたのだけど。

 情けないことに、母の瞬時の変貌をみて、わたしたちはようやく母がおかしくなっていることに気がついた。よく見ると、ああ、なんて情けない、日頃精力的に動きまわっていた元気で明るい母の姿は、樽のなかで熟成していくワインよりも変化のない日常というフィルターがかけられた脳みそが創り出した盲点と錯覚により見えていた想像上の産物、ファンタジーとしかいえないもので、ほうれい線は傷痕のように深く寄り、そのくせ粉ふき芋のようにカサつく油っ気の失せた肌。母曰く、芳醇ないい香りのする髪の毛は、束ねた毛の道筋はしどけなく、ところどころ地肌がむきだされている。わたしたちをにらみつけているはずの視線は、確かにわたしたちの姿が瞳に映っているのだけれど、母はわたしたちのことをまるでゴム毬のようなものをみているかのように、視線と視線があっている感覚をこちらによこさない。わたしたちをみているようで、なにか絶対的な視界の遮断を感じる。毎夜暗闇のなかでゆらゆらと揺れるロウソクの火が、心細く立ち昇る煙が、わたしたちの目を曇らせていたのだろうか。母の態度が露骨に豹変したことにより灯された白い光が、ようやくわたしたちの目に母の現状を浮かびあがらせた。

「あなたたちはおかしい! おかしい! どうして!? わたしが勝手にしてることじゃない! わたしが! わたしだけが! ひとりで! どうしてわたしだけが! どうして! どうして! 電気を消して! はやく! ひどい! ああ、もう! カーテンがすこし開いてるじゃない! 変なものがはいってきたらどうするの!? どいつもこいつも、あなたたちはわたしがいないとなにもできないの!? はやく電気を消しなさいよこのクズどもが!」

 父はなにかを決心したみたいで、やにわに母に掴みかかった。その横でわたしは涙が流れるままに、なんとか母を落ち着かせようと必死にすがることしかできなかった。


 それから父は母を強引に精神病院へ入れた。わたしは母の見舞いには一度も行かなかった。母に愛想が尽きたわけではない。むしろその逆で、そうなってしまうまで母の変貌を放っておいてしまったことに対する自責の念から、わたしには見舞う資格どころか会わす顔もない、との心境にあったからだ。父にはそのことを正直に告白した。ただでさえむずかしい年頃とされるわたしを気遣ってか、父も母の入院生活の様子をわたしにはあまり話さなかった。父は母を見舞うたび、だんだんとやつれていった。そんな父や、はなれてしまっているけれどそれでも大切な母のために、せめて栄養のあるものを作って食べさせてあげるようと、わたしは家事を、ことさら料理に努めた。いつ母が戻ってきても良いように。


 しばらくして父が、母がおかしくなってしまったその原因をわたしに語った。父の語り口はしずかで、ゆっくりと、そして淡々と、どこか事務的な響きだった。

「カヨコ。ママは、キミコは、とてもやさしいひとだったんだ。とてもやさしいひとだったんだ」

 すこし痩せた父の顔は、喜色満面だった。わたしは父の言葉を聞きながら何度も「うん、うん」とうなずいた。

「パパがいけなかったのかもしれない。パパは、じぶんでも頼りになるような男ではないとおもうのだけれど、どうも変なところで昔気質な男でねえ。ママには家にいて欲しかったんだ。さいわい、稼ぎだけはそれなりにあったしねえ。でも、それがいけなかったのかもしれない。ママを家に閉じこめてしまった。ママは、空虚だったんだ。空虚で、無惨だ」

 うんうんとわたしがうなずくたびに、ロウソクの火がそっと揺れる。

「ママはいい人なんだ。でもね、ほら、ママがパートをしたいと言ってきたとき、パパは反対したろ? パパは、ママには俗世間の垢にまみれて欲しくなかったんだ。深窓のなかにいて欲しかったんだ。パパは自信がなかったのかもしれない。他と比べられたら、勝る自信というものがなかったのかもしれない。俗な世の中には、誘惑が常につきまとうものだから。パパはママを嫌いになるのが嫌だった」

 わたしたちの前に並ぶ母のレシピ通りに作られた夕食は、きっと誘惑のない料理なのだろうとおもう。

「それでもママは、パートにでたね。パパも、承知したんだ。門限だとかなんだとか、いろいろ条件をつけてね。あれからママは、楽しそうだったよ。ずっと楽しそうだったよ。リーダーがおっちょこちょいでそのしわ寄せが、とか、時給があがったとか、あの人は冗談が好きでだとか、カヨコぐらいの歳の女の子の流行りだとか、そんなことを楽しげにはなしていたね。パパもしばらくすると、自分の矮小な器量に我ながらうんざりしてしまったものだよ。でもね、ママは、楽しくなかったんだ。ママは、職場で浮いていた。なにがあったのかはわからないけれど、全員から無視されていたんだ。楽しそうに話していたことは全部ママの作り話だったんだ。そんな状況ならやめてしまえばいいものを、ママは、やめなかった。パパの反対を押しきって外に出たものだから、どこか意地になって、かんたんにやめられなかったのかもしれない。当然シフトも減らされて、リストラされた会社員みたく、公園でひとり時間をつぶしていたこともしょっちゅうだったようだよ。そんなときママは、スマホを握ってベンチでひとりぽつねんとすごしていた。シフトが入ってないのはなにかの間違いで、いまに連絡が来るに違いないって。ずっとスマホを握っていたんだ。来るはずもないのにね。ママはいい人だったから、自分が無視されている状況を、誰かのせいにはしなかった。一度は自分のせいにして仕事を頑張ったけど、状況はかわらない。周りはあははおほほと楽しそうに働いているのに、自分は蚊帳の外だ。ママは、それらすべての理不尽を、携帯電話のせいにした。連絡先を交換しているのに一向に連絡がこないことや、シフトが入らないこと、ヒソヒソ話や、ロッカーにゴミを入れられること、それらをやめてくれと言えないこと、ママはいい人だったから、自分に原因を求め、だけどれど、自分のちからでは解決できなかった。なぜ自分がこんな目にあわなきゃならない。なぜ、どうして、こんなものがあるから、こんな便利なものがあるから、そう思ったに違いない。ああ、ママは、現代の利便を捨てたんだ。利便な道具やシステムの数々がなければ、自分ひとりの労働能力が社会で必要になると思ったのじゃないか。先進的な文明の利器に自分の役割が奪われていることを、そして、発達した文明の利器がなければ、社会に自分が必要とされることを、ママは、望んでいたのじゃないか」

 わたしはうんうんとうなずいて、パパの口から淡々と事務的に流れ出る陰風をあびていた。涙はとうに枯れはてて、流れておちるようなことはなかった。きっとわたしの顔は能面みたく無表情になっている。だけど、揺れうごくロウソクの火に照らされて、わたしの顔は陰影をつけられて、見ようによっては淡い笑顔だったり、困ったような顔をしているように見えたにちがいない。パパはどんどんと語り、わたしの耳はなんだか硬い陶器のようになってしまって、淡々とそして鬱々と響くパパの言葉が、キンキンと甲高く響いて頭にうねった。

「パパは思うよ。思うんだよ。仕事をやめて山奥に行こう。山奥まで歩いていこう。馬や牛が途中にいたら、やつらの尻をひっぱたいて、ぼくらを乗せさせていこう。アスファルトの道が途切れてきたら、草原を抜け、いくつか小高い丘陵を越え、満天の星空のしたで眠ろう。苔むす源泉を見つけて、そこならママも水を飲めるね。そうして木こりになって暮らそう。小さな小屋を建ててね。忙しくなるぞ。日が昇ると同時に働きだして、日が暮れるまで野良仕事をするんだ。雨が降ったら本を書こう。物語を紡ごうよ。ぼくたち家族がいかにしあわせに暮らしているかを後世に残す義務があるとパパは思うんだ。ママもきっとよろこんで、ひょっとしたら、カヨコに弟か妹ができるかもしれないなあ。あはははははははは」

 わたしは、

「こんな顔した子はやだよ」

 と変な顔が描かれたヒョウタンをみせて、水を飲んだ。わたしもパパも、あははと笑った。ママが入院して以来、一番たのしい夜だった。

「そうときまったら、はやくママを助けださないと。ママは苦しがっている。あの病院は、理解がない」



「きっときれいになれるわ。うつくしくなれるわ。森がさざめき、小川はせせらぎ、さんざめく星空はいつもわたしたちに未知の神話を語りかけてくれるわ。そこには競争もなく、悪口も陰口もなく、ただ日々によろこびがあって、変化をいつくしみ、雨の日には好きなだけ物語を紡いでいけるわ。終わることのないお話よ。甘いハチミツと焼きたてのクラッカー。ウサギは耳をひっぱって首の骨を外すのよ。おいしいシチューを作りましょう。鹿を捕まえて、ベーコンにしましょう。野草も摘まないといけないわ。あらあら、忙しくなるわ。忙しくなるわね。パパもカヨコも、手伝ってくれるかしら。あの人たちは全部ママに任せっぱなしだから。縁日で亀を持ち帰ってきたときも、結局わたしが世話をして、そのくせ猫を飼いたいだなんて、ふたりで共謀して話を持ってくるんだから。わたしが猫毛のアレルギーだって知ってるはずなのに。でも、今回の話はいいアイデアよ。グッドアイデアだわ。おいしいシチューを食べてみたかったのよ。本物のシチューをね」


 それから数年ののち、深い山奥にひっそりと建つ小屋の中で、偶然たちいった猟友会会員によりみっつの白骨死体が見つかった。死体は失踪していた家族のものであった。彼らの死に事件性はなく、死因は毒キノコによるものだと推察された。

 骨のかたわらには、平たい石や樹皮の裏に、色とりどりの奇怪な絵がいくつものこされていた。

 それらが発見されると、マスコミはこぞって報道した。これはどうやら星座を示している。動物の処理方法。害虫と益虫。神様とおもしき人物の顔がどうして、土産物屋に置かれるヒョウタンに描かれているようなへんてこな顔なのか。人びとはマスコミを通じて各々この家族の生態や精神性を推測し分類せずにはいられなかった。しかし失踪した家族の母親に通院歴があることがわかると、お役御免と何事もなかったことにした。

 家族が紡ぎ残した絵の数々は、インターネットの片隅で、行き場のない少年少女たちの目にとまり、そこはかとない同情をあつめているという。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ