青空
私は、空を見上げるのがこわかった。
いうまでもなく、空には様々な色がある。やけにオレンジ色のつよい夕暮れもあれば、紫キャベツのさらし液みたいな色に染まるときもあるし、月明かりが水銀灯のようにこうこうとあたりを照らす空もある。それらはそれらでこわかったのだが、なんといってもいちばんこわいのは、晴天の日の、不気味な青い空だった。
てっぺんに近づくほど暗く濃くなる空の青というのは、途方もない無に通じていて、そこには境目となる皮膜なんかあるようで無くて、たよりなくて、私が人として生きていく上ではっている、安心をかたちをつかさどる結界を破られるおもいがした。地獄を見ているような、死の世界がすぐそこにあるような、そんなこわさだ。
こわいものほどついのぞき込んでしまうもので、ましてやそれが常に自分の頭上にあるものだから、私は歩きながらよく晴れた空を見上げては、頭がゆらゆらとして、私の形が熱せられたソフビ人形みたく、くねくねととろけていくような、そんな恐怖をかんじていた。
しかしどこかで、その感覚を愉しんでいる私もいた。
空に吸いこまれるようなこのメランコリックな感覚をもつ私というものを、どこかかわいらしい、愛らしいと、ナルシズムにひたる面もあったのだ。
しばらくして、私はその頭のくらくらが、ただのめまい、立ちくらみに相当するものだとわかった。私はその後神経をこじらせることになるのだが、いわば空を見上げて恐怖を感じるのはその前兆にすぎなかったわけだ。卵が先か鶏が先かで、空を見上げて体調にささいな異変をきたすことが未体験の恐怖となって精神にあらわれていたのか、その逆かはどうでもよくて、医者から症状の説明を受けたあと、頭を変則的に微動させると、たしかに私はふらふらと気が遠くなった。急に空を見上げたりなんかすれば、とうぜんくらくらする。
私が空を見上げるたびに感じていたえもいわれぬ恐怖は、これで納得することができるとして、問題は、それを愛らしいと思っていた方だ。
いったいあのメランコリックな私とはなんだったのか。ただの自律神経失調症の前兆による立ちくらみじゃないか。私は強がりな人間なので、病気の、しかも軽度の症状に、たしょう物憂げにはなるが、それを愛らしいとは思えない。あの強烈でこそないが、たしかな自己愛は、しょせんは幽霊の正体見たりだったのだ。
宗教家や歴史に名を残す偉人が、たまに、ある日突然強い天啓を受けその日から性格がかわったように行動する、というようなエピソードがある。それらはてんかんの発作によるものだと説明できるという。天啓を授かる際に、だいたい強い光を見ることがその証左らしい。
私も神経がそれ以上こじれなかったら、いまでも空を見上げては、言葉にできない恐怖をおぼえて、それを自分に説明し納得するために、さまざまな思考をしていただろう。
空の先には宇宙があるから、恐怖の根源は宇宙にあると考えたにちがいない。そうなると宇宙について調べることになるが、大学にいって一から学びなおすなんて労力は、いまの私の生活ではとうてい不可能で、せいぜい巷の本を読む程度だろう。
とうぜん、宇宙なんてものは研究者以外の、とくに宇宙に関してさして学のない者がいくら考えたところで、結局神秘や謎という言葉にハマるだけで、未知、もしくは不理解なことをいいことに、自分にとって都合のいい、筋の通る理論や話、思想観念や真理を作り上げのが研究結果の関の山で、そのままオカルトの世界の住人になっていた可能性がある。そうなると私は新興宗教を立ち上げるだろう。どうやら残念な私の性格をかんがみれば、そうなるにきまっている。でも、世間のひとは、そのようになった私なんかのことばに耳を貸すことはない。せいぜい、周りに数人いればいいほうだろう。
ひとは自分を理解されないと攻撃的になるから、ましてや自分のいうことが絶対に正しく正義であると考えていればなおさらで、きっと私も理解のない世の中を憎み、世の中を救うとの目的をもって、ひとをひととは思わぬ攻撃をしかける。そして捕まって、裁かれるのを待つのだ。
その状況に想いを馳せ、あこがれるほど、私は純粋ではない。私はきわめて臆病な人間なのだ。ただ、そういう道も私の人生の先にあったのかもしれないというだけだ。空を見上げるという、ささいな行動が、大河の源流のひとしずくのように、私の人生の分水嶺にあたったのかもしれないとおもうだけで、言いしれぬ感情がわく。恐怖に似たなにかだ。
狂ったギリシャ人が突然部屋にあわれて、おそってくる。大事にしていたものはみなこわされて、燃やされて、ないものと知っていながらあると感じていたのにやっぱりなくて、境目などはじめからなかったのだ。狂ったギリシャ人の前では、結界など通用しない。
私を殺そうとしたひとは、殺してやると言って私の首を絞め続けた。ひとを殺すのも、理由があって目的があって、自分のなかで説明がつくなら、深夜に墓地にいくのだってそこに最愛のひとが眠っているなら恐怖なんてないように、終電に乗って深夜に夜道を歩くのと目的もなく深夜に町をさまようのとでは恐怖の感覚がまるきり違うように、かんたんにやってのける。真綿もゴムも、にたようなものだ。私は理由のないものになりたい。無意味で、形骸化することのない世界。
砂糖にかるいアレルギー反応がでたことで、私はようやく納得した。どうりで。
腹のなかのいたるところから音がする。心臓はけなげに脈をうつ。カーブは絶え間ない連動で、奇跡はおこらない。ひとの手はゆっくりとうごく。
虫も殺せないからといって、松ぼっくりになってしまえば、傘のひろがるその先に、私のつむじに針をさす。
カラスが犬の吠え声をマネしている時間ですから、おやつにしましょう。あっというまにしぼんでしまうから、早く食べないといけない。
幼少の思い出はあまりなくて、10代の思い出もあまりなくて、20代の思い出もあまりないとなると、この30代もあまり思い出はない。今日見た月は絶対に忘れないと友と誓った夜もあったのだが、はていったいなんのための夜だったのか、まったく思い出せない。
ペナン島で恋をした少女の精神は思春期特有の繊細さと傲慢さとでゆれにゆれ、屋台のフレッシュジュースを飲んだ、が、それだけだ。カエルは店によって味がバラつくから、できるだけいきのいいカエルを扱う店を選ぶように。
胃のなかで暴れるのが心配なら、コオロギの頭をピンセットなどで潰してからカエルに与えるようにしましょう。
殺人現場でしっぽのないカナヘビをみましたよ。だから、犯人は、私だ。つまらなそうに私を観察することなど、だれの許可をえているというのだ。
余人をもって代え難く、当人をもって捉え難い。だからしょうがないじゃないか。そのせいで心臓がくたびれていったとしても、私は後悔すらできないのだから。
世紀末に異国の地でみた暴走族はモヒカンでバギーに乗っていた。いま考えればとてもよくできた話なのに、当時の私はそんなことすらおもいつかなった。
私を殺そうとした男は、執拗だった。こちらが殺されるのに飽きてくるほど執拗だった。その図を客観的にみておかしくさえおもった。では、私が逆の立場になったら、客観的にみておかしくおもってくるのだろうか。いずれにしても、コントにしかならない。あてのはずれたコントにしか。
笑うから笑顔になるのじゃなく笑顔になると笑うのだと昔のひとはいったけど、これほど苦しいこともない。きみはもう、どうして世の中のみんなはたのしそうに暮らしているのか考える必要がない。やりがいなどもってのほかだ。
青空には黒い点がある。ごま粒ほどの大きさのそれは、エッグノックのおぞましさとともにきみについてまわるだろう。




