蝉の声が教える夏
――その年は格別暑い夏だった。
線香の先に、ライターの火を灯す。少しだけ振ればそれは煙だけを吐き出す亡霊の空気となる。皮と骨だけの手が、線香の燃えかすの山にそれを突き刺す。
正面には今年七十にもなろうとしている安岡康作の妻の遺影が立てられている。康作はゆっくりとした動作で両手を合わせた。
静けさを含ませた屋内に反して、庭では子どもたちがはしゃいでいる。襖から届く光では康作の足元さえも照らせていない。じっとりと、康作は影の中で妻の葵に語りかける。
(なあ、幸せだったか)
こう言ってはなんだが、康作は自身を自慢できる夫だとは思っていなかった。仏頂面で口数も少ない。子どもと関係する多くは葵に押し付けてきた。家のことは妻の仕事。外のことは男のもの。康作は律儀に、縛られるようにそれに従ってきた男だった。世間に言わせれば堅物とでも名づけられるそれそのものだろう。
だが、それに反して葵は自分にはもったいないほどによくできた妻だ。よく笑い、子どもの世話も率先して行っていた。この家で、死ぬまで子どもたちのことを案じていたのも彼女だ。彼女が死んだ後でさえ、誰もが彼女の死を悼んでいる。忘れることなどできない。
そんな妻は、己と共にいることに喜びを見出せただろうか。
結婚当初はよかったかもしれない。しかし、歳を経ていくごとに後悔をしたのではないだろうか。葵は優しいが故に、それを言い出せずにずるずると終わりまで自分に引きずられてしまったのではないだろうか。
康作の頭の中にあるのは喪失感と恐怖だ。死んだ人間には問えない。問えないがために答えが返ってくることもなく、問題のみが闇雲に同じところを回っている。
康作は目蓋を下ろしている。視界いっぱいにあるのは暗い蓋の裏だ。
音だけが感覚に集約していく。足裏の畳みや己の手の感触も、肌に貼りつくようなじめっとしたにおいもすべてが初めからあったかのように無へ至る。新しく生まれるのは子どもたちの明るい声に、高らかに叫ぶ蝉の羽の音だ。
次第に幼い声もなくなり蝉の鳴き声のみが響く。蝉の存在だけが世界に孤立する。
――今年は、いやに蝉が騒がしい。
「――さん」
気のせいか、涼しくなったと康作は思った。
先ほどまで己にしつこく纏わりついていた熱気が一斉に逃げたかのようだ。それに、自分の体もどこか軽く感じる。
周囲の変化に違和感を抱いた康作は目蓋を上げた。途端に、康作の目は大きく開かれた。そこに映る情景の数々に驚きを隠せなかった。衰えていた自分の視界が、まるで若い頃に戻ったかのように鮮やかに見えるのだ。目の前に広がっていたはずの滲んでいた青い畑は、今ではその一本一本が生き生きと太陽に晒されている。葉先が天を仰いでいる。すべてが生きている。
それに、康作の視線もどこか高かった。
「これは、いったい……」
己の声にすら張りが出ている。康作は呆然と立ち尽くしていた。
「康作さん、どうかしたんですか?」
女の声が耳元から響いた。康作はおったまげて大きく仰け反る。しかし、普段とは使い勝手の違う肉体のおかげでそれは思ったよりも大きなものとなってしまった。康作は土の上で尻餅をついた。存外衝撃は小さい。
――土?
己は室内にいたはずである。だというのに、なぜ土の上にいるのか。
「だ、だいじょうぶですかっ?」
そこにいたのは若い女だった。いや正しく言うならば見覚えのある女だった。
それもそうだ。長年連れ添ってきた妻の顔を忘れる夫がいるわけがない。
康作を心配そうに膝を折る妙齢の女――安岡康作の妻である旧姓澤城葵、その人だった。
「葵はなぁ、昔はお父さんと結婚したいって言ってたのになァ。今じゃなァ……」
「もう、その話はやめてよお父さん!」
顔を真っ赤に、焼酎を片手に嘆いている男がいる。男は葵の実の父、つまりは康作の義父である。
義父はとくとくと縁まで押し迫らせて酒を注ぐと、それを康作の手前に押しやった。
『ほれ――』
記憶にある残像が脳裏を掠める。酒は苦手である自分に、その男はどのような顔を浮かべていただろうか。
「ほれ、さっさと飲め。さっきからまるで手が動かんじゃないか」
男――義父は、不機嫌を隠そうともせずに康作をねめつけた。
(そういえば、こんな顔で迎えられていたか)
いつだったか、己が義父の歳を越してからは柔らかな笑みばかりが目に入っていたものだからすっかり忘れてしまっていた。葵は一人娘である彼にとって、康作は盗人に等しい。
「それともわしの酒が飲めんのか」
酒臭い口を近づいてくる。過去の自分はどうしただろうと記憶を巡らせる。
「お父さん、無理強いしてあげないでくださいな。康作くんも困ってるじゃありませんか」
義母が新しいつまみを康作と義父との間に差し入れる。
「こまっとるのか、康作クン」
「私は酒が飲めないのです、お義父さん」
「こまっとるのかと訊いとるのだ、康作クン」
「困っているに決まってるじゃないですか。ほら、ちゃんと座って飲んで。葵、追加のおつまみ台所にあるから取ってきてちょうだい」
「あ、うん」
小柄な葵の姿が奥に消えていく。義母を見れば、「ごめんなさいね」と温かく微笑んだ。
義母は暴走しがちな義父を押し留められる女性だった。康作から見ても理想の母の形に思える。また、葵の理想でもあった。彼女から多くのことを康作は学ぶことができただろう。
だが、彼女を目に映す機会を、若い康作は片手で足りる程度でしか得られないのだ。
一児の子を産んだばかりの葵の顔を飾ったのは涙であって笑顔ではない。笑顔を飾るための一片は、父と娘を残して土の中に埋まるのだ。
「どうかした? 康作くん」
康作の視線に気づいた義母が問いかける。康作は首を振ってお猪口の中にある酒を口にした。口の中に含んだそれは、舌の根まで広がる濃い苦味だった。
少し酔った体を冷ますため、康作は宴から抜け出して夜風に当たっていた。依然と暑いままだが、火照った体には心地がいい風だ。
宴の場は、近所の者も呼んだのか先ほどよりも人の声が大きく聞こえる。
縁側に腰がけ、具合の違う己の体を見る。何度見ても、見慣れた皺一つ見られない。
何より、若し頃の義両親。生きた姿を持つ義母の姿。
間違いなかった。ここは過去だ。何の因果か、康作は己の柔軟に動く時代の体に入り込み、過去を生きているのだ。
(なぜ、俺はここにいる)
康作は自己問答をした。
(それも、葵を貰い受けると義両親に頭を下げた日に)
答えは、一つしかなかった。
「康作さん」
葵の声だ。康作は振り返らなかった。隣に葵が立ったのがわかった。
「お父さんが迷惑をかけてごめんなさい。お酒を飲むといつもああで……」
「俺は大事な娘を奪った男みたいなものだ。しかたない」
「子離れができていないんです。わたしももう二十二なのに」
「いくつになったって親にとって子どもはいつまでも子どものままだ。今のうちに甘えておいたほうがいい」
じっと葵が康作を見つめる。康作は意心地が悪そうに目を逸らした。
「なんだ」
「今日の康作さん、お父さんみたいですね」
葵が小さく笑った。数年ぶりに見た葵の笑みは、暗闇に曇っていようとも美しく見えた。
「お酒に酔うとそうなるんですか?」
「思ったことを言っただけだ。気になると言うならやめる」
「いえ、いいです。嫌なんじゃないです。新しいあなたが見れて、ただ嬉しいだけ。まだ知らないあなたがたくさんいると思うと、それだけで嬉しいんです」
「なぜだ」
――だって。
康作はその先の言葉を知っている。以前も、この場所ではないどこかで彼女は康作に言った。今よりも老けていたその顔で、葵は康作に言ったのだ。
「今までよりもあなたのことがわかる。遠いと思っていたあなたにどんどん近づける。それってすごく嬉しいことでしょう?」
――あなたはわたしが思っていたよりもずっと遠くにいたんですね。
似ているようで似ていない。しかし、どこか似た芯がある。いつの時代も、どの彼女も、すべてが彼女のままだ。
「君は、変わらないな」
「変わりますよ。わたしのまま、変わります」
「……そうだな」
だから、彼女は苦しんだのだ。
変わってしまうものを知ったから、彼女はその苦しみを抱えてまで康作の隣であろうとしたのだ。
康作は葵に対して大きな恩を感じていた。今まで己に連れ添い、そしてこれからも連れ添う未来を持った目の前の彼女に対し、その恩を返したかった。
(葵のために、何が出来る)
葵に目を向ければ、彼女は康作の心のしこりを掬い取るような優しい笑みを向けてくれた。昔から変わらない笑顔がそこにあった。かつて、守れたかも不確かなものが、そこにあった。
(今なら、守れるのか)
康作は、軋みを感じない力強い拳を固めた。
朝、目覚めた澤城家の家主である雄一が最初に感じたのは酷い頭痛だった。
前日の自棄酒が雄一を責めているらしい。少し後悔したものの、一人娘が旅立つことに比べればその苦しみも安いものだ。隣に敷いてあるはずの妻の由紀子の布団はもう畳まれている。今頃は朝食の用意をしていることだろう。
先に日の光を浴びようと膝を曲げると――部屋の外から慌しい足音が聞こえた。
「――ん! 落ち着いてよく考えてくださいっ!」
由紀子の声だ。いったい何を焦っているのか、朝から姦しい。
「じゅうぶんに考えました。……長く考えつくしたことです」
どこか老成を感じさせるも、若い声音だ。雄一はすぐに康作のものであることに気がついた。
途端に、襖が大きく開かれた。暑い日ざしが康作の背中越しに主張してくる。
「おい、朝から騒がし――」
「お義父さん」
その男は半身を起こしている雄一よりも小さく身体を折り曲げた。
額を木床に押し付ける姿は、まさしく土下座と言われる姿勢である。
次に康作が口にした言葉に、雄一は耳を疑った。しかし、雄一が何かを発するまで身動き一つしない康作を見て、それは嘘偽りないものであるのだと悟った。
――娘さんを、お返しします。と、この男は言ったのだ。
義父は訊き返してくることはなかった。ただ、一言「本気か」とだけ応えた。
「はい、本気です」
下げた頭部からは汗が滴っている。
唾を吐かれようとも、嬲られようとも、原型がなくなるほどにその拳が振るわれようとも、すべてが承知の上だった。すべて承知の上で、康作は頭を下げていた。
「そうか、なら今すぐに帰れ」
「はい」
康作は義父の顔を見ようともしないでその場から立ち去った。
立ち竦んでいたのは由紀子だった。よもや、先日娘を貰いに訪れた青年が、一日と経たずに娘を返しにくるとは思ってもみなかった。それ以上に、己の夫がそれを承諾しようなどと考えが及びようもない。
「あなた……なぜ止めないのですか! 彼は――っ」
「本心ではないと? それこそ、止める必要すらない。軽々しく葵を捨てると言ったんだ。娘の思いすら何一つ見ようともしない男に、どうして大切な一人娘をくれてやれる道理がある」
「捨てたのではありません。彼だって、考えに考えた結果でしょう」
「多くを考えてこれか……。由紀子、葵に伝えてきなさい。事前に伝えてきたのであれば彼がわしのところにこれるはずもない」
由紀子ははっとすると、小走りに葵の部屋へ向かった。
雄一は息を吐いた。それは安堵のものだったのか、怒りを抑えるためのものだったのか。きっと両方だ。感情的な雄一は、いつも妻の由紀子に諭されて冷静さを取り戻す。
正直に言えば、雄一はこのままあの男を忘れ、葵が違う男と夫婦を結ぶことで幸せになってほしかった。
だが。
「あの子は、わしに似て強情だからなぁ」
娘は連れ戻す。二人で戻ってくる。そして二人で謝罪をするのだ。親の思いなど二の次に考えて、頭を下げ続けるのだ。ただ一重に、己の半身のために。
(子が親から離れるというのは、ここまで寂しいものだったか)
雄一は喜びと寂しさが入り混じった笑みを浮かべた。
康作は前ばかりを見ていた。後ろを見ることは決してしなかった。己の名を呼ぶ声が聞こえようと、それは初めから耳の穴を通らなかったものとして歩みをとめることはなかった。だが、その声の主が康作の袖を強く引っ張り、その腕にしがみついた。その女は、昔からどこか強情な女であった。
「待って、くださいと、言っています」
走ってきたのだろう。葵は息も絶え絶えになりながらも、刃の如き視線を康作に鋭く突き刺した。ゆえに、康作は後ろを見なかった。ただ足をとめていただけだった。
「待つ必要はない。俺と貴女は別々に生きるのだ」
「わたしには必要があります。なぜ、どこかへ行こうとするのです。どこかへ行こうと言うのであれば、わたしも行きます。それが嫌ならば伝えるだけでもいい。わたしは、あなたの妻なのですよ」
「……貴女は俺の妻には成り得ない」
康作がそれを言葉にするのに少しばかり時間がかかった。また、それを受けた葵もその小柄な体躯をまるで物のように硬直させた。
「わたしは、あなたのためになりませんか」
「……そうだ」
(違う。俺が、彼女のためにならないのだ)
だが、彼女はその言葉を信じないだろう。理想の未来を夢見て傷つく自分なぞ、想像もつくまい。だからこそ康作は偽りの言葉ばかりを述べる。彼女が彼女のまま、先へ歩けるように。
「お前は、俺の妻になるべきではない」
「ならば、なぜわたしを愛しているとおっしゃったのです」
「それは事実だったからだ」
「今では事実ではないと言うのですか」
「……そうだ」
(違う。俺は、嘘を吐いている)
目に見えぬ痛みが、康作の内側に次々と深い傷を産みつける。口にすればするほど、康作の眉間の皺は深くなっていく。
「わたしは――あなたを、愛しています。今も、以前も、それはすべて事実です」
(だが、先では違う。お前は、憐れみで俺といるようになる)
康作は答えなかった。腕を開放した葵の両掌が、康作の頬を包んだ。
「……――やっぱり、あなた、本当に、嘘が下手ですね」
「嘘なものか」
「嘘ですよ。だって、あなた、わたしの目を見ないもの。特別嬉しいときや悲しいときなんて、黙ってしまう」
「違う……っ」
「違くないです。わたしがずっと見てきたあなたですもの。ちゃんとわかりますよ」
ああ――知っているとも。お前が俺を心底まで理解し、解せることを知っているとも。だから、お前と離れたがらなかった俺のことを理解していたからこそ、俺の隣にいたのだろう。
何もわかっていなかったのは、苦しみを抱えたお前をそのままに、呆けて生きてきた俺そのものだ。
「康作さん、わたしはあなたといたい。それではだめですか」
「だめだ」
「なぜですか」
「俺は、お前を幸せにできない」
「そんなの、今ではわからな――」
「わかるんだ。葵、お前の俺の思いも変わる。その変化に苦しむときがくる。お前は自分を騙して生きていくことになる。……それは、幸せとは呼べない。だから」
康作は正面から葵の瞳を見た。透き通るような綺麗な瞳だった。
「だから、なんなんですか」
「お前は俺を選ばない方がいい」
頬で熱が弾けた。同時に、高い音が頬を叩いた。葵が平手で叩いたようだった。
今までになくその顔は赤く、怒りに染まっている。
「この、大ばか者ッ!!」
康作は呆然としていた。当たり前だ。今までの結婚生活で葵が康作を叩くようなことがあっただろうか。いや、あろうはずもない。彼女は確かに強情ではあったが至極温厚な妻だったのだ。
「な、なにを」
「あなたがそこまでの大ばか者とは思ってもみませんでした。選ばない方がいい? 幸せにできない? それはあなたが勝手に決めたことでしょう? どこにわたしの感情があるんです」
「だ、だが、現に」
「――例え、事実そうだったとしても、それはわたしが選んだ未来です。例え、先のわたしが後悔しようとも、今のわたしが選んで手にした未来です。それを否定されるべき場所はどこにもない。わたしはね、後悔しても、苦痛に苦しんでも、過去に戻ってやり直したいなんて馬鹿なことは考えない。それは、その未来を選んだ今までのわたしに対しての侮辱です。勝手に不幸だと決められるべきものではありません」
まくし立てるように言うと、葵は一呼吸を加えて続けた。
気づけば、葵の目尻に、頬に、今までに見なかった細い線が加えられていく。言葉を紡ぐたびに、それは数を重ねていく。ただでさえ小柄な葵の背が、間違いなく小さなものになっていく。
「わたしはあなたを選んだんです。今のわたしが、確かにあなたを選んだ。先のわたしがどうであれ、それは事実です。わたしが選んだ、わたしの未来です」
声までもが、康作が今まで知っていたものへと変わっていく。いや、戻っているのだ。それが彼女だ。康作が最も身近に感じていた愛しい女の姿だ。
康作の手を、葵は包んだ。冷たく、皮と骨ばかりの手。だが、触れれば胸の底が温かくなる。
「それで、お前が苦しむことになってもいいのか……」
いつしか、康作の唇も渇き、その皮膚を弛ませていた。縮んでいたと思っていた彼女との距離は、若い時よりも小さなものとなっている。葵の瞳に映る康作の容姿は、今の葵のものより一回り以上歳をとっているように見えた。
(いつの間に、それだけ時間が経ったのか)
「わたしが選んだ道ならば享受しましょう。それが苦痛ある道だとしても、決して不幸ではないから」
「葵、おれは、お前を、お前を幸せにしてやりたかった」
「なぜ幸せでないとお思いになるのです。わたしはわたしの意思で、命尽きるまであなたと共にいることを選びました。幸福でないとするならば、それはあなたが幸せでなかったとき」
夏の熱気が葵の表情を曇らせる。
しかし、白いベールの向こうで確かに感じる。彼女は口の両端を上げている。目を細め、目尻の皺を重ねている。康作は、葵のその表情を見るだけで至上の思いを抱くのだ。
「葵、おれは――」
蝉の声が耳に劈く。視界に映らない蝉の群れが、白い霧となって辺りをひしめいている。
気づけば、葵の姿は霧の一部となって視界から失せていた。
「どこにいる! 葵! おれは、まだお前に――!」
耳を抑えながら康作は声を張り上げる。
伝えるべきことを伝えていない。彼女に、これだけは伝えなければならない。だが、己の妻はもうそこにはいないのだ。
ミンミンと、蝉の鳴き声が頭に叩きつけられる。それは交尾を求める相手に対して、我こそがと主張するために彼らが命を削って発せられるものだ。彼らが選択し、彼らが自分たちの種を存続させる未来へと歩むために、必死に足掻く鳴き声。それが強くないわけがない。それが伝わらないわけがない。
頭上から大きな影が迫ってきた。見えるのは霧だ。だが、影に映るのは無数の蝉の姿。蝉の津波だ。
「葵――!」
康作は全身に降りかかる蝉の大群から身を守るため、ぎゅっと目蓋を閉じた。
最初は小さなものだった。だが、意識がはっきりしてくるうちに思ったよりも蝉が煩く鳴いていることに気づいた。それもそうだ。なんと、額に張り付いていたのだ。康作は声もなく頭を振って蝉を追い払った。
留まる場所を失った蝉は襖の隙間から外の世界へと飛びだっていく。
また、子どもたちの笑い声が聞こえた。庭で孫たちが遊んでいるのだ。
じっとりとした湿気が、肌に張り付く。妻の遺影が目に入った。線香の煙はいまだに立ち上っている。襖の間から漏れているとはいえ、室内には煙が充満していた。
襖を大きく開くと、太陽の光が視界を埋め尽くす。
縁側には康作の娘がいた。葵によく似た、可愛らしい娘だ。
「あ、父さん。おはよう。ちょうどこれから西瓜を切ろうと思ってたんだけど、食べる?」
言われて見れば、娘の横には冷やされた西瓜があった。康作は是非もなく頷いた。西瓜は幼い頃からの好物である。
シャクリ、西瓜の果汁が口いっぱいに広がった。ヒヤリとしていて甘い。昔は息子に種飛ばしを教えていたものだと柄にもなく思い出す。
「――お前、母さんは好きだったか」
「……なに、急に。当たり前じゃない」
「そうか」
それこそ、柄にもない。
康作は皮一枚になるまで、西瓜をかじり続ける。熱い日差しの中、極上の味と言ってもよかった。
子どもの一人が康作を指さして「あーっ!」と叫んだ。
「じいじが一人で先にスイカ食ってるー!! ずっちー!!」
「おれらまだ食ってねーのにー!」
「はいはい、じゃあ休憩。一人一つだかんね」
娘がそう言うと、水撒きしていた子どもたちがわらわらと縁側に集ってきた。
皿に乗っていた西瓜がその数を少なくしていく。そのうち、宙を一点の黒い粒が飛んだのが康作の視界に映った。それは子どもの口から飛び出たものだった。
やはり、種を飛ばす子がいた。一番遠くに飛ばした者が勝ちのようだ。
「なーにやってんの、はしたない」娘が呆れてその様子を見る。
「かーちゃん知らねえの。遠くに飛ばすほどスイカが早く育つんだぜ」
「へー」
「どれ、やってみよう」
「父さん?!」
「じいじできんの?」
「じいじは種飛ばしの名人だ。紘に教えたのもじいじだぞ」
子どもたちから歓声が挙がる。悪くない。
自然と、康作の口元は緩んでいた。
(そうか、これが葵が選択した結果か)
子どもたちの笑顔がそこにある。日差しに射されて熱いだろうに遊びに身を任せ、喜びを探す子どもの活気あふれる姿だ。葵はこれを選択したのだ。康作が彼女を幸福にできたかできなかったか、そんなことはどうでもいい。彼女がこれを〝良い〟としたのだ。幸福でなかったとしたらなんだというのだ。
孫の一人と競い合う。康作が負け、孫が勝利を得た。康作に向けられるのは勝利に喜ぶ幼子の快活な笑みだ。
(ああ、確かに。これは幸せだ)
これが幸せでなければなんだというのだろう。
話は盛り上がり、康作も含めた種飛ばし大会となった。近所の子どもたちも騒ぎに便乗して集まってきた。
輪が広がる。笑みが伝染する。これも選択だ。彼らは楽しみたくてここに来るという選択をした。
それが間違いかは誰にもわからない。もしかしたら、これが原因で喧嘩に発展して仲違いすることだってあるかもしれない。もしかしたら、それきりもう二度と遊ぶことだってなくなるかもしれない。
だが、それも選択だ。後悔することもあるだろう。過去に帰りたいと嘆くこともあるだろう。しかし、そこからまた違う未来へと繋がる。幸福かもしれない。不幸かもしれない。それは他人が決めることではない。選択した、その人間が決めることだ。それ以外の人間は傍観者にすぎない。
――今、こうして、誰かが先へ歩もうとしている。
一人ずつ、子どもたちの口から種が飛び出る。それは宙で弧を描いて地面に着地する。
一番遠くに飛ばした者と比べ合い、勝敗をつける。勝利を目前に負けた者もいた。最初から負けていた者もいた。これが、また新しい選択を作る。幸福は、無限に広がっている。
(おれは幸せだ。お前の選択はおれに幸せをくれた。なあ、葵、お前も幸せだったんだろう?)
康作は天を見上げた。空には一点、蝉の飛び立つ姿が映る。
因みに康作の勝敗に関しては一番下であった、とだけ述べておく。




