前編
「あんたの通ってた小学校ね。今度改装されるんだって」
それは本日の講義が終わり、そのままサークルへ行こうとした矢先の事だった。
不意にスマートフォンが鳴動し、ディスプレイを覗けば、そこには『母さん』の三文字。何の変鉄もない平日に電話がかかってきたので、何事かと出てみれば、そんな内容の報告だった。
「……まさかそんな事を報告するために電話してきたの?」
「そんな事とは何よ。全面改装よ? 全面改装。まるっと変わるの。大事件じゃないの。あんたが通ってた時はオンボロだったのにねぇ……」
どの辺が大事件なのだろうと、コメントしたら負けだろうか? 正直母校とはいえ小学校が改装しようが改造されようが、それほど興味はない訳で……。
もしかして、だだ何となく電話したくなったとか、そんな理由なのか。そんな推測が頭に浮かぶ。
僕としてはサークルの相棒を待たせるのも悪いので、さっさと会話を切り上げたいところなのだが……。
「あ、そうそう。オンボロといえばね。D校舎。あれは完全に取り壊されるそうよ?」
「……え?」
そんな折、耳にした懐かしい名前が、そんな僕の思考を暫し停止させた。
が、それも僅かな時間で。直後には僕の頭の中に、いつかの記憶がフラッシュバックのように流れていく。
浮かぶのは廃墟も同然な風景と、そこにあったもの。そして、憤怒の表情を浮かべる先生の顔。
もうすぐ十年は過ぎるかという程前の出来事だったというのに、鮮明に思い出せる辺り、僕にとっても衝撃的な思い出だったらしい。沈黙した僕を、興味が引けたと捉えたのか、母さんはクスクス笑いながらも、懐かしむように話を続けていく。
「覚えてる? 立ち入り禁止だった旧校舎。あんたってば何回もそこに入り込んでは……何先生だったかしら? 取り敢えずその人に怒られてばっかりで……」
「中道先生ね。覚えてるよ。三年、四年生の時の担任だった。……いやぁ、入るな。って言われたら、入りたくなるのが僕なもので」
「それでお呼ばれしたお母さんに何か一言は?」
「あの時はマジすいませんでした」
「よろしい。でね。スーパーでそんなお話を聞いてたらねぇ。何だかあんたの顔が浮かんでさぁ……」
そのまま、他愛ない話の花が咲く。といっても、「あんたは放浪癖があった」だの。「何回補導された事か……」といった母さんの愚痴が大半だったのだけど、それはもう生まれもった僕の性質だよ。の答えで華麗にスルーして。「可愛くない息子め」という母さんの悪態を最後に、親子の会話は終了した。
どうやら本当に、何となくかけてきただけだったらしい。気紛れな人というか、暇な人というか。
思わず肩を竦めつつも、スマホをポケットに仕舞い込み、僕は何の気なしに腕時計を見て……。
「……げ」
そんな声が漏れた。
時刻は十六時三十分。
昔の思い出とかもあり、結局はそれなりに話し込んでしまっていたらしい。サークルで集まる時間は、とっくの昔に過ぎていた。
こりゃいかんと言わんばかりに少し早足になる。が、それと同時に思い出したかのようにスマホが再び震えだし……。
『十二号館。1223教室にいます。あと、購買のシフォンケーキが食べたいわ』
ディスプレイにそんなメッセージが浮かび上がる。サークルの相棒、〝メリー〟からだ。
しばらく母さんと電話していたから、当然僕から彼女には連絡出来なかった訳で。なんと三十分近くも待たせてしまっていた。時に待ち。時に待たされな関係の僕と相棒だが、流石に今回は連絡も無しなので、少し罪悪感がある。故に……。
『遅れてごめん。今ならドリンクもつくよ?』
少しの出費はあれど、それは仕方がないと受け止めて。今日も僕は、サークルへと向かう。
非公認オカルトサークル、『渡リ烏倶楽部』
今日は果たして、どんなものと遭遇するのだろうか。そんな事を思いながら。
※
約束の教室に入ると、メリーは机に向かったまま、読書に勤しんでいた。窓からこぼれたオレンジの日が、彼女の亜麻色の髪を照らしている。
肩ほどまでの緩めにウェーブがかかったそれは、彼女の白い肌とも合間って、絶妙な美しさを醸し出していた。「お人形さんみたい」と、彼女を評する声を聞いたことがあるが、成る程。実に的を射ていると思う。
青紫の瞳は宝石みたいに綺麗だし、彼女の雰囲気自体が、何処と無く浮世離れしているのは否めない。でも……。
静かに、メリーの方へ足を運ぶ。僕の到着に気づいたらしいメリーは、本に栞を挟むと、悪戯っぽく微笑んで。
「私、メリーさん。今、貴方を待ちぼうけなの。……ハニーカフェオレ。買ってきてくれた?」
「ドリンクがつくとは言ったけどさ。まさかラウンジカフェの飲み物を要求されるとは思わなかったよ。これ350円もするなんて……ぼったくりが過ぎる」
「あら、その分美味しいのよ?」
遅れてごめん。と言う僕に、問題ないわ。と返しながら、メリーはお詫びの品々を受けとった。嬉しそうにカップへとストローを通し、幸せそうに味わうその笑顔やよし。
人形みたいといえでも、彼女は無機質である訳ではない。実際に話してみると、メリーは僕と一緒で多少ズレてはいるが、普通の女性なのだ。
まぁ、誰にも本名を明かさずに、某都市伝説にあやかって自ら『メリーさん』と名乗る辺りは変な所だとは思うけれど。
そんなどうでもいい事を考えながら、ふと閉じられた本に目を向ける。バーナード・ショーの『ピグマリオン』だった
本の内容はさておき、タイトルの元を思い出し、僕は吹き出しそうになるのを堪えた。人形みたいという彼女の評価を考察している所でこんなタイトルの本を読んでいるだなんて、出来すぎだと思う。
「……〝君が一番影響を受けた本はなんだい?〟」
「……〝銀行の預金通帳よ〟。……バーナード・ショーって、中々にユーモアがある人よね」
「〝ドンキホーテは読書によって紳士になった。そして読んだ内容を信じたために狂人となった〟とも言ってるからね。そこで影響を受けた本なんて口にしたら、自分が狂人だって言ってしまうようなものだから、預金通帳って言ったのかも」
僕の答えに、メリーはそういうもんかしら? などと呟きながら、シフォンケーキにフォークを刺す。僕はというと、その間にメリーと対面するように椅子を引っ張ってきて、ゆったりとそれに腰掛けた。
「……貴方は私にスリッパを持ってきて欲しい? それとも、逆に私に持ってきたいかしら?」
「バーナード・ショーを尊重するなら、持ってきたいにするべきなんだろうけどね」
「私としては、映画の方の結末を推すわね。尽くす女的な」
「ピグマリオンが原作なんだっけ?『マイ・フェア・レディ』……君、オードリー・ヘプバーン好きだよね」
「そうね。彼女の明るくて前向きな言葉は、どれも素敵だと思うわ」
ひょい。と、シフォンケーキの一口分が僕の口元に運ばれて来たので、遠慮なく頂いて。僕らは今日はどうしようか話し合う。
オカルトサークルらしく、大学内の心霊スポット(あくまで噂)を回るか。はたまたちょっと遠出して適当な神社でも見てくるか。
「君の〝受信〟は?」
「残念ながら、本日は反応なしよ。夏だし、暑いし。そういうのが栄える季節なのに、無反応なんて逆に珍しいわ」
トントンと、自分のこめかみを叩きながら、そう告げるメリー。
フム。弱った。そうなると僕らは、ここでシフォンケーキを食べながら悪戯に時間を潰し続ける事になりかねない。どうしたものか。
「そういえば、今更だけど今日どうしたの? 遅れてくるにしても、暫く音沙汰無し何て珍しいじゃない。変なのにでも巻き込まれた?」
「いや、巻き込まれたっていうか……」
そんな事を問うてくるメリーに、僕は言葉を濁す。正確にはわりとどうでもいい事で電話が掛かってきただけだったりするので、彼女が期待するようなものは何もない。けど……。
その時僕は、ふと思ったのだ。あの日の体験は、ただ一人を除いて、誰にも語っていないという事実に。
「ねぇ、メリー。メリーは当然ながら、小学校に通ってたんだよね?」
「……貴方私を何だと思ってるのよ。一応外国の血は入ってるけど、育ちは日本よ? 通ってたに決まってるじゃない」
呆れたようにそう返すメリーに、ですよねー。なんて言いながら、僕はチラリと窓から外を見る。外はまだ明るい。夏だからだろう。
そう、僕があの体験をしたのも、丁度こんな風に天気がよくて。夏特有の空気が濃い、暑い日の事だった。
「じゃあさ。七不思議的な事って、君の学校にはあった?」
僕の問いに、メリーの目がスッと細まる。好奇心に満ち満ちつつも、ちょっとおっかなビックリな表情だ。
「覚えている限りでは、ノーよ。変なのはいたけどね。え、何? 今日は学校の七不思議でも追うのかしら?」
「いや、そうしたいのは山々なんだけど……。僕ら大学生だろう? 七不思議を追って小学校に侵入なんてしたら、しょっぴかれちゃうよ。だから……」
目を閉じる。思い出したのはつい先程。だけど、昨日の事のように思える出来事だ。
「今日は学校の怪談を語らないかい?」
だから、自分の中で鮮明なうちに話しておこう。そんな気紛れに近いきっかけだった。
勿論、せっかくオカルトサークルを立ち上げているのだ。怪談ネタがあるなら、出さない理由はないのだけれども。
「それは……貴方が遅れてきた事に、関係があるの?」
「遅れてきた事には直接は関係ないけど、まぁ、それがきっかけで思い出した話。むかーしむかし。僕が小学生だった頃に起きた話だよ」
僕がそう答えると、メリーはハニーカフェオレの最後の一口を飲み干して、目を爛々と輝かせながら、両の手で頬杖をつく。青紫の瞳が、僕と。僕の手に向けられていた。
「いいわ。今日は私の感覚は休眠中みたいだし、聞かせて頂戴。貴方の素敵な手で何に触れて。何を見たの?」
期待するような声色で、メリーは僕に話を促す。僕はそれを合図として、語り始めた。
はじめて遭遇したのは、遡ること九年前の放課後だ。
「そうだね。名前を付けるならば……あれは旧校舎に閉じ込められた、幽霊だったんだ」
※
見も蓋もない言い方になるが、僕の通っていた小学校は、オンボロだった。それはそれはオンボロだった。
木造ではなく鉄筋だけど、壁やら床のタイルにはヒビが入ってたし、黒板は凄く消えにくい上に、一部変色していた。
水道水は何か臭いし、トイレなんかもう最悪と言っていい汚さ。
極めつけは教室だ。寂れた空気というか、床も机も全てが年季入ったもので、小さな落書き何て探せばいっぱい出てくる始末。
廊下は薄暗くて、夜に通ったら幽霊くらい出てきそう。そんな風格を持っている我が小学校だが、敷地だけは無駄に広かった。
一番大きく、低学年と中学年の教室と、職員室がある、少しオンボロなA校舎。
高学年の教室や教材倉庫がある、こじんまりとしていて、そこそこ綺麗なB校舎。
図書室、視聴覚室、理科室といった、多目的な教室が集中した、薄暗くて結構オンボロなC校舎。
この三つの校舎が、広くて多種多様の花に溢れた中庭をぐるりと囲むようにして立地している。それが我が母校、鯨島小学校だ。
こうして説明してみると、多少オンボロな、ごくごく普通の小学校に見える事だろう。だが……。ここには、少しばかり風変わりなものが存在していた。
D校舎。
所謂旧校舎というやつなのだが、そこはそう呼ばれていた。
A校舎とC校舎から延びて合流した、そこそこ長い渡り廊下を進んだ先。一応そこは体育館へ続く道ではあるのだが、それを通り越して更に奥へ進むと、件の校舎にたどり着く。
校舎とは言えど、そこは普段授業で使用しない。最高級にオンボロで、とてもではないが生徒が生活に耐える場所ではないし、そもそも電気すら通っていないのだ。一応倉庫のように使っているとの事ではあるが、それすら何のためにあるのか甚だ疑問である。当然ながら、生徒は先生と一緒でない限りは立ち入り禁止。いかにも何かがありそうな場所。なので、探検に出掛けようとした生徒が何人もいたらしい。
だが……。行った大半の生徒は、畏怖を含んだ表情で帰って来るのが通例だった。
当然だ。そこは小学生が集団で行くにしても、あまりにも不気味な場所過ぎた。オンボロ校舎を通り越して廃墟と言っていいD校舎は、体育館に隣接しているにもかかわらず、不自然なくらいに無音な空間なのである。まさに別世界。喧騒に溢れた学校に慣れている子どもには、さぞかし恐ろしく見えるに違いない。
実際に、誰かの視線を感じた。
見慣れない生徒を見た。
教室に赤い何かで、変な模様が書かれていた。
そんな噂が一人歩きして、結果的にこんな噂が流れ始めた。
D校舎には、幽霊がいる。その幽霊は、昔そこがまだ教室として使われていた頃に死んだ生徒の霊で、誰も来なくなった教室で、今もさまよっているのだ……。という、わりと普通にありそうな話。
で、当時の僕がそんな噂を聞いて何をしたかと言うと……。
「……予想以上にカビ臭い」
当然、探検に出掛けていた。
この流れなのでカミングアウトさせてもらうならば、僕は幽霊が見える。もっと正確に言えば、この世ならざるものが見えるのだ。
荒唐無稽な話に思えるだろうか? けど、実際に小さい頃からそうだった。
お葬式では、御本人が見えて。
墓場ではよく幽霊に挨拶されて。
事故現場では、恨みや未練を残した霊を目撃する。
世間でいう妖怪と思われるものにも会った事もあるし、極めつけは人面犬と桜並木の下で肉まんを分けあった事すらある。
僕にとっての救いは、こういった事象が日常茶飯事ではなかった事に尽きるだろうか。日常茶飯事だったら……。多分人としてまともな社会活動は送れなかったに違いない。
だが、救いは同時に、呪いにもなった。適度な非日常。それは、何も知り得なかった僕にとっては、ただ興味が惹かれる、冒険の扉のようなものになってしまった。以来僕は今日に至るまで、フラッと色々な所を訪れては、奇妙な体験をして帰って来ている。
見えないのが普通。では、それが見えてしまう僕は何者なのか。それを知るは、僕が何度か危険な目にあって尚、長いこと探索を続けている理由の一つである。……単に僕がオカルト大好きという、わりと俗っぽい理由もあるのだけれど。いや、寧ろ大部分がそれだけども。
だからこそ、そんな噂が流れていたら、僕は食いつかざるを得なかったのである。
初めて乗り込んだのは、僕が小学三年生の時。クラブにも所属せず、習い事もなかったので、放課後を探索の時間として定め、特に妨害もなくD校舎に侵入した。のだが……。
「…………っ」
そこに足を踏み入れた瞬間、僕は理解した。
成る程。噂話はあながち間違いでもなかったらしい。
無音の薄暗い廊下。塗装が剥がれ、灰色のコンクリートが露出した壁。錆び付き、赤黒く変色した水道の蛇口に、古く、無骨なデザインの流し台。まるで時間が止まり。あるいは歪んで取り残されたかのような空間がそこにはあった。だが、そんなものは二の次だ。
僕が身をこわばらせていたのは、D校舎に踏み込んでからひしひしと感じる、誰かの視線だった。
ねっとりとした。それでいて此方の出方を窺うような。
幼いながらも度々不思議体験をしていた僕だからこそ分かる。
その気配は、人間のものではなかった。
「…………だ……っ……いや」
誰かいる? と、声を出そうとして止めた。気配を振り撒いてくるような輩には、語りかければ寄って来るものと、そうでないものがある。
寄ってきてくれたら、話は簡単だし、正体も分かるかもしれない。けど、今はまだやるべきではないと、その時僕は思った。
相手が善いものか、悪いものか。強いものか、弱いものか。
僕はまだ分からないのだ。
「…………りんご。……ごりら。……ラッパ」
適当に言葉を重ねながら、僕は先へ進む。歌やしりとりは、結界の力を持っていて、古い語法として使えるという話を聞いて以来、僕は探索の時によく使う。一人でやることに意味があるかは分からないけれど、一応やっている間は襲われた事はない。
そう、〝やっている間は〟だ。途切れてしまった時は……まぁお察しだ。
一つの廊下に、教室が三つ。手前から教室。階段を挟み、教室。教室。といった間取りのようだった。
一つは完全な空き教室。もう一つは物置小屋扱いにされている。運動会で使う大玉や、玉入れの籠。綱引き用の縄が等がところ狭しと置かれていた。最後の一番奥の部屋は……立て付けが悪かったのか、開く事はなかった。ただ、教室入口の戸には、硝子窓が嵌められていて、中を覗くと……そこもただの空き教室のようだった。
廊下の奥には進めない。机がまるでバリケードのように積み上げ、立て掛けられていて、隙間にはご丁寧に椅子が入れてある。奥には……階段があるらしかった。
「団扇……和太鼓……黄金虫……」
ここじゃない。
僕の中で、そんな結論が出る。何かの気配は確かにする。
だがそれは、もっと上からヒシヒシと伝わってきているのだ。
「芝刈り……竜胆……兎……銀行……」
独りしりとりを続けながら、さびれた階段を上る。
相変わらずの無機質な空間には、僕の言の葉と、タイルを踏む硬い音だけが反響していた。そして……二階に辿り着く。
「裏道……ちりめんこ……独楽…………マントヒヒ……」
だんだんネタがなくなってきたが、何とか言葉を続けていく。ねっとりとした視線は、未だ僕に絡みついていた。
二階は、一階以上に何もないようだ。
廊下の奥には机のバリケードはなく、奥の階段へ進めるようになっているが……どのみちその降りる先は行き止まりだろう。D校舎は三階立てなので、上へ行く道には何かがあるかも知れないが。
「アリクイ……イースター……あんこ餅……チャンピオン、シップ……」
あやうく「ん」で終わりそうになり、慌てて紡ぐ。一瞬だけ気配が濃厚になったのは……気のせいだと思いたい。
一つ目。二つ目と空き教室。何かに使用した気配はない。本当に何のためにあるんだろうD校舎? と、僕が思いかけた頃。
はるか遠くから、誰かの足音が聞こえてきた。
「……ッ! し、シャーロックホーム……ズ。……ズ、ズ……図工……海牛……」
切れそうになったしりとりを何とか繋ぐも、僕の心臓は早鐘を鳴らしたかのように落ち着かなかった。さっき以上に小声で呟く今も、誰かの足音は響く。これは……一階からのようだった。僕以外にも、誰かがここに来たのだろうか。
「……シンバル……ルーレット……」
辺りを見渡すが、当然ながら空き教室に机のような遮蔽物はない。
たぶん使えないだろうが、外にトイレは一応あった。廊下に出て、そこに隠れようか。いや……。
僕はその考えを放棄し、直ぐ様教室の隅へ忍び足で移動した。
確かに隠れ場所としてトイレもいいだろう。だが、廊下に出て、そのドアを開ければ、間違いなく音が出る。これは、我が校どの校舎でも共通だった。無音のD校舎で、それは致命的だ。故に僕は教室のある場所を隠れ場所に選んだ。
扉は木製で、教室の壁に埋め込まれるようにして存在するもの。机も教壇もない空き教室ではあるが、これが――。掃除用具入れが存在したのは幸いだった。
音を立てぬよう慎重に扉を開き、僕は用具入れの中へ身を隠す。外以上にすえた臭いが鼻を突いたが、今そんな事はどうでもいい。
気休めだが、しりとりを心の中で呟くのに切り替えて。僕は息を殺したまま、聞き耳を立てた。
カン。カン。カン。と、階段を登る音がして。そして、コツ。コツ。コツ。と、床のタイルをを踏みしめた足音が大きくなる。
誰かが教室の入口で立ち止まったのだろうか。ふと、乾いた音がが止み。暫く後、誰かの「ふーっ」といった息遣いが聞こえてきて……。数秒後。再びタイルを踏む音が反響し、そこにいた誰かは遠ざかっていった。
僕はそのまま気を抜かず、身体を硬直させていた。誰かは、階段を上っていく。三階に向かったのだろう。取り敢えず行き止まりではないのだろう。誰かの気配が消えたら、再び探索に行こうか。
足音が捉えきれない位遠のいたのを確認した僕は、ようやく身体を弛緩させ……。
直後、コン。コン。コン。という、警戒なノックの音で、再び僕の身体に緊張が走った。
ぎょっとして、真っ暗闇の中で、目の前の扉を見る。
すると、見計らったかのように、またしてもコン。コン。コン。というノックの音が、掃除用具入れの全体に轟いた。
「ヒ……向日葵……理科室……積み木……」
悲鳴を上げそうになるのを堪えて、僕は小声で、言葉の結界を紡ぐ。
さっきまで感じていた視線は、用具入れの闇の中故に感じない。
かわりに……。じめじめとした嫌な気配は。人ならざる気配は、今まさに用具入れの外からじわじわと感じられた。
まるで波にさらわれる浚われる砂の山のように、僕の精神は徐々にすり減っていく。ノックの音は……今も続いていた。
「き、キリギリス……スイカ、……バー。……ア、アイマスク……」
危うく同じ言葉を使いそうになり、何とか修正する。心臓はさっき以上に拍動し、背中はじっとりと冷や汗で湿っていた。
そもそも、このノックがおかしいのだ。ここに来た誰かは、三階へ向かった筈であり、僕がこの教室に入った時は誰もいなかった。
D校舎にはベランダが存在しないので、窓から入ってきたも却下。それ以前に、僕以外の誰かが、この教室を一度見ていて、その時は誰かは反応しなかった。
つまり……。
今ノックをしている何者かは、誰もいない教室に突然出現し、掃除用具入れの前に現れたという事にならないだろうか。
「く、くく……栗ご飯……、定食。……く、胡桃。み、み……。ミ、ミ……」
混乱した頭が、言葉を見失う。いっそ大声を上げてみるか。それとも〝体当たりをした上で殴りかかってみるか〟そんな思考すら生まれ、完全にしりとりが途切れたと言えるくらいに間が空いて……。
その瞬間。閉ざされた用具入れの中で〝風〟が吹いた。
戸の隙間から、入り込んだのだろうか。……いや、おかしいだろう。窓も空いてない室内で風が吹く……なん、て……。
あり得ない現象を自覚し、頬の筋肉がひきつると同時に、ざわざわとした突発的な寒気が僕を襲った。そして……。
『ミ。……ミィツケタ……』
僕じゃない声が、耳元で囁かれた。
そこから僕は、ほぼ反射的に身体を動かした。大きな音がするのも気にせず掃除用具入れを飛び出して、がむしゃらに拳を振り回しながら、辺りを見回そうとして……。
それと目が合った。
「……っ!」
息がつまるのを感じた。そこにいる存在感もさることながら、そいつの異様な格好に。
そこには、男の子がいた。歳は僕より上……、高学年だろうか。ジーンズと、半袖Tシャツというラフな服装。だが、纏う衣服は。露出した肌は。目を背けたくなる程にべっとりとした血に塗れていた。
悲しげな瞳は、焦点が合わず、こちらを見ているようにも、何もない所を見ているようにも思えた。
十秒か。一分か。下手したら一時間にすら思える、その少年との対峙。
僕はただ、少しづつ。慎重に足を動かし、出口の扉に近づく事しか出来なくて。
『タスケテ……上……。出ラレナイ。……出シテ……儀式……』
それを阻止せんとばかりに、少年が近づいてくる。掠れた、たどたどしい日本語。それは僕の脳をダイレクトに揺らしていくようで……。否応なしに、目の前の存在を看破した。
コイツは……人間じゃない。
寄ってくる奴。悪いものか善いものかは、判断が付かない。けど……。込められた念が尋常ではなかった。
コイツは間違いなく、強い存在の……霊だ。
「う……おぉお!」
伸びてくる、血だらけの手。僕はそれを反射的に〝手で振り払い〟、一目散に出口へと走る。扉に赤い絵具かペンキで、妙な紋様が描かれている事に今更気付きながらも、僕は扉を外さんばかりに勢いよく開け、廊下に躍り出た。
『マッテ……マァァアテェ……!』という声を無視して、階段へ走る。
僕の状況を見て、調べに来ておいて逃げるのか? 何て言いたくなるかもしれない。
ああ、逃げるとも。だって血まみれだ。その状態でさ迷うなんて、絶対に真っ当な方法で死んでない。血まみれになりながら死んだ上に強い念を残してるなんて、地雷としか思えないではないか。
因みに、当時の僕は徐霊何て言葉は知らなかった。しりとりが途切れてしまったが故に、戦術的撤退を実行したのである。そして――。
「滝沢ぁ! 何しとんじゃコラァ!!」
騒いだ結果は、お察しである。案の定、僕は遠のいた足音の正体――、三階から降りてきた先生に捕まった。鉢合わせという奴だ。
しかも運が悪いことに、その人が僕のクラスの担任――中道先生だったものだからさぁ大変。
……結局。手痛い拳骨と共に、僕を包んでいたねっとりとした気配は消えさった。
これが僕が母校で遭遇した、奇妙で不思議な体験の話である。結果的に見えない人である先生に助けられたという、締まらない幕切れではあるが、現実なんてそんなもの。
映画やゲームみたいに、掃除機でお化けを撃退できたら苦労しないのである。
ただ、そんなあっけない非日常からの帰還だったら、僕はこうして、体験を鮮明に語ることなど出来なかっただろう。
そう。この話には、まだ続きがある。無駄に逞しくて、妙に汗臭い中道先生の肩に担がれた時。僕が最後に見たあの光景。それが目に焼き付いて離れない。
恨めしげに。いっそ憎悪に似た眼差しをこちらに向ける、血みどろな少年霊の姿。彼は、小さな口を動かして、こう言ったのだ。
『ヨウヤク、ミツケタ……。マタキテネ。…………ユルサナイカラ』
冷たくて、重々しい。毒の声だった。
※
本日の気温は、36度。夏らしい猛暑とはいえ、エアコンでキンキンに冷えた教室では、それもあまり関係ない。
語り終えた僕は、買ってきたジンジャエールを一口飲みながらも、チラリとメリーの方を窺う。彼女は何処と無く拍子抜けしたような顔で、僕を見ていた。
「……え、終わり?」
これから面白くなりそうじゃない! と、言わんばかりの彼女に、僕は肩を竦めて肯定する。そう、後は簡単な語りだけしか残されていない。事件らしい事件は、この初回の一度のみ。後はことごとく、空振りだったりする。
「終わりなんだよね~。中道先生に拳骨された上で、生徒指導室で説教。いや~。怒られた怒られた。『どうして入った!』『何を見た!』なんて言ってさ。後で知ったけど、中道先生って、あの旧校舎の管理やら請け負ってたみたいでね。前にあそこで怪我した人がいたとかで、定期的に見回りに行ってたらしいね」
「ああ、だから都合よく先生が来たのね。……丁度放課後だし」
「そういう事。以来侵入する僕と、取っ捕まえる中道先生との攻防が四年生になるまで続くんだけど……まぁ、それは語る必要はないかな」
「あ、やっぱりその後も入ったのね」
呆れ気味に笑うメリーに、僕は当然。と、胸を張る。しりとりさえ切らさなければ安心らしいし、何よりも、彼が語っていたのが気になったのだ。
『タスケテ……上……。出ラレナイ。……出シテ……儀式……』これは何かあるに違いないと思い、侵入して調べた訳だが……。
「まぁ、見事に何もなかったよね。というか、三階への階段は封鎖されてたから、二階までしか調べようがなかったんだ」
「あら、上から出られないを体現してるじゃない。……封鎖って、階段が?」
何故か訝しげに目を細めるメリーに、僕はうん。と、小さく頷く。
「雛壇やら、机にピアノ。ありとあらゆるものでね。子どもの身じゃ動かせないものばかりだったよ。それに……あの幽霊ともあれ以来会えなかったし。で、何回も侵入する僕に業を煮やして、中道先生が母さんに報告しちゃったんだ」
流石に先生と親に睨まれては、僕も断念せざるを得なかった。
そういえば、二回目の侵入で捕まった時、中道先生に旧校舎の幽霊の話をしたこともあったと思う。その手の話が苦手なのか、分かりやすく青ざめてはいたけれど、それはまぁ、いいだろう。
兎も角。そうして月日が経ち、中学に上がり、その事件は僕の中で忘却されたのである。
中学生となり、色々な行事に追われていたのもあるし、卒業した以上、ホイホイ小学校に遊びに行くのも、何だか気が引けたというのもあるけれど。
そこまで考えて、学校の怪談は小学校にある事が圧倒的に多いことに気がついた。
「考えてみればさ。学校の怪談って……」
「……ねぇ。少しいいかしら?」
話を締めようとした所で、メリーが神妙な顔で口を挟む。僕がどうしたの? といった顔をすると、彼女は何処と無く迷うような素振りを見せつつも、「さっきの話……ちょっとおかしくない?」と、切り出した。
「ねぇ、貴方の先生……。間違いなくそう言ったの? 『どうして入った!』『何を見た!』って」
「え? うん。そうだ……けど?」
……あれ? 確かに考えてみれば、おかしくないか?
ふと、そんなとっかかりが、心の奥底で生まれた。
自分の管轄だから見回りをしていて。かつ、そこに生徒が入っていたら、まぁ怒るだろう。だが……。「どうして入った?」「何をしていた?」と、聞くのが自然ではないだろうか?
何故中道先生は、「何を見た?」等と聞いてきたのだろう?
「……おかしいことは、あと一つ。中道先生は、階段から降りてきたのよね? 封鎖されていた筈の階段から」
「……封鎖は、階段の終わりに施されていたよ。だから、降りてくる事自体は不思議な事じゃ……」
「……辰? ねぇ……辰。気づいてるでしょ? それとも、私の口から言った方がいいの?」
ひんやりとしたメリーの指が僕の頬に触れる。赤子をあやすかのような手つき。思わずメリーの顔を見ると、青紫の瞳が、僕を真っ直ぐ見つめていた。
ゾワゾワとした、何とも言えないむず痒さが身体を支配していた。排水口を掃除した時みたいだ。何て事を思う。普段使っているものが、目につかない場所では恐ろしく汚れていたという事実のように。
何気なく過去を想起したら、不気味なものが引きずり出されてきて……。
「……貴方は、〝足音が遠退く〟のを確認している。行き止まりだった筈の階段を登った中道先生は、その後何処へ行っていたのかしら?」
つまりは、あの日、まだ三階は封鎖されていなかった事になる。
僕が二度目の探索を結構したのは、それから一週間後。もっとも、その日は先生にすぐ捕まったから、実際に三階に到達したのは二週間後になる訳だが……。
「まさか、三階を塞いだ? 先生が? 何の為に?」
「……見られたくないものが、あったとか?」
「いや……でも……」
「そうね。十年も前の話だもの。記憶だって、貴方の記憶だけ。私のこれだって、想像の域は出ないわ。単に本当に言い間違っただけだったのかも」
そう言って頭を振るメリー。僕はただ、机を。すっきりメリーの胃袋に収まった、ハニーカフェオレと、シフォンケーキの空き箱を見つめていた。
引きずり出したそれは、何かを壊すものだった。僕を怒っていたのも、見回りに熱心だったのも。幽霊の話に青ざめていたのも。母さんを呼んでまで僕を止めたかったのも。もしかしたら……。
「取り壊しって、いつ行われるの?」
「一週間後って、母さんは言ってたな」
「ふ~ん。……ねぇ、辰」
視線が再び交差する。言わんとしていることは、すぐにわかった。僕だって今、同じ気持ちだった。
彼女は僕の相棒で。そして、『渡リ烏倶楽部』は、怪奇の気配を見逃さないのだ。
「私、メリーさん。今、貴方の故郷に行ってみたいの」
聞き慣れた、メリーの口上。それは非公認のオカルトサークルが、活動を開始した瞬間を意味していた。