『そして誰もいなくなった』
美樹は、謝るのが嫌いだった。
夫と喧嘩をしても、最初に口を開くのはいつも夫だった。
「さっきの言い方、ごめん」
そう言われると、美樹は決まって答えた。
「私だって悪いと思ってるよ」
けれど、そのあとに必ず続く。
「でも、あなたがあんな言い方するからでしょ」
謝罪は、いつも「でも」で消えていく。
子どもに注意されても同じだ。
「ママ、約束してたよね」
そう言われれば、
「忘れてたんじゃない。忙しかっただけ」
「でも、私だって忙しいよ」
「親と子どもを一緒にするな」
美樹は、いつも自分の立場を守った。
自分だけが悪者になることが、耐えられなかった。
だから家族は、少しずつ何も言わなくなった。
夫が何かを頼むと、美樹は言った。
「私ばっかり家のことやってるんだから、それくらいやってよ」
夫が意見を言えば、
「じゃあ私が全部悪いってこと?」
子どもが相談すれば、
「お母さんだって大変なの」
いつしか家族は、美樹に相談しなくなった。
夫は自分の予定を自分で決めるようになった。
子どもは困ったことがあっても、友達や学校の先生に相談した。
美樹は、それを見て腹を立てた。
「最近の家族は冷たい」
そう思っていた。
ある日、娘が家を出ることになった。
荷物をまとめながら、娘が言った。
「お母さん、今までありがとう」
美樹は笑った。
「何よ、急に」
娘は少し黙ってから言った。
「お母さんに何を言っても、最後はお母さんが正しい話にしかならないから」
「たまには、お父さんの気持ちも大事にしてあげてね」
美樹の顔から笑顔が消えた。
「どういう意味?」
「私は離れることができるけど、お父さんは違うからね」
娘はそれ以上、何も言わなかった。
ドアが閉まった。
美樹は一人でリビングに座った。
夫は仕事でいなかった。
テレビだけがついていた。
その夜、夫が帰ってきた。
「今日、娘から連絡があった」
「何て?」
「しばらく一人で暮らしたいって」
美樹は鼻で笑った。
「もう大人なんだから好きにすればいいじゃない」
夫は黙っていた。
「何よ」
「……俺も同じだよ、もう何を言っても無駄だと思ってる」
美樹は夫を睨んだ。
「私が悪いって言いたいの?」
夫は首を横に振った。
「そういうところだ」
それだけ言って、夫は寝室へ行った。
美樹はリビングに残された。
腹が立った。
悔しかった。
みんなが自分を悪者にしている。
自分だって家族のために頑張ってきた。
誰よりも我慢してきた。
誰よりも苦労してきた。
そう思った。
けれど、その夜。
ふと気づいた。
家の中が、異様に静かだった。
昔は、夫の愚痴が聞こえた。
娘の笑い声がした。
誰かが「ママ」と呼んだ。
それが今はない。
美樹はiPhoneを手に取った。
夫にも、娘にも、連絡しようと思った。
けれど、何を書けばいいのかわからなかった。
「ごめん」
その三文字を入力した。
しばらく画面を見つめる。
そして消した。
代わりに、
「みんな勝手すぎる」
と打った。
けれど、それも送れなかった。
翌朝。
夫は黙って出勤していった。
娘からも連絡はなかった。
美樹は一人、朝食を作った。
三人分の癖が残っている食卓。
三つの椅子。
そのうち一つは、もう誰も座らない。
美樹はそこで初めて理解した。
自分の家族が、何度も何度も差し出してくれていた手を、
美樹は自分で振り払っていたのだ。
「私も悪かった」
そう呟いた。
けれど、誰も聞いていなかった。
家庭の中で一番寂しいのは、
誰もいない部屋にいることではなかった。
自分の間違いを認められないまま、誰にも何も言ってもらえなくなることだ。
そして美樹は、ようやく悟った。
謙虚さを失うということは、
自分を大きくすることではなかった。
自分の周りから、人を遠ざけていくことだと。




