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『そして誰もいなくなった』

作者: ミオ
掲載日:2026/09/14

美樹は、謝るのが嫌いだった。


夫と喧嘩をしても、最初に口を開くのはいつも夫だった。


「さっきの言い方、ごめん」


そう言われると、美樹は決まって答えた。


「私だって悪いと思ってるよ」


けれど、そのあとに必ず続く。


「でも、あなたがあんな言い方するからでしょ」


謝罪は、いつも「でも」で消えていく。


子どもに注意されても同じだ。


「ママ、約束してたよね」


そう言われれば、


「忘れてたんじゃない。忙しかっただけ」


「でも、私だって忙しいよ」


「親と子どもを一緒にするな」


美樹は、いつも自分の立場を守った。


自分だけが悪者になることが、耐えられなかった。


だから家族は、少しずつ何も言わなくなった。


夫が何かを頼むと、美樹は言った。


「私ばっかり家のことやってるんだから、それくらいやってよ」


夫が意見を言えば、


「じゃあ私が全部悪いってこと?」


子どもが相談すれば、


「お母さんだって大変なの」


いつしか家族は、美樹に相談しなくなった。


夫は自分の予定を自分で決めるようになった。


子どもは困ったことがあっても、友達や学校の先生に相談した。


美樹は、それを見て腹を立てた。


「最近の家族は冷たい」


そう思っていた。


ある日、娘が家を出ることになった。


荷物をまとめながら、娘が言った。


「お母さん、今までありがとう」


美樹は笑った。


「何よ、急に」


娘は少し黙ってから言った。


「お母さんに何を言っても、最後はお母さんが正しい話にしかならないから」


「たまには、お父さんの気持ちも大事にしてあげてね」


美樹の顔から笑顔が消えた。


「どういう意味?」


「私は離れることができるけど、お父さんは違うからね」


娘はそれ以上、何も言わなかった。


ドアが閉まった。


美樹は一人でリビングに座った。


夫は仕事でいなかった。


テレビだけがついていた。


その夜、夫が帰ってきた。


「今日、娘から連絡があった」


「何て?」


「しばらく一人で暮らしたいって」


美樹は鼻で笑った。


「もう大人なんだから好きにすればいいじゃない」


夫は黙っていた。


「何よ」


「……俺も同じだよ、もう何を言っても無駄だと思ってる」


美樹は夫を睨んだ。


「私が悪いって言いたいの?」


夫は首を横に振った。


「そういうところだ」


それだけ言って、夫は寝室へ行った。


美樹はリビングに残された。


腹が立った。


悔しかった。


みんなが自分を悪者にしている。


自分だって家族のために頑張ってきた。


誰よりも我慢してきた。


誰よりも苦労してきた。


そう思った。


けれど、その夜。


ふと気づいた。


家の中が、異様に静かだった。


昔は、夫の愚痴が聞こえた。


娘の笑い声がした。


誰かが「ママ」と呼んだ。


それが今はない。


美樹はiPhoneを手に取った。


夫にも、娘にも、連絡しようと思った。


けれど、何を書けばいいのかわからなかった。


「ごめん」


その三文字を入力した。


しばらく画面を見つめる。


そして消した。


代わりに、


「みんな勝手すぎる」


と打った。


けれど、それも送れなかった。


翌朝。


夫は黙って出勤していった。


娘からも連絡はなかった。


美樹は一人、朝食を作った。


三人分の癖が残っている食卓。


三つの椅子。


そのうち一つは、もう誰も座らない。


美樹はそこで初めて理解した。


自分の家族が、何度も何度も差し出してくれていた手を、


美樹は自分で振り払っていたのだ。


「私も悪かった」


そう呟いた。


けれど、誰も聞いていなかった。


家庭の中で一番寂しいのは、


誰もいない部屋にいることではなかった。


自分の間違いを認められないまま、誰にも何も言ってもらえなくなることだ。


そして美樹は、ようやく悟った。


謙虚さを失うということは、


自分を大きくすることではなかった。


自分の周りから、人を遠ざけていくことだと。

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