第52話『黒崎の最後の賭け』
EcoMartとの契約交渉準備が本格化してから一週間が経った。
柊の法律事務所では契約書の最終調整が進み、製造部では製造ライン増設の計画が固まりつつあった。
すべてが順調に見えた。
しかし、その日の午前、状況は急変した。
午前十時、本間常務が深刻な表情で副社長室に入ってきた。
「副社長、緊急の報告があります」
私は顔を上げる。
「どうしたんですか?」
本間常務はタブレットを差し出す。
「東和トレーディングから連絡がありました。取引条件の見直しを求めてきています」
私は驚く。
「東和トレーディングが? あの会社は、黒崎の圧力を退けて、当社との取引を続けてくれたはずです」
本間常務は頷く。
「はい。しかし、今回は別の理由のようです。『より有利な条件を提示する企業が現れた』とのことです」
私は唇を噛む。
「誰ですか? その企業は」
本間常務は慎重に答える。
「詳細は明かされていませんが、おそらく……黒崎氏が関与していると思われます」
私は立ち上がる。
「黒崎が……まだ諦めていなかったんですね」
本間常務は続ける。
「さらに、山本物産からも同様の連絡がありました。こちらも、取引条件の見直しを求めています」
私は深く息を吸う。
「すぐに父と柊さんを呼んでください。緊急会議を開きます」
三十分後、父、柊、本間常務が副社長室に集まった。
私は状況を説明する。
「東和トレーディングと山本物産から、取引条件の見直しを求められています。おそらく、黒崎が裏で動いています」
父が深刻な表情で言う。
「黒崎め……まだ諦めていなかったか」
柊が冷静に分析する。
「黒崎氏は、当社が国際展開で忙しい今を狙っているのでしょう。主要取引先を揺さぶり、当社の経営基盤を弱めようとしています」
私は窓の外を見つめる。
「黒崎は、『いつか戻ってくる』と言っていました。その時が来たということですね」
父が言う。
「莉央、どうする?」
私は振り返る。
「取引先を訪問します。東和トレーディングと山本物産、両方に直接会って、説得します」
柊が心配そうに言う。
「莉央さん、EcoMartとの契約交渉の準備もあります。大丈夫ですか?」
私は頷く。
「大丈夫です。仲間に任せることも覚えました。EcoMartの準備は柊さんと佐藤部長、田中部長に任せます。私は、取引先を守ります」
父は微笑む。
「わかった。莉央、お前に任せる」
午後二時、私は東和トレーディング本社を訪れた。
東和社長が応接室で待っていた。
「水瀬副社長、お忙しい中ありがとうございます」
私は一礼する。
「東和社長、お時間をいただき、ありがとうございます」
東和社長は少し申し訳なさそうな表情で言う。
「副社長、単刀直入に申し上げます。当社は、より有利な条件を提示する企業との取引を検討しています」
私は冷静に答える。
「東和社長、その企業というのは、黒崎氏が関与している企業ではありませんか?」
東和社長は少し驚く。
「……なぜ、それを?」
私は真剣な表情で言う。
「黒崎氏は、以前にも同じ手法で当社の取引先を揺さぶりました。しかし、結局は約束を守らず、多くの企業が損害を受けました」
東和社長は黙る。
私は続ける。
「東和社長、当社は十五年以上、御社と取引をしてきました。一度も約束を破ったことはありません。品質、納期、すべてを守ってきました」
東和社長は頷く。
「それは、認めています」
私は資料を差し出す。
「これをご覧ください。当社の新規事業は、ヨーロッパでも高い評価を受けています。EcoMartという大手小売チェーンとの契約も間近です。当社は、今後さらに成長します」
東和社長は資料を見る。
「EcoMart……それは大きいですね」
私は真剣に言う。
「東和社長、当社は長期的なパートナーシップを大切にします。短期的な利益ではなく、共に成長することを目指しています」
東和社長はしばらく考える。
そして、深く息を吐く。
「……わかりました、副社長。当社は、水瀬コーポレーションとの取引を継続します」
私は安堵の息を吐く。
「ありがとうございます、東和社長」
東和社長は微笑む。
「副社長、あなたの誠意が伝わりました。これからも、よろしくお願いします」
東和トレーディングを後にして、私はすぐに山本物産へ向かった。
山本社長が笑顔で迎えてくれる。
「水瀬副社長、わざわざお越しいただきありがとうございます」
私は一礼する。
「山本社長、お時間をいただき、ありがとうございます」
山本社長は席に着き、率直に言う。
「副社長、実は当社に、黒崎氏の関連企業から接触がありました」
私は頷く。
「存じています」
山本社長は続ける。
「彼らは、非常に有利な条件を提示してきました。正直、魅力的です」
私は山本社長を見つめる。
「山本社長、黒崎氏は以前、同じ手法で多くの企業を騙しました。最初は有利な条件を提示しますが、後で約束を破ります」
山本社長は頷く。
「それは聞いています」
私は資料を差し出す。
「山本社長、当社はベルリンの展示会で大きな成果を上げました。EcoMartとの契約も間近です。当社の製品は、世界中で認められています」
山本社長は資料を見る。
「素晴らしい成果ですね」
私は真剣に言う。
「山本社長、当社は山本物産様との関係を大切にしています。国内市場での展開も、山本物産様のおかげで成功しました。これからも、共に成長したいと考えています」
山本社長はしばらく考える。
そして、笑顔で言う。
「副社長、わかりました。山本物産は、水瀬コーポレーションとの取引を継続します」
私は深く一礼する。
「ありがとうございます、山本社長」
山本社長は立ち上がり、私の肩に手を置く。
「副社長、あなたは本当に立派なリーダーです。私は、あなたを信じています」
会社に戻ると、すぐに父に報告した。
「お父さん、東和トレーディングも山本物産も、取引継続を決めてくれました」
父は嬉しそうに微笑む。
「よくやった、莉央。お前の誠意が、相手に伝わったんだ」
私は少し疲れた表情で席に着く。
「でも、黒崎はまだ諦めていません。また何か仕掛けてくるかもしれません」
父は頷く。
「その通りだ。油断してはいけない」
そのとき、柊が部屋に入ってきた。
「莉央さん、お疲れ様です。取引先を守れたそうですね」
私は微笑む。
「はい、何とか」
柊は真剣な表情で言う。
「実は、重要な情報があります。黒崎氏が動いているのは、取引先だけではありません」
私は驚く。
「他にも?」
柊はタブレットを示す。
「黒崎氏は、当社の株式を再び買い集めています。現在、約三パーセントを保有しているようです」
私は唇を噛む。
「株主総会で敗北したのに、まだ諦めていないんですね」
柊は頷く。
「おそらく、彼は長期戦を覚悟しています。少しずつ株式を買い集め、再び影響力を持とうとしています」
父が言う。
「黒崎は、本当にしつこい男だ」
私は立ち上がる。
「わかりました。株式については、本間常務と相談して対策を立てます。黒崎には、二度と会社を揺さぶらせません」
柊が私の手を取る。
「莉央さん、一人で抱え込まないでください。僕たちがいます」
私は柊を見つめる。
「ありがとう、柊さん」
その夜、自宅で母と食事をしていた。
「莉央、今日も大変だったわね」
私はため息をつく。
「うん、黒崎がまた動き始めたの」
母は心配そうに言う。
「莉央、大丈夫?」
私は微笑む。
「大丈夫だよ、お母さん。今日は、取引先を守れたから」
母は私の手を握る。
「莉央、あなたは本当に強くなったわね。でも、無理はしないでね」
「うん、わかってる」
ベッドに横になり、天井を見つめる。
黒崎が、また動き始めた。
取引先への接触、株式の買い集め。
彼は、本当に諦めていない。
しかし、私も負けない。
これまでも、黒崎の攻撃を退けてきた。
今回も、必ず守り抜く。
会社を、従業員を、家族を、そして柊との未来を。
スマートフォンが振動する。
柊からのメッセージだ。
『今日も、お疲れ様でした。黒崎の動きは警戒が必要ですが、あなたなら大丈夫です。僕は、いつもあなたのそばにいます。愛しています』
私は微笑み、返信する。
『ありがとう、柊さん。あなたがいてくれるから、私は頑張れます。愛しています』
メッセージを送信し、私はスマートフォンを置く。
そして、祖母のペンダントを手に取る。
「おばあちゃん、黒崎がまた動き始めたよ。でも、私は負けない。みんなと一緒に、必ず守り抜くから」
ペンダントが、月明かりに輝く。
私は目を閉じ、深く眠りについた。
明日も、戦いは続く。
しかし、私には仲間がいる。
家族がいる。
柊がいる。
だから、私は負けない。
どんな困難も、必ず乗り越えるのだ。




