第1話
肺が、焼けつきそうだった。
呼吸をするたびに、マスクの内側が曇る。
「はっ、はっ、はっ、……くっ!」
レンは闇の中を走っていた。
足元はぬかるんだ泥と、正体不明の粘液で覆われている。
何度も足を滑らせ、そのたびに泥まみれになって這い上がり、また走った。
後ろを振り返ることはできない。
振り返れば、暗闇の奥から「それ」が迫ってきているのが見えてしまうからだ。
ピチャピチャと濡れた足音が、からかっているかの様に一定の距離を空けて追いかけてくる。
時折混じる、硬い爪がコンクリートを引っ掻くような、ガリッという不快な高音。
音は、離れることも近づくこともない。
(なんで、なんでだよ……)
涙と鼻水でマスクの中がぐしゃぐしゃだった。
通販で買った安物のナイフは、とうにどこかへ落としてしまった。
いや、あんなものがあったところで何の意味もない。
ダイキのような異能力がなければ、魔物相手に太刀打ちできるわけがない。
(みんな、死んだ)
あんなに自信満々だったダイキも、お調子者のカケルも、幸せそうだったタツヤとミホも。
全員、闇に飲まれた。
自分だけが、運良く――あるいは運悪く、生き残ってしまった。
逃げ場はない。
出口の方角が分からない。
いや、自分が今どこにいるのかさえ分かっていない。
レンは無我夢中に走り続けることしかできなかった。
恐怖で思考が焼き切れそうだ。
どうして、こんなところに来てしまったのか。
後悔だけが、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。
間違いの始まりは、昨晩。
まだ温かい料理と、馬鹿げた笑い声があった、あの場所だ。
思い出すと、胃の中から唐揚げとケーキが逆流してきそうになった。
一二月二四日、午後九時。
ゲートタウンの一角にある大衆居酒屋は、異様な熱気と騒音に包まれていた。
店内を彩るのは安っぽいツリーにモールと、割れた音質のクリスマスソング。
紫煙と湯気が混じり合う空気の中で、ジョッキがぶつかり合う音が響く。
「――っっしゃあ! 乾杯!!」
「メリークリスマース!!」
五つのジョッキが勢いよくぶつかり、黄金色の液体が飛沫を上げてテーブルに散った。
レンは、こぼれたビールを慌てておしぼりで拭きながら、苦笑いで口元を綻ばせた。
テーブルの上には、唐揚げの山、フライドポテト、脂の浮いたもつ鍋、そして今日だけ提供されているホールケーキが所狭しと並べられている。
「いやー、さすがダイキ! あの警備員に呼び止められた時はどうなるかと思ったぜ!」
お調子者のカケルが、メガジョッキを片手に身を乗り出す。
対面に座るリーダー格の男――ダイキは、まんざらでもない顔で鼻を鳴らした。
「あんなのチョロいって。R.I.N.G.S.(リングス)のダイバーならともかく、ゲートタウンの見回りなんて、俺らと同じ雇われのバイトだろ。適当に煙に巻けばいいんだよ」
ダイキは新品のアウトドアジャケットの襟を正し、自信たっぷりに胸を張る。
彼が眼前で右手を握りしめると、拳の周りの空気が僅かに歪んだ。
彼の身なりは、この吹き溜まりのような街にあって、小綺麗で「まとも」だった。
少なくとも、他の仲間達とは明らかに差がある
撥水加工の効いた真新しいブランド物のマウンテンパーカーに、頑丈そうなトレッキングブーツ。
対して、レンやカケルが身につけているのは、量販店のワゴンセールで買った毛玉だらけのフリースや、袖口の擦り切れた中古の作業着だ。
そのコントラストは、異能力を持つ者と持たざる者たちとの間に横たわる、残酷で明確なヒエラルキーを可視化していた。
彼らは「スクレイパー」と呼ばれる若者たちだ。
だが、ダイキはその呼び名を極端に嫌っていた。
「いいか、俺たちは「スクレイパー(削り取り機)」なんかじゃねえ。フリーランスの『ダイバー』だ。そこを履き違えんなよ?」
ダイキが唐揚げを頬張りながら力説する。
その言葉に、カケルとレンは曖昧に頷いた。
アビスの表層で資源を回収し、故買屋に流す非正規の探索者。
世間ではそれをスクレイパーと蔑むが、ダイキの目には違う景色が映っているらしい。
「俺の『衝撃』がありゃ、今は地表でくすぶってても、いずれデカいお宝を引き当てられる。そうすりゃ俺達は大金持ちだ。金があれば何でもできる。ゲートタウン(ここ)を出て、他の街で普通に暮らしたっていい」
ダイキが再度右手を握りしめるとまた、空気がブン、と低く唸った。
異能力。
アビスが生んだ奇跡であり、立身出世の切符。
レンにはそんな力はない。
だからこそ、この自信家のリーダーについていくことで、自分も何か特別な者になれるような気がしていた。
「キャー! すごいダイキくん!」
声を上げたのはミホだ。小柄で少し幼さの残る彼女は、隣に座る彼氏のタツヤにしがみついている。
タツヤは照れくさそうに頭を掻いた。
「ま、俺たちにはダイキがいるからな。正直、R.I.N.G.S.の中古装備なんてボッタクリ価格だし、俺らには俺らのやり方があるってことだ」
「そうそう! ほら、見ろよこれ!」
ダイキが足元の袋から、無骨な箱を取り出した。
中から出てきたのは、黒いゴムと強化プラスチックでできた産業用防毒マスクだ。
「おー! これネットで見た! フィルター性能がガチなやつ!」
「だろ? 正規品の半額以下で、性能は同等。賢い奴だけが勝てるんだよ」
ダイキはニヤリと笑うと、袋から更に百円ショップで買ったキラキラしたシールと、赤と緑のビニールテープを取り出した。
「でもよ、今日はクリスマスだぜ? このままじゃ地味すぎて映えねえだろ」
「あはは! 何それ、デコるの?」
「おうよ。全員分あるからな。おらレン、お前も貼れよ」
渡されたマスクと丸い、赤いシール。
レンは酔いの回った頭で、それを受け取った。
冷静な時なら、命を守る装備に余計な細工をするなんて馬鹿げていると思ったかもしれない。
だが、今のレンにあるのは「ノリ」を壊したくないという同調圧力だけだった。
「……じゃあ、俺は鼻を赤くしようかな」
「お、いいねえレン! センスある!」
レンがシールを貼ると、ドッと笑いが起きた。
ダイキは几帳面な手つきで、マスクのゴムバンドや留め具の周りに、剥がれないように何重にもテープを巻き付けていく。
『MERRY X'MAS』の文字が、黒いマスクを彩っていく。
それを見た周りのみんなも、徐々にエスカレートしていく。
自分のデコレーションこそが一番なのだと言わんばかりに、悪ノリが始まる。
「――よし、完成!」
ダイキがゴテゴテにデコレーションされたマスクを掲げた。
時計の針は、午後一〇時を回ろうとしていた。
普通の若者なら、ここでカラオケに行くか、ホテルへ向かう時間だ。
だが、彼らの血管には大量の安酒と功名心が流れていた。
「なあ、このあとどうする? 終電までカラオケ?」
「はあ? カケル、お前正気か?」
ダイキが挑発的に笑う。
「せっかく装備も揃ったんだ。……行こうぜ、アビス」
「えっ、今から?」
レンが素っ頓狂な声を上げた。
正気を疑うのはどっちなのだとレンは内心呆れた。
ただでさえ危険なのに、酔っ払ってアビスに行くなんて自殺行為に他ならない。
「俺達は普段、等活にしか行かねぇ。だけどな、今日は行っちまおうぜ! その奥によ!」
「マジ?」
「そこでこのマスク被って写真撮るんだよ。『聖夜のアビス攻略』……バズるぜ?」
バズる。成り上がる。特別になる。
その言葉の魔力に、若者たちの目が輝いた。
タツヤも、ミホを守るような仕草を見せつつ、顔は興奮で紅潮している。
「行こうぜレン。ちょっと入り口見るだけでいいからさ」
絶対に行くべきではない。普段なら、そう声を上げるところだ。
だが。
「……まあ、ダイキがいるなら」
レンは流された。
ここで「帰る」と言えば、この輪から弾き出される。それが怖かった。
それに、心のどこかで期待していたのだ。
退屈な日常を、ダイキという特別な存在が壊してくれることを。
「よし、決まりだ! 会計済ませて行くぞ!」
店を出ると、一二月の冷たい風が頬を刺した。
彼らは店先のロッカーに預けていた装備を、酔った手つきで身に着ける。
ダイキの腰には、軍規格のタクティカルナイフ。
対して、カケルが手に提げているのは赤錆の浮いたバールであり、タツヤの腰には園芸用の鉈がぶら下がっている。
レンがポケットの中で弄ぶのは、刃渡りの短い安物の折りたたみナイフ。
ミホに至っては手ぶらで、タツヤの腕へ上機嫌にしがみついている。
駅前の安全圏にあるこの店から、アビスへの入り口の一つがある「北側」へ向かうには、あの通りを抜けなければならない。
「メリークリスマスだ馬鹿野郎!!」
「バッカヤロウ!!」
「ギャハハハハ!」
彼らは、街の入り口にそびえる「赤いアーチ」をくぐった。
ネオン管の大半は死に絶え、明滅する『一』と『街』の文字だけが、かろうじてここがかつて繁栄地であったことを示している。
一行は千鳥足で、中途半端なネオンの海を北へ、北へと縦断していく。
見上げれば、ビルの屋上から突き出した「怪獣の頭」が、黒いシルエットとなって行く手を見下ろしている。
塗装は剥げ、目玉のライトもとうの昔に切れていた。
左右の壁を埋め尽くす女たちの顔写真も、進むにつれて徐々に減り、代わりにシャッターの降りたテナントが目立ち始める。
華やかな表通りから、街灯の少ない裏路地へ。
彼らは何の警戒をすることなく、日常の境界を踏み越えていた。
その先にあるのが、常に死と隣り合わせにある場所だと認識しているにもかかわらず。
自らを過信した、青二才達の笑い声だけが、夜の闇に吸い込まれていく。




