落とし物 最終話
ヌルリ、と重い抵抗を残して、片桐はリバーサーの喉元から短剣を引き抜いた。
開いた傷口からは、腐った黒い血がドボドボと溢れ出し、足元の廃油を覆っていく。
痙攣していた異形は、黒い廃油の沼に沈み、二度と動かなくなる。
駐車場には、油と泥に塗れた静寂が戻る。
片桐は短剣についた不浄な血を死体の衣服で乱暴に拭うと、先ほどの衝撃でひしゃげたミニバンの下を覗き込んだ。
暗がりの中、油にまみれて転がっている、小さなプラスチックの塊を拾い上げる。
指先ほどのサイズの、安っぽいプラスチック製のメモリーチップ。
これ一つのために、あの若者の仲間は命を落とすことになり、自分もまた、死にかけた
片桐はチップについた油を服で拭うと、作業着の胸ポケットにねじ込んだ。
これで依頼は完了だ。
ミシリ、と思い出したように頭が痛む。
薬の効果が切れるまでのカウントダウンは、常に耳元で時を刻んでいる。
長居はできない。
薬の数はもう底を尽きかけているのだ。
片桐は踵を返し、登ってきた非常階段へと向かった。
錆びついた鉄の階段を降りる足音が、カツ、カツ、カツと乾いた音を立てて虚しく響く。
(…年をとったな)
そう思わずにはいられない。
以前なら例え三体同時だとしても、リバーサー相手に攻撃を食らうことなどなかった。
判断能力も、反応速度も、体力も、明確に衰えてきている。
かつて諦めたものを、今からでは望んだとしても掴むことはできないだろう。
あの日の仲間達への落魄の悔いが拭いきれない。
階下へ降りるにつれ、視界に漂う薄紅色の超微細な粒子と、まとわりつくようなアビスの甘い芳香が濃くなっていく気がした。
階段を降りきり、薄暗いエントランス――巨大な吹き抜けのあるホールへと戻ってきた、その時だった。
かつて、徘徊者が降ってきてできた凹みのあるポイント。
突然、頭上の闇から影が落ちてきた。
片桐が身構えるよりも早く、その影はホールの中心に着地する。
ダアァァァン!!と派手な、制御しきれていない、何かが破裂したかのような着地音がエントランスに響く。
しかし骨が砕ける音も、肉が弾ける音もしない。
衝撃の吸収など気にも留めていないそのシルエットは、砂埃を払うようにしてスッと立ち上がった。
「片桐さん! 無事でしたか!」
場違いなほどに明るい声。
有坂律だった。
彼はまるで、近所の公園のジャングルジムから飛び降りたかのような気軽さで、片桐の方へと駆け寄ってくる。
「……有坂さん?」
片桐は呆気に取られた。
「君、あんなところから飛び降りて…」
無事なのかと聞こうとしたが、有坂には何の異常もなさそうだ。
「ええ。片桐さんが降りていくのが見えたんですけど、階段からだと追いつくのに時間がかかるので」
「……」
だからといって普通、飛び降りはしない。
「心配だったので、つい」
と屈託のない笑顔。
そこには彼なりの善意しかない。
片桐は呆れを通り越して、ため息をついた。
「日が変わるまでには戻ると言っておいただろ?」
いや、それよりも、と片桐は天井を見あげた。
高さにして十数メートル。
そんな高さから「普通の人間」は飛び降りはしない。
「……なるほどな」
片桐の視線が、有坂の脚へと落ちる。
高級そうなスラックスの下にある、その脚。
着地の衝撃で少し捲れ上がった裾から見えるその皮膚には傷ひとつない。
震えてすらいない。
「それがお前の、異能力か」
「そうです! 実は僕、脚だけは頑丈なんです」
有坂は悪びれもせず、自身の太腿をパンパンと叩いた。
『脚力強化』
身体強化系の異能力。
シンプルではあるが、応用力は高い。
かつての調律者時代の片桐であれば、アビス攻略のパーティーに勧誘したいと思えるほどの能力だ。
であれば、納得がいく。
有坂が、この魑魅魍魎が跋扈する表層「等活」を、武器も持たずに五体満足で抜けられた理由が。
(……だが)
片桐は短剣を鞘に納め、肩をすくめた。
(やはり少し、世間知らずだな)
ここは東京アビス。
自分の異能力(手札)は、生死を分ける最後の切り札。
それを、助けた相手にとはいえ、こうもあっさりと晒すとは。
警戒心が薄いのか、それとも人を疑うことを知らないのか。
(そういえば、信じる、なんてことを口にするような男だったな)
まあいい、と片桐は頭を掻いて親指で出口を示す。
「……帰るぞ」
「あ、はい! でも、あんな恐ろしい魔物を怪我一つなく倒せるなんてさすがですね!」
「……今日は、ついてたのさ」
片桐は有坂にバレないようにさりげなく作業着の破れた部分を手で隠した。
二人はエントランスを抜け、スパインタワーの外へと出ると、タワーの根元にあたる瓦礫の山を迂回した。
徐々に、片桐の視界は赤く染まり始めていた。
耳鳴りが、遠くのサイレンのように頭蓋骨の中で反響し、口の中には鉄の味が薄く広がり始めていた。
(……効果が短くなっているな)
脂汗を拭いながらタブレットケースから錠剤をまた一つ、噛み砕く。
そんな片桐の前を歩く有坂が、突然「うっ」と声を詰まらせて足を止めた。
二人の行く手、崩れた建物の外壁にへばりつくようにして、黒い炭の塊が転がっていた。
それはかつて人間だったモノだ。
周囲には、鼻をつく化学薬品の焦げた臭いと、脂の腐ったような悪臭が立ち込めている。
「……駄目、だったか」
片桐がポツリと呟く。
「え? お知り合いですか?」
面影はないが、その黒い塊は間違いなくあの時の燃焼系スクレイパーだろう。
「いや、たまたま会って話をしただけだ」
片桐は屈み、死体の胸元――肋骨が外側に飛び出している部分――を指した。
そこには、炭化した魔物の残骸が、恋人のようにしっかりと抱きついたまま癒着していた。
「彼は可燃性の粘液を生成する異能力を持っていた。それを使って魔物を燃やしたまではよかったんだが……」
片桐は平坦に続ける。
「最後の最後で、魔物に掴まったんだろう。燃え盛る敵に密着されればどうなるか」
彼は焦り、慌て、意識的にか無意識的にか、己の異能力に振り回されてしまった。
結果としてそれは、燃料の入ったタンクに火のついた松明を放り込むようなものだっただろう。
不幸中の幸いだったのは、内側から爆発的に焼き尽くされたことで、彼は少しの苦しみだけで逝くことができたということだ。
「彼は自分の武器で、自分を殺す羽目になってしまった」
「……」
有坂は青ざめた顔で、口元を押さえている。
彼は今、想像すらできていなかった日常的な死を目の当たりにし、言葉を失っている。
「いいかい、有坂さん」
片桐は僅かに疼く頭痛に耐えながら、釘を刺す。
「強力な異能力は、使い方を誤れば自分自身を殺す。……君のその『脚』も、それは変わらない」
それだけ言うと、片桐は焼死体を漁り出す。
「……」
片桐は無言で、癒着した魔物の残骸を引き剥がした。
焼けた肉と布の裂ける嫌な音がしたが、片桐の手は止まらない。
「ちょ…片桐さん、それは」
目の前の死体漁りの行為に慌てた有坂は、片桐の肩を掴むが、片桐の体幹はびくともしない。
「勘違いしないでくれ」
片桐が炭化した焼死体の奥から引っ張り出したのは、二つ折りの財布だった。
熱で革が溶け、ひどく変形している。
片桐はそれを開き、中から一枚のカードを引き抜いた。
それは、運転免許証だった。
表面は煤けており、半分ほど溶けていたが、幸い顔写真と、住所の半分は読み取れた。
『東京都練馬区……』
とうの昔に放棄された区画だ。
更新日はずっと以前で止まっている。
それでも、これは彼が何者なのか知ることができる、唯一の証明書。
ゲートタウンに堕ちたまま、何者かになろうとして、結局は何者にもなれずに燃え尽きた男の、最後の声。
「……」
片桐は免許証を自分の胸ポケットにしまうと、空になった財布を死体の懐に戻し、丁寧に胸元の服を合わせた。
「彼を帰してあげることはできないが、これなら返してやれる」
「……え?」
「遺族か、あるいは彼を知っている誰かが、あの街のどこかにいるはずだ」
行こう、とまだ合点に行っていない有坂を尻目に、片桐はゲートタウンへと歩き出したのだった。
ゲートタウンの入り口、薄暗い路地の片隅に、その男は立っていた。
「留守にするなら前もって教えておいてほしかったな」
それは六條だった。
「お前がこんなに早く来てくれるとは、思ってなかったからな」
壁に背を預け、腕を組んで待っていた彼は、戻ってきた二人を見て片方の眉を持ち上げた。
「『迷子』だけなら、俺だって急ぎはしないさ」
そして片桐の顔色と、微かに震えている手を見る。
「……」
六條は無言でポケットから何かを取り出すと、放物線を描いて片桐へと放った。
小さなビニール袋に入った、白い、小さな錠剤だ。
片桐はそれを空中で掴み取ると、一つだけ取り出し、残りは無造作にポケットへとしまう。
ガリリッ。
奥歯で噛み砕く音。
強烈な苦味と共に、化学的な冷たさが脳髄に広がり、沸騰しそうだった神経を強制的に冷却していく。
数秒の沈黙の後、片桐は深く、重い息を吐き出した。
「……助かった」
少し楽になった片桐と対照的に、六條は顔をしかめる。
「前より酷くなってるんじゃないのか?」
だが片桐は曖昧に首を横に振る。
「その薬がどういうものなのか、お前自身が一番よく分かっているはずだ」
六條の剣幕に押され、有坂は少し後ろへ下がる。
「あまり怖い顔をするなよ。ほら、お前に頼んだ迷子が逃げちまう」
片桐が話を逸らそうとしているのは明白だった。
そんな片桐に、六條はこれ以上何を言っても無駄だと思ったのだろう。
「金はまた、後日でいい。そこのお前、ほら、行くぞ」
六條は短く告げると、有坂の方へ顎をしゃくった。
「え、あ、あの、片桐さん……?」
片桐がデータチップを有坂に返す。
六條は有無を言わせぬ圧力で、状況が理解できていない有坂の背中を押し、ゲートタウンの外へと連れていく。
「六條」
片桐の呼びかけに、六條が一瞬だけ足を止めた。
「彼のこと、くれぐれも、頼むぞ」
六條はズカズカと歩き、有坂は今がどういうことなのか理解していない、そんな顔をしながらついて行ったのだった。
路地裏の雑踏を抜け、暖簾をくぐる。
定食屋『徳田』。
店内に充満するラードと醤油の焦げた匂いが、片桐の荒んだ神経を、現世へと引き戻す。
「はい、いらっしゃい。……おや」
カウンターの奥で中華鍋を振っていた店主の徳田――通称トクさんが、片桐の顔を見て手を止めた。
人の良さが顔のシワに滲み出ているような、初老の男だ。
「また随分と酷い顔をしてるな、宗介くん。アビスの底で幽霊でも見てきたのかい?」
ニカッという表現がよく似合う笑い方。
「……似たようなものですよ」
片桐はいつもの席に重い腰を下ろした。
薬で痛みは散らしているが、体は鉛のように重い。
「いつもの、生姜焼きでいいかい?」
「……お願いします」
「あいよ。精のつくもん食って、今日はさっさと寝るこった」
ジュワッ、と肉が焼ける威勢のいい音が響く。
トクさんは手際よく皿を並べながら、小鉢を一品、無言で追加した。
「サービスだよ。最近、変なのがまた増えてきてるらしいから、宗介くんも気をつけて」
それは、何の裏もない純粋な気遣い。
温かい湯気と、カチャカチャと食器が触れ合う音。
片桐は割り箸を割りながら、ふと息をつく。
ここにあるのは、アビスの甘い香りでも、死体の焦げた臭いでもない。
ありふれた、日常の匂いだ。
「……いただきます」
片桐は小鉢の煮物に箸を伸ばした。
その味は、どこにでもある何の特色もない味だ。
だがそれこそが、このゲートタウンで手に入る最高の宝物であることを、片桐は知っているのだった。




