第4話
バキッ…バキバキッ……
車の下から這い出た異形が、関節を鳴らして起き上がる。
肥大した両腕のみで体を支えた逆立ちの体勢で、片足は根元から失われ、残された一本足を背中側へ大きく反らせた『サソリ』のような姿。
残された足は脛から先が腐り落ち、断面が鋭利な鉄骨と融合して、それはまるで頭上から獲物を狙う巨大な「尾」と化していた。
次に現れた反転者は、両足の先端を一つの巨大なコンクリート塊と癒着させており、その様はまるで重量級の『ハンマー』のようだ。
更に右からは、足に何も癒着していない、細身の『軽装』タイプが迫ってきていた。
片桐は短剣を逆手に持ち直し、深く腰を落とす。
(……左と正面は明らかに危険な魔物だが…右は――)
片桐の視線が、一瞬だけ右の個体で止まる。
他の二体と違い、そいつの両足には鉄骨も瓦礫も融合していない。
しかしあれは骨が砕けているからだろうか、ブラリと無様に伸びただけの、貧弱な枯れ木のような足が二本、柳のように揺れている。
(……武器を持たないのなら、後回しでもいいだろう)
三体のうち一体はまだ様子を見る猶予がある。
その判断を下した直後、『軽装タイプ』が奇妙な動きを見せた。
逆立ちの姿勢のまま、左右の手を交互に地面につき、重心をゆらり、ゆらりと左右へ移している。
それに合わせて、伸び切った頭上の二本の足がゆらりゆらりと振られている。
それは威嚇ではなかった。
明確な、リズムだった。
人間でいえばステップにあたるであろうその動作は、南米の格闘技、カポエィラの「ジンガ」に酷似していた。
頭は下に、足は上に。
重力に逆らう不気味な舞踏。
(……あの動きは)
つまり、すでに臨戦態勢を取っているという証だ。
思考する間もなく、左側の『ハンマータイプ』が動いた。
「ヒュゥ」
漏れる空気音と共に『ハンマータイプ』は丸太のような腕を深く曲げ、地面にキスするほど沈み込んだ。
次の瞬間、背骨のバネを弾けさせて跳躍すると、頭上に掲げた塊を片桐目掛けて思い切り振り下ろした。
大砲の弾が着弾したかのような迫力。
アスファルトが砕け、着弾の反動で『ハンマータイプ』の体が再度宙高く跳ね上がる。
その様は、例えるならば『跳ね回る砲弾』であった。
『ハンマータイプ』は空中で縦回転を加え、遠心力の乗った踵落としで、頭上から片桐を叩き潰しにかかる。
着弾後、すぐさま次の攻撃へと変化させる、連続式の力技。
片桐は泥を蹴り、スロープの柱の裏へと滑り込む。
だが、息つく暇はない。
ヒュルッ、と不快な風切り音が耳元を掠めた。
右手の『軽装タイプ』だ。
柱の陰に隠れた片桐に対し、奴は直線的な攻撃を選択しなかった。
枯れ木のように見えたその足の一本が鞭のようにしなり、空中でさらに射程を伸ばすと蛇のように軌道を変えたのだ。
コンクリートの柱をぐるりと巻き込み、その裏側にいる片桐の首へと刃(爪先)が迫る。
「……ッ!」
片桐は上体を反らし、鼻先数センチで爪先を躱す。
動作に反した速度と、ありえない攻撃軌道。
このままでは、遮蔽物すら意味を成さない。
片桐は柱を蹴り、あえて開けた場所――『サソリタイプ』の正面へと飛び出した。
「ヒュゥ」
好機と見た『サソリタイプ』が、鉄筋の尾を突き出す。
同時に、頭上からは旋回している『ハンマータイプ』が地面に影を落とす。
前方からの刺突と、上方からの圧殺。
逃げ場のない挟撃。
だが、それは片桐にとって好機だった。
片桐は『サソリタイプ』の刺突に対し、限界まで引きつけてから、泥の上を滑るように股下(頭下)へスライディングする。
直後、頭上を鉄筋が通過する。
その切っ先が向かう先は――片桐がいた場所に落下してくる『ハンマータイプ』の横腹だった。
対して、重力に従って落ちる質量の暴力は、空中で止まることなどできはしない。
強烈な音が響く。
「……ッ!?」
声帯を持たない魔物たちが、硬質な音を立てて激突していた。
『サソリタイプ』の槍が落下してきた『ハンマー』の腹を貫いている。
そして片桐は『サソリタイプ』の股下(頭下)を通りざま、赤黒い脈打つ配線へと短剣を突き立てた。
異なるベクトルの殺意が交錯し、二体の反転者はそのまま瓦礫の一部となった。
(…残るは一匹)
轟音を背に、片桐は残る『軽装タイプ』へと向き直る。
身体には、先程までの「重量級」に対する回避のリズムが染み付いてしまっていた。
重く、遅い攻撃を見切るためのタメ。
それが、コンマ一秒の遅れを生んだ。
「ヒュゥ」
『軽装タイプ』の動きは、あまりにも軽やかで、しなやかだった。
片桐が振り向いた瞬間、鞭のようにしなる揃えた二本の足が、既に目の前まで迫っていたのだ。
(――速いッ!)
思考が追いつかない。
回避することは間に合いそうにない。
死を予感させる風圧。
(仕方ないっ!)
片桐は反射的に、奥歯が砕けるほどの力で食いしばった。
片桐の体が、とてつもない速度で吹っ飛ぶ。
「ぐッ……!?」
襲ってきたのは、生身の人間ならば胴体が切断されてもおかしくないほどの衝撃。
片桐の身体は衝撃の直後、サッカーボールのように吹き飛ばされ、ミニバンの側面に叩きつけられた。
ガラスが砕け散り、ドアがひしゃげ、その衝撃でボンネットが開く。
舞い上がる埃と乾いた泥。
「……ゲホッ、カハッ……」
片桐は横腹を押さえ、苦しげに咳き込みながら、ゆらりと膝をついた。
作業着の腹部は裂け、下の皮膚がわずかに捲れている。
だがしかし――それだけだ。
あれだけの質量が直撃して、片桐は今、肋骨の一本も折れていない。
しかし。
(……クソッ)
油断してしまった。
もらうべきではない一撃をもらってしまった。
だからこの後…。
(ツケが、来る)
直後、片桐の顔が苦悶に歪む。
死ぬことにも等しい痛みが襲う。
蹴られた腹に、ではない。頭だ。
「頭が割れる痛み」が走る。
何の前触れもない、発作のような激痛。
(これは……相変わらず、気が狂いそうになるな)
片桐は脂汗を流しながら、震える手でポケットから錆びたタブレットケースを取り出した。
中身は残り少ない。
その一粒――市販の鎮痛剤とは違う、特別な白い錠剤を、泥まみれの手で口へと放り込む。
ガリリッ!!
痛みへの苛立ちをぶつけるように、必死で奥歯で噛み砕く。
広がる強烈な化学薬品の苦味。
荒い呼吸を繰り返し、無理やり神経を鎮める。
「……ふぅ、ふぅ、ふぅ」
口の中に溢れる血の匂いが嫌で、地面に向かって唾を吐く。
だがその唾はただの透明だった。
「…ッ!」
目の前では、仕留め損なったと思った『軽装タイプ』が、追撃のためにリズムを取り始めている。
「ふぅ!」
片桐は勢いよく、短く息を吐く。
常に冷静でいなければならない。
それはこれまでの経験の中で得た、間違いのない鉄則。
薬で痛みをねじ伏せた片桐の瞳にはもう、焦りはなかった。
逡巡の後、自らが叩きつけられ、ひしゃげたミニバンへと視線を走らせる。
破損したボンネットの隙間からは、鼻をつく臭気が漂っていた。
衝突の衝撃で内部が破損したのだろう。エンジンの隙間から、ドス黒いホースが血管のように垂れ下がっている。
片桐は短剣を逆手に持ち、迷わずそのゴムホースを断ち切った。
ブシュッ!!
切断面から汚れた廃油が勢いよく噴き出し、瞬く間に泥の上に広がり、片桐と『軽装タイプ』の間を分断する「黒い沼」を作り出した。
「…………」
『軽装タイプ』には、その液体の意味が理解できていないだろう。
獲物が隙を見せたと判断し、再びあの不気味なステップ――「ジンガ」を踏みながら距離を詰めだした。
右、左、そして大きく踏み込んで跳躍――しようとした、その瞬間だった。
反転者の手が、滑る。
泥とオイルが混じり合った最悪の路面が、怪物の軸手を裏切った。
摩擦係数はゼロ。
踏ん張るはずだった手は虚しく滑り、「軽装タイプ」の反転者は無様に開脚して転倒した。
「…ヒュ…ヒュ」
圧迫された肺から、空気が漏れる、情けない音だけが響く。
鞭のようにしなるはずだった二本の足が、今はただの制御不能な棒となって宙を掻く。
その姿は、陸に打ち上げられた魚のように滑稽だった。
片桐は無言のまま、その黒い沼の縁を回る。
『軽装タイプ』が起き上がろうと藻掻けば藻掻くほど、オイルにまみれた手足は空転し、深みにハマっていく。
もう、回避行動も防御も取れない。
ただ藻掻くだけで、ガラ空きになった胴体。
片桐はオイルで汚れることも厭わず、その懐へと踏み込み、喉元で脈打つ赤黒い配線の束へ短剣を突き入れた。
直後、軽い痙攣のあと、反転者はそれまでの軽やかな動きとは一変して、彫像のようにかたまった。
そしてその死骸が黒い粘液の中に沈むと、駐車場に本来の静寂が戻った。




