第3話
金木犀のような甘い芳香が、鼻腔をくすぐる。
その香りは瓦礫の山を越えるたびに濃くなっていく。
このところ、アビスからの超微細粒子の噴出量が増えている証拠だ。
崩落した高速道路の高架下を抜け、かつての商業区画へと足を踏み入れると、ふいに空気の質が変わった。
甘美な香りの奥に、どろりとした死の気配が混じり始めたのだ。
片桐は巨大な墓標の足元に辿り着いた。
『スパイン・タワー』。
かつては世界的ブランドやシネマコンプレックス、上層には高級レジデンスを擁し、富の象徴として白亜を誇った複合商業ビル。
今やその外壁は酸性雨と煤でドス黒く変色し、所々が剥落して鉄筋の肋骨を晒している。
極彩色の広告パネルは炭化した枠組みだけを残し、かつての繁栄を虚しく主張していた。
それは、巨大生物の死骸が風化していく様に酷似していた。
こじ開けられた形跡のある自動ドアをくぐると、ひんやりとした死気が肌を撫でた。
カビと、乾いた小動物の糞と、古びたコンクリートの粉塵。
外の甘い香りとは違う、澱んだ地下室のような臭いだ。
エントランスの中央、うっすら積もった埃がそこだけ爆心地のように円状に吹き飛ばされ、床タイルが蜘蛛の巣状に砕けている。
見上げれば、遥か頭上の闇から微かな風が吹き下ろしている。
(崩れた穴から……何かが、落ちてきたな)
落下地点から、粘液を引きずった痕跡が奥のショーウィンドウへと続いていた。
まだ、新しい。
片桐は腰の短剣に手を掛け、足音を殺して痕跡を追った。
割れたショーウィンドウから投げ出されたマネキン達が、泥と埃にまみれて散乱している。
手足をあらぬ方向へ曲げ、のっぺりとした顔で天井を見上げる姿は、一瞬、本物の死体の山かと見紛うほどに生々しい。
片桐はその「偽物の死」を冷ややかに見下ろす。
落下した「何か」は間違いなくこの中に紛れ込んでいる。
(……面倒な相手じゃなければいいが)
その時、マネキンの一体が不自然に痙攣した。
「……ヒュ……ゥ……」
声ではない。動いた弾みに腐敗した肺が圧迫され、空気が漏れた音だ。
やはり、偽物に紛れて本物がいた。
半ば溶けたような皮膚の顔面。
豊満なその胸元には、肉に埋没しかけた貴金属が鈍く光っている。
『徘徊者』。
そいつは片桐の生体反応を感知し、鈍重な動作で瓦礫の中から上半身を起こそうとした。
だが、片桐は既に間合いに入っていた。
呼吸一つ乱さず、流れるような動作で腰の短剣を抜く。
駆け寄ることも、大きく振りかぶることもしない。
ただ、近くに寄り、トン、と切っ先を「置く」ように突き出した。
肉を叩く音ですらない。
硬質なものを軽くノックするような音。
切っ先は正確無比に、第三頸椎と第四頸椎の隙間――神経伝達の要所へと吸い込まれた。
瞬時に接続を断たれた徘徊者は、無言のまま、糸が切れた操り人形のように崩れ落ちた。
ヌルリと粘液の糸を引き、短剣が抜ける。
完全に沈黙した骸の横に座り、片桐は慣れた手付きで短剣をその胸元へ走らせた。
筋肉繊維に絡みついていたのは、プラチナのネックレスと、今もくすむことのないダイヤモンドの指輪。
(……ついてるな)
片桐はそれを毟り取り、布で汚れを拭ってポケットに入れた。
上層の高級レジデンス区画は、ルート崩落により未だ手付かずの「未開拓地帯」だ。
おそらくこいつは、そこから長い時間をかけて落ちてきたのだろう。
(何年かけた? 五年か、十年か。それとも…)
光のない非常階段を、誰もいない回廊を、死してなお彷徨い続け、重力に従って少しずつ下層へと降りてくる。
あるいは、足を踏み外して何階層もの高さを一気に転落してきたのかもしれない。
人間が関知しない闇の中で、死者たちは今も蠢き、移動を続けている。
想像すると、背筋に冷たいものが走るような感覚があった。
(……どちらも報われない話だ)
あのスクレイパーの青年は命を削り、炎を撒き散らして「ゴミ」を手にした。
対して自分は、ただ運よく「アタリ」を拾った。
努力と報酬が比例しない。
それがアビスのルールであり、真実だ。
(とはいえこれは、素直に有難い)
片桐は立ち上がり、周囲を警戒する。
再び訪れた静寂。
だがそれは平和ではない。
捕食者が獲物を待つ、張り詰めた沈黙だ。
非常階段を使い、三階の立体駐車場へ。
錆びついた蝶番を鳴らさぬよう慎重に防火扉を開けると、広大なコンクリートの空間が広がっていた。
数百台は収容できるフロアに、放置された車両が墓石のように並んでいる。
亀裂や配管から雨水が滲み出し、床一面には長い時間をかけて堆積した泥の層が広がっていた。
充満するのは泥とカビの臭いだけではない。
鼻の奥を刺す、強烈な酸化した鉄の臭気。
古びた血の匂いだ。
駐車場の両端では螺旋状のスロープが上階と下階を繋ぎ、まるで竜巻のように下の入り口から屋上駐車場まで続いている。
照明は全て落ち、壁の隙間から差し込むわずかな自然光だけが、湿った泥を鈍く照らし出していた。
片桐は懐中電灯を取り出すことはしなかった。
こうした閉鎖空間において、暗闇で光源を晒すのは自殺行為だ。
暗順応した目で、薄闇の中に浮かび上がる地面の違和感を探す。
C-4ブロック付近。
堆積した泥の上に、乱れた痕跡があった。
泥に足を取られ、滑ったような新しい足跡。
(……これが彼のものだとして、起点はどこだ?)
片桐は有坂のものであろう足跡を逆に辿る。
彼が嘘をついているとは思えないが、この場所に来た「ゲートタウンを見渡す為」という理由の真偽は確かめておきたかった。
痕跡は、大きく崩落したスロープの下で唐突に始まっていた。
見上げれば、頭上四メートルほどの高さに上層スロープの断面が見える。
梯子も足場もない。
普通の人間ならば、絶対に到達不可能な高さだ。
(どうやってあそこまで登った? そして、どうやってこの高さを生身で飛び降りた?)
着地点の泥は深く窪んでいるが、転がって衝撃を殺した形跡はない。
足裏だけで着地し、そのまま全力疾走に移っている。
(……どうやらただのエリートってわけじゃなさそうだな)
片桐は小さく目を細めた。
だが、今はここまでだ。
考察している時間はない。
有坂は着地直後、何かを見てパニックになり逃げている。
痕跡はスロープ脇に停められた白いミニバンの前へと続き、その車体の下へ潜り込んだ跡で終わっていた。
片桐は音もなく膝をつき、ミニバンの下を覗き込んだ。
タイヤの陰、シャーシから剥がれ落ちた赤錆の吹き溜まりの中に、それはあった。
親指ほどの大きさの、黒い樹脂製メモリーチップ。
片桐は手を伸ばす。
あと数センチで指が届く距離。
その時。
チップの奥にある暗がりで、何かが濡れた光を放った。
それは、二つの目だった。
地面すれすれの位置。
なにか、おかしい。
その二つの目の持ち主は額が下にあり、顎が上にある。
逆さまになった顔。
白濁した眼球が、眼窩から零れ落ちそうなほどギョロリと上方向――構造的には下顔面の顎の方へ限界まで回転し、片桐を睨みつけていた。
直後、首がぐるりと回転した。
下顎が重力に従ってダラリと垂れ下がり、裂けた口から粘ついた液体が糸を引く。
バキ、バキバキ……
本来鳴ってはならない場所から、骨が砕けるような音が反響する。
(――ッ!)
背筋が粟立つ。
反射的に泥を蹴り、後方へと身を弾いた。
車の下の生き物が泥の上を動く、湿った音。
続けて、ガリガリと硬質な何かが車体の底を擦る不快な音が響く。
片桐が離れたのと同時に、ミニバンの下から肉と無機物が融合した塊が這い出してきた。
かつて警備員だったのか、朽ちた紺色の制服が皮膚にへばりついている。
その在り方は、完全に人間を辞めていた。
異常に肥大化した両腕をぬかるんだ地面につき、バキバキと背骨を軋ませながら身体を持ち上げる。
逆立ちの姿勢。
片足を失った脚部は関節がありえない角度まで曲がり、背中側へと海老反りに折れ曲がって、自身の頭上を越え、切っ先を前方へ向けている。
その足首から先は肉が削げ落ち、赤錆びた鉄骨の破片と癒着して「槍」となっていた。
極限まで背屈した背骨は「C」の字を描き、喉元にはうねるような黒い血管束が浮き上がっている。
その異様なシルエットは、まるで毒針を構えた蠍そのものだった。
『反転者』。
脚部の欠損や複雑骨折により、歩くことができなくなった者たちが、それでも移動への執着を捨てきれず、肉体を造り変えた成れの果てである。
片桐が着地し、短剣を抜いたのと同時だった。
背後の暗闇から、バキ、バキ、と新たな異質音が聞こえ始めた。
一匹ではない。
遠くの車の陰から、柱の影から、同様に逆立ちをした異形が二体、びちゃびちゃと泥の中を這い寄ってくる。
合わせて三体。
片桐は完全に、包囲されていた。




