第2話
ゲートタウンを一歩出ると、空気が変わる。
湿度は飽和状態に近く、喉の奥に微細な鉄粉とカビの味がへばりつき、風には腐敗臭と焦げ付いた回路のオゾン臭が混じる。
片桐は軽く空気を吸い込み、この場所が非日常であることを再認識する。
東京アビス第一階層、『等活』。
崩壊した雑居ビル群はツタに覆われ、ひび割れたアスファルトは雑草と瓦礫の迷路になっている。
片桐は足元の地盤を選びながら、無駄な音を立てずに進む。
ここからは「異能力者達」の領域だ。
本来無能力者が足を踏み入れるような場所ではない。
それはつまり、自殺に等しい。
腰の短剣の柄に指を這わせ、いつでも抜ける態勢を維持しながら耳を澄まし、目を凝らし、片桐は慎重に歩を進める。
ふと、前方でボワッ、と空気が膨張する音がした。
片桐の足が止まる。
(今のは……燃焼音。近いな)
風に乗った揮発性のオイル臭と共に、二つ先のビルの陰で赤黒い炎が揺らめくのが見えた。
誰かが、もしくは何かが、戦っている。
片桐は更に警戒心を強め、音を消しながら進んでいった。
「燃えろ! 燃えろぉぉ! クソが!死ねよ!………あークソっ!……全然止まらねぇ!」
若く、昂った、しかし悲鳴に近い男の怒声。
瓦礫の陰から覗くと、一人の若いスクレイパーが、魔物相手にオイルを撒き散らしていた。
片桐は目を細め、その戦い方を観察する。
男の左腕は肘から先が黒く濡れそぼり、指先からは粘液が滴り落ちている。
右手には、ありふれたトーチランプ。
ホームセンターのワゴンセールで売られていたような安っぽい赤色のボディは傷だらけで、持ち手は滑り止めの黒いビニールテープで乱雑に補強されている。
ノズルの先端は度重なる酷使で煤け、熱で変形していた。
(……自前の燃料を、道具で着火しているのか)
見たところ、男はアビスの影響で体液を可燃性オイルに変質させる「異能力者」だ。
だが、発火能力まではないらしい。
だから自分の皮膚から分泌させた燃料をぶちまけながら、手元のトーチランプで強引に引火させているのだ。
(賢いやり方、とは言えないな)
男はその代償として、作業着の袖を焦げつかせ、オイルの毒性により皮膚をただれさせているが、本人は興奮からか気にもしていない。
(あれじゃあ身体がもたない。それに、あんなに派手に動き回っては、風向き一つで自分が燃える)
次に片桐は視線を敵へと移す。
雑多な無機物と人の死体が癒着した魔物、『徘徊者』。
動きは遅く、物理攻撃にも熱にも弱い。
いわゆる、走ることのない「旧時代のゾンビ」のような存在だ。
その為、男の攻撃手段は非常に有効であった。
しかし、制御不能な燃料散布と、運頼みの着火。
(……勢いに任せすぎてるな)
片桐の思考が、男の状況と重なりシミュレートを開始する。
半ば崩れ落ちた個体の断面からは、酷く錆びついた鉄筋と、それに絡みつく乾いた筋肉繊維が覗いている。
自分ならばその僅かな隙間に刃物を立てて容易くバラすことができるだろう。
(しかしバラしたところで、だな)
本来魔物は人間の死体と無機物の混ざり合った存在であるため、その体内に貴重品を持つものもいる。
しかし目の前の徘徊者が巻き込んでいるのはくず鉄とコンクリート程度しか確認できない。
どう見ても、「ハズレ」の個体だった。
それにもしも運良く体内の深層にレアメタルや宝飾品が混ざっていたとしても、あの火力で焼き続ければ価値のないゴミを生産するだけだ。
加えて、あのオイル臭と黒煙は、周囲の魔物を呼び寄せる狼煙になってしまう。
(……さっきの彼といい、今の若者の基準はどうなってる)
作業台に財布の中身をすべてぶち撒け、「正義のためなら何でもする」と意気込んだ有坂律の顔がよぎった。
場違いなスーツを着込み、理想のために命を燃やすエリート。
一方目の前のスクレイパーは、不確定な未来のために寿命を燃やしている。
二人のベクトルは真逆だが、どちらも「コスト感覚」が狂っている点では同じだ。
アビスにおいて、その狂いは死に直結する。
(コスパ、なんて言葉も流行ってたはずなんだけどな)
「寄ってくんな! いい加減に死ねよ!!」
若者はパニック気味に後退しながら、すでに死んでいる者にさらに「死ね」と言いながら最後の一撃を放った。
トーチランプが火を噴き出し、黒い液体に引火する。
ドロリとした炎がワンダラーを包み込み、怪物はついに崩れ落ちた。
「はぁ……はぁ……クソ、やっとかよ……」
若者は肩で息をし、乱暴に額の汗を拭った。
手についた黒い油が、顔を汚す。
彼の装備は見るからに安物だった。
ツギハギだらけの防護服に、索敵用の型落ち集音機。
胸元には、『Raizen Lease』のタグ。
(装備は借り物。精神的にも余裕がない。このままでは危ういな)
片桐は分析を終える。
アビスの深淵に潜れず、表層の利益をこそぎ落とすだけの削り取り器。
彼らは企業に高いレンタル料を払わされ、一発逆転の「当たり」を求めて命さえも削っている。
本来ならば、関わる必要はない。
特に今のように依頼の最中なのであれば、尚更。
しかし。
「……クソ。全部溶けちまってんじゃねえか」
焦燥の混じった独り言。
彼が徘徊者から穿り出した唯一の金属片は、高熱で変形し、ススにまみれていた。
「これじゃ高く売れねぇ……もう、終わりだよ……」
その丸まった背中を見て、片桐は眉を寄せた。
知識も経験もないまま異能力だけを頼りに突っ走り、リターンよりもコストを重ね、焦ってさらに深みにはまる。
そんな若者を、片桐はどうしても見捨てる気にはなれなかった。
アビスが最も好んで飲み込むのは、こういった手合いなのだ。
それが分かっているから、片桐は溜息と共に男の前に姿を現した。
「……なぁ。金になるものは混ざっていたか?」
「うわっ!?」
若者は弾かれたように振り返り、ナイフを構えた。
その目は血走り、極度の緊張状態にある。
片桐は両手を軽く広げ敵意がないことを示した。
「横取りする気はないよ。ただ、そのワンダラーはハズレだったろ?」
「あ? ……なんだよおっさん。何が言いてえんだよ」
若者は相手が武器も持たない作業着の中年だと分かると、安堵と軽蔑の混じった顔でナイフを下ろした。
「こんなところで説教か?。ずいぶんと暇なんだな」
片桐は男の言葉を無視して続ける。
「分析不足と、燃やしすぎだ」
片桐は事実だけを告げた。
「当たりを引くために数をこなすよりも、魔物の外見を見極めて狩りをしたほうがいい。それに、そんな粘つく炎で焼き尽くせば、肝心のお宝まで燃やし尽くすことになる。あとな、お前のオイル臭は周囲に居場所をバラしてるようなものだよ」
思いついた指摘を羅列した。
それらは完全なる正論だった。
正論が正しいわけではないということは片桐も十分に理解している。
しかし、この場は言わずにはいられなかった。
「……うっせえな。分かってんだよそんなこと」
若者は変形した金属片をポケットにねじ込み、地面へ唾を吐き捨てた。
「でも焼かなきゃ、あいつら止まらねえだろ! 俺のは身体強化して殴り殺せるような能力じゃねえし、雷禅の高い銃を買う金もねえんだよ!」
これ以上何か言っても、無駄かもしれない。
若者から反感を買うだけかもしれない。
しかし、片桐は平然とした顔を作って続ける。
「それなら、ワンダラーの足元に油を撒いて点火するといい。燃やすのは足止めの為だけでいいんだ。そして、動きが止まったところを、急所に一撃入れる」
案の定、若者は激昂した。
「だから、その『一撃』を入れるナイフがこんななんだよ!」
若者は錆びの浮いたナイフを地面に叩きつけた。
キン、と乾いた音が廃墟に虚しく響く。
「刃が通らねえんだよ! 見ろよ、こいつを!全身のほとんどが鉄やコンクリに覆われてやがる。こんなの、逆にこっちの手首がいかれちまうだろ!」
荒い息を吐く若者を、片桐は静かに見つめた。
そしてゆっくりと歩み寄ると、足元に転がったナイフを拾い上げ、切っ先についた泥を指で拭う。
どこにでもある、安物のステンレス鋼。
研ぎも甘い。
だが、殺せないわけではない。
「……使い方がな、違うんだ」
片桐はナイフを持ったまま、倒れた徘徊者の死骸のそばにしゃがみ込んだ。
「徘徊者の身体構造は、生きていた頃とそう変わらない。人間や犬と同じで、脊椎と神経で動いている」
片桐はナイフの切っ先を、徘徊者の首の後ろ――頭蓋骨と背骨の継ぎ目あたりに向けた。
「動かなくさせるだけなら、ここでいい」
トントン、と切っ先でその一点を叩く。
「ここにナイフを突き立てて神経を断ち切ってやれば、信号が途絶えてこいつらは動かなくなる。鉄も、コンクリートも、関係ない。肉を断つ必要も、骨を砕く必要もない。ただ、隙間に差し込むだけだ」
片桐はナイフを逆手に持ち替え、若者の方へ柄を向けた。
「それなら、お前のこの安物のナイフでもどうにかなるだろう?」
「……は?」
若者は虚をつかれたような顔をした。
力任せに殴るか、焼き尽くすか。
それしか頭になかった彼にとって、その「精密作業」のような殺し方は想定外だったのだろう。「問題なのは暴れる相手の背後に回って、その一点を狙えるかどうか、なんだが……」
片桐は周囲に漂うオイルの臭いを鼻で吸い込み、若者の黒く汚れた左腕へと視線を流した。
「お前にはその『炎』がある。隙を作るには十分すぎる火力だ。一瞬でいい。相手が怯んだ一瞬があれば、背中に回るくらい容易いだろう?」「あ……」
若者は自分の手と、片桐が示した急所を交互に見た。
燃やして殺すのではなく、殺す隙を作るために燃やす。
その発想の転換が、彼の強張った思考を少しだけ解きほぐしたように見えた。
だが、すぐにまた表情を強張らせ、片桐からナイフをひったくるように奪い取った。
「……アンタみたいな同業者が一番ムカつくんだよ」
若者はバツが悪そうに視線を逸らし、ナイフを鞘に収めた。
その声のトーンは、先ほどまでのヒステリックな響きを完全に失っていた。
「言うだけなら誰でもできんだよ。……理屈じゃ分かってても、そんなに上手く立ち回れねぇよ。それにな!こっちは今日中に稼がなきゃ、明日には装備を没収される。そしたら俺はどうやって生きていけばいいんだよ!」
男はもう、それ以外の選択肢がないように決めつけている。
(……余裕がなくて、視野が狭まっているな)
燃やせば勝てる。勝てば金になる。
その短絡的な思考と、借金という鎖。
自業自得と切り捨てるのは簡単だが、彼らを生み出し続けているのはこの街の構造そのものだ。
「……で、おっさん、アンタは何の能力持ちだ? 偉そうに講釈たれるくらいだ、さぞかし強力な戦闘系なんだろうな」
若者は挑発的に片桐を見た。
片桐は少しの間をおいて、答えた。
「いや、俺は無能力者だよ。ゲートタウンで「何でも屋」をしてる」
一瞬の沈黙。
若者は乾いた笑い声を上げた。
「ハッ! マジかよ! 無能力? ただの一般人が、こんな所まで散歩しに来たってのか?」
馬鹿にするというより、信じられないものを見る目。
アビスにおいて無能力者はただの餌だ。
「すげえな、自殺志願者かよ。……悪いけど、アンタと違って俺は忙しいんだ。無能力者の世間話に付き合ってる暇はねえ」
若者は片桐に興味を失ったように背を向けた。
「邪魔すんなよ一般人。巻き込まれて死んでも知らねえからな」
強い言葉ではあるが、敵意からくるものではない。
「……ああ、気をつけるよ。お前も」
と言いかけたが、スクレイパーの男はすでに歩き始めていた。
片桐の言葉は、若者の耳には届かなかっただろう。
彼は黒煙の上がる死骸を跨ぎ、次の獲物を求めて廃墟の奥へと走っていった。
その足取りは軽く見えたが、片桐には薄氷の上を走っているようにしか見えなかった。
「……頼むから、生き急がないでくれ」
片桐は小さく溜息をつき、落ちていた焦げた塊を爪先で弾いた。
出来る限りの忠告はした。
しかし彼には彼の事情がある。
他人がこれ以上踏み込むのは野暮というものだろう。
片桐は気持ちを切り替え、本来の目的である『スパイン・タワー』の方角へと足を向けたのであった。




