第3話
雑居ビルの最下層にある薄暗い通路を抜け、片桐はクリニックの重い鉄扉を開けた。
消毒液と、古い建材が放つ埃っぽい匂いが鼻を突く。
診察室の奥、パイプ椅子に腰掛け細い煙草を咥えている冴木理香は、泥だらけの有坂を一瞥するなり、興味深げに息を吐いた。
「……また随分と変わった組み合わせじゃない」
冴木の目は、有坂の泥に塗れた服装ではなく、その奥底にある『育ちの良さ』を的確に見抜いていた。
それはこの街に溢れるスクレイパーでもなければ、粗野なチンピラのものでもない。
「どこのお坊ちゃんか知らないけれど、そのままじゃうちの床が汚れるわ。宗介」
冴木はそう言ってクリニックの隅に置かれている古い雑誌や新聞の束を持ってくるよう片桐に促す。
「そこに敷いて。で、君はその上から動かないでね」
片桐は無言で古紙の束を手に取り、有坂の足元に広げて敷いた。
細い煙草を灰皿に押し付けながら、冴木は白衣のポケットから手袋を取り出す。
その退廃的な女医の姿に、有坂は完全に圧倒され、居心地悪そうに身を縮めた。
「できるだけ、落としてはきたんだ」
片桐の言葉に冴木は呆れたようにため息をつく。
「全然じゃない……こら、ここで泥を払わない。床が汚れるでしょう。静かにその服を脱ぎなさい」
冴木は身振りで有坂を叱りつけると、擦過傷や打撲の処置を始めた。
慣れた手つきで手早く行われる消毒と被覆。
有坂が顔をしかめて痛みに耐えるのを、冴木は淡々と処理していく。
「傷が多い割にはどれも軽傷ね。無茶な特訓にでも付き合わされたのかしら」
有坂が答えあぐねている間に冴木は次の処置へ移る。
「ああ、そういえば、あの子ならちゃんと六條が引き取りに来たわよ。日和ちゃんだったかしら」
冴木がカルテに目を落としながら告げた事後報告に、片桐は「そうか」と短く応じた。
「あんたが帰ったあとに目を覚ましたけれど、自分の名前を言うので精一杯だったわ。しばらくは絶対安静が必要ね。あんた達が何を企んでいるのか知らないけれど、今はそっとしておいてあげなさいね」
冴木の医者としての言葉。
それに逆らうつもりはないが、日和はすでに片桐の手から離れてしまった。
「まぁ、六條が上手くやるだろうさ」
そんな風に答えながら、片桐の脳裏にふと、先ほど事務所の外から聞こえた『這いずる音と粘液の匂い』の噂話がよぎる。
片桐は無言で携帯端末を取り出し、六條へ短いメールを打った。
『例の粘液のサンプル、採取して過去の大過の痕跡と照合したか』
送信ボタンを押し、そのままポケットから煙草を取り出して火をつけようとする。
「ここは禁煙よ。吸うなら外で吸ってきなさい」
冴木の冷ややかな声に、片桐は肩をすくめた。
「お前だって吸ってるだろ」
至極当然の言葉だったが、冴木はおどけた様子で答えた。
「ここは『私の』クリニックよ」
そう一蹴され、それ以上何も言い返せずに、片桐は診察室を出て行った。
重い鉄扉が閉まる音が響く。
カチャカチャと医療器具を片付ける音だけが響く密室で、冴木がポツリと口を開いた。
「……で、まさか本当に特訓でもしてたわけ?」
「えっ」
「『敵』を相手に負うような傷じゃないわね。派手に転げ回ったような擦り傷と、何かを分からせるために付けられたような打撃痕。明らかに不自然よ」
突然の問いに、有坂は戸惑いながらも、先ほどの裏庭での顛末を語った。
そして、その結果として片桐から攻撃ではなく、脚を使って逃げに徹する、『囮』のような動きを求められたのだと言うことも伝えた。
冴木はそれを聞いて、鼻で笑った。
「なるほど。あいつらしいわね」
「……僕、片桐さんの考えが、よく分からないんです」
有坂の口から、無意識のうちに本音が零れた。
「怖くないんですかって、聞いたんです。僕は今、とても怖いから。でも片桐さんは殺しに来る奴は殺すだけだと、だから自分が死ぬ覚悟もできているんだと、そう言っていました。命のやり取りに対して、どうしてあんなに淡々としていられるのか、僕には理解できません」
冴木は手を止め、冷めた目で有坂を見下ろした。
「まず覚えておいて。この街で生きていくということが、どういうことなのか」
そう言って冴木は引き出しを開け、医療器具を退けるようにしながら無造作に小さなハンドガンを取り出した。
「こんな場所だもの。何かあった時には迷わずこれを撃つわ。もちろん、殺すつもりでね」
まるでそれが当たり前なことのように冴木は続ける。
「……あいつが自分で言ってないのなら、私からペラペラ喋る義理はないんだけど……」
ピストルを机の上に置き、冴木は新しい煙草に火をつけ、紫煙を細く吐き出した。
「あいつは昔、調律者としてダイバーの指揮を執ってた。優秀だったわよ。アビスなんて分からないことだらけで、手探りの中、それでもあいつは誰一人死なせなかったんだから」
でもね、と冴木は深く煙草を吸った。
「『焦熱惨禍』……そう呼ばれる事件が起きて、全部変わった」
有坂の息が止まる。
その名称は、聞いたことがあった。
アビスの攻略が順調に進み、最深部まであと一息というところで起きた悲惨な事件。
この事件を機に、R.I.N.G.Sはゲートタウンからダイバー達を引き上げざるを得なかった。
「あいつはその時、チームの全員を失った。当時の恋人だった、長谷川優子も含めてね」
煙草の先が、ジリッと赤く燃える。
「……自分だけが生き残った後ろめたさからかしらね。それ以来、あいつは誰かを救うためなら、自分の命をも厭わなくなった。躊躇うことを、自分に許していないのね」
有坂は絶句した。
片桐のあの言葉の裏にあったもの。
それは、恐怖が欠落しているからではなく、二度と誰かを死なせないために、恐怖で足を止めるという選択肢を完全に捨て去った男の『誓約』だったのだ。
自分自身の甘さと、片桐の抱える絶望的な覚悟の差に、有坂の胸が強く締め付けられた。
その時、ガチャリと扉が開き、片桐が戻ってきた。
会話は唐突に終わる。
有坂は咄嗟に目を逸らした。
「終わったか」
片桐は携帯を取り出し、画面を確認する。
六條からの返信は、ない。
「ええ。ひとまずはこれで大丈夫よ」
冴木はカルテを閉じ、顎で出口を示した。
「次からは天気のいい日にやることね」
一瞬、片桐の視線が冴木の消した煙草に向かったが、何か言うことはなかった。
「ツケておいてくれ」
「……はいはい、いつものようにね」
片桐は冴木に軽く手を振り、有坂を促し、クリニックを後にした。
地下から地上へ出ると、霧雨はすっかり止み、重い灰色の雲の隙間から淀んだ光が差し込んでいた。
有坂は、前を歩く片桐の背中を無言で見つめていた。
その見え方は、数十分前とは劇的に変わっていた。
「……そういえば、弁当を食い逃してたな」
片桐が振り返らずに言う。
「飯にしよう」
有無を言わさないその言葉に、有坂は小さく頷き、黙って片桐の後に続いた。




