第14話
進行役の司祭なのだろう。
周囲のざわめきが止み、沈黙が下りる。
「――御奉賛の皆様。今宵もかくして、大いなる浄化の刻が参りました」
男の仰々しい声が、静まり返った吹き抜けの空間に響き渡る。
「アビスより湧き出たこの穢れ、ひいては不浄なる日本そのものを、我らが弥生の理をもって清める。神聖なる巫女の身を通してその穢れを喰らい尽くし、ここに集われし皆様の『清らかなる聖域』を守り抜くのです」
演説が終わると同時だった。
平板の上に拘束された魔物の傍らで、正座していた巫女がゆっくりと両手を上げた。
自らの顔を覆っていた白い布を、躊躇いなく剥ぎ取る。
露わになったのは、ひどく虚ろな目をした少女の顔だった。
その顔は化粧によってかなり誤魔化されてはいるものの、生気がなく、ひどくやつれている。
彼女は這うようにして魔物へと身を乗り出すと、その肉体へと両の手を乗せ、深く歯を立てた。
静寂の中、肉が裂け、粘度の高い体液が滴る生々しい音が響く。
(……狂ってるな)
三階の暗がりからそれを見下ろし、片桐は内心で毒づいた。
だが、それは巫女のことではない。
狂っているのは、日本を浄化するなどと謳っているこの教団そのものだ。
死体と無機物が融合している魔物が活動状態のままであるにもかかわらず、ろくな抵抗も示していないのは、強力な薬物によるものだろう。
そんな異常な肉に食らいつき、咀嚼と嚥下を繰り返していれば、巫女の精神や肉体が無事なわけがない。
だが、あの巫女の動作にはあまりにも淀みがなく、一種の残酷なエンターテイメントとして完成されすぎている。
となると、当然これが初めてではない。
これはこれまでに何度も、パトロンたちの前で繰り返されてきた「ショー」なのだ。
巫女が魔物に食らいつき、咀嚼し、飲み込む。
その瞬間、安全圏から見ていたパトロンたちの間から、悪趣味な興奮の熱気と歓声が沸き上がった。
「もっとだ!」「喰え、全部喰らい尽くせ!」
下品な野次が飛び交い、グラスを掲げて顔を紅潮させる者もいる。
社会的に高い地位を持つはずの人間たちが、秘密裏に行われる悪趣味な見世物に理性を投げ捨てていた。
狂気が最高潮に達し、警備の意識が完全に儀式の中心へと吸い寄せられる。
それでも、警備の配置に明確な隙は生じていない。
片桐が静かに息を吐き、突入のタイミングを計りかねていた――その時だった。
「――日和!!」
突然、会場の空気を引き裂くような少年の絶叫が響き渡った。
二階フロアの手すり付近。
警備の死角を強引に突破して下を見下ろしているのは有坂と、有坂に抱えられたシンだった。
シンの目は、血塗れでうずくまる巫女――日和の顔を真っ直ぐに捉えていた。
「お前、この街から出られたんじゃなかったのかよ!」
絶叫が降ってきても、日和は何事もないかのように魔物に食らいつき、虚ろな瞳で咀嚼を続ける。
「なに、やってんだよ! こんなところで……っ、お前!!」
腕の中でもがくシンが落ちそうになるのを見て、有坂はいっそのこと、と手すりを乗り越えて一階へと着地し、シンを床に下ろした。
「おい、お前たち! そこから離れろ!」
予期せぬ乱入者に、セキュリティの一人が銃を構えながら叫ぶ。
会場全体が凍りついた。
シンは止めようとする有坂の手を振り払い、ふらつく足取りで日和の元へ駆け寄った。
「日和、やめろよ! 帰ろう、ねぇ、一緒に帰ろう!」
血に塗れた少女の肩を強く掴む。
だが次の瞬間、日和は煩わしそうにその手を払いのけると、シンの胸を弱々しく突き飛ばした。
衝撃よりも、驚きによって尻餅をつくシンを一瞥することもなく、彼女は再び、虚ろな目で魔物の肉へと顔を埋める。
「日和……?」
シンの呆然とした呟きを掻き消すように、片桐が叫んだ。
「有坂くん、君の出番だ!」
その一言で、有坂は何をするべきか理解した。
異能力として発現した規格外の脚力が、舞台の床を爆発的に踏み抜き、常人にはあり得ない速度と跳躍を生み出す。
有坂は着地した勢いそのままに、周囲のテーブルや椅子を次々と蹴り飛ばし、散弾のようにばら撒いた。
だが、その動きに一切の洗練はない。
初めての実戦の空気に呑まれ、制御しきれない己の出力に振り回されるように、有坂は情けない絶叫を上げながら、ただ勢い任せに机や椅子、様々な備品を蹴り散らしてセキュリティの包囲網を掻き乱し始めた。
ショーの進行を完全に破壊された司祭が、顔を真っ赤にして叫ぶ。
「何をしている! 早くそいつらを殺せ!!」
我に返ったセキュリティたちが一斉にハンドガンを抜き、焦りながら暴れ回る有坂へと銃口を向ける。
撃ち込まれれば、いくら脚力が異常でも蜂の巣になる。
だが、引き金が引かれるより一瞬早く、会場の端に控えていた女が鋭く叫んだ。
「撃つな! 御奉賛の皆様の御前だぞ!!」
鈴を転がすような声ではない。
腹の底から絞り出した、現場を統制する人間の怒声だった。
パトロンたちの眼前で、流れ弾や血飛沫を散らすわけにはいかない。
女が放ったその完璧な大義名分の前に、セキュリティたちの指が一瞬だけ硬直する。
片桐にとって、その一瞬の隙だけで十分だった。
三階の手すりを乗り越え、空中に身を躍らせる。
落下しながら二階の手すりを掴み、筋力で強引に降下の勢いを殺す。
そこからさらに手を離し、一階のフロアへと落下。
着地の衝撃を前転で完璧に逃がし、無音で立ち上がった。
身を起こした片桐の視界の端に、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑っているパトロンたちの姿が映る。
先ほどまで悪趣味な熱狂に浸っていた特権階級たちが、騒ぎ一つで醜くパニックを起こしている。
その群れの中に、片桐は見覚えのある顔をいくつか見つけた。
国会の中継や、街角の選挙ポスターで笑顔を振りまいている大物政治家たちだ。
(……ご立派な御託のわりには)
日本の浄化を謳う、弥生の理。
しかしその実、それが必要なのは教団の方らしい。
内心で冷たく吐き捨てながら、片桐は同時に、あの無様な顔ぶれの中にゲートタウンの住人が一人もいないことを確認していた。
古買屋の店主も、トクさんも、ジョン・ドウや六條の姿もない。
(……あいつらの方が、よっぽどマトモだな)
片桐はそれ以上思考を割くことをやめ、迷いなく踏み込むと、日和の前に立ち尽くしていた司祭の顎を、掌底で正確に打ち抜いた。
「がっ……」
白目を剥いて崩れ落ちる司祭を歯牙にも掛けず、片桐は血塗れの日和の身体を強引に抱え上げる。
巫女は抵抗するどころか、虚ろな目で宙を見つめ、口元を血で汚したまま呆けていた。
「後は任せろ。退け」
短い合図だけをシンに言い放ち、片桐は再び暗闇へと身を翻す。
背後で有坂とシンがどう動くかは見ない。
有坂の無軌道な暴れっぷりと、セキュリティの足が止まっているこの数秒の猶予。
片桐はそれだけを最大限に利用し、女が用意していたあの「裏口」へ向けて、一直線に駆け出した。




