第1話
よく晴れた午後の二時。
ゲートタウンの北区画。
錆びついたシャッター街の片隅にある何でも屋「REPAIR」のガレージには、今日も変わらず、古いオイルと焦げたフラックスの匂いが充満している。
猫探しを終えてから三日後、片桐は自身の店に籠って壊れた機械の修理に没頭していた。
作業台の上では、製造から数十年は経過しているであろう旧式の真空管アンプが解体されている。
片桐宗介は右目にルーペを装着し、黙々とハンダごてを基板へと当てていた。
ジュッ、という微かな音と共に、白い煙が細く立ち上る。
窓の外では、アビスから流れ出る不可解な超微細粒子が街を漂い、スクレイパーたちが明日をも知れぬ欲望に身を焦がしている。
だが、この作業台の上だけは違う。
ここには、電流と抵抗、入力と出力という、明確な因果律だけが存在する。
「直せる」か「直せない」か。
その単純な二元論に浸っている時だけが、片桐にとっての数少ない安息の時間だった。
本来ならば片桐の生活は訳ありの連中が持ち込む、もっと泥臭く、きな臭い仕事によって支えられている。
だからこそ、この静寂は貴重なものだったのだが――。
その時間は、切羽詰まったドアの開閉音によって呆気なく破られた。
「……あの、すみません。こちらが『REPAIR』で間違いないでしょうか」
転がり込んできたのは、場違いなほど身なりのいい男だった。
この薄汚れた街ではまずお目にかかれない、仕立ての良いダークネイビーのスーツ。
胸元にはファイブ・リングス傘下の管理会社社員であることを証明するバッジ。
ネクタイは緩み、革靴は泥にまみれているが、その立ち姿と顔立ちからは隠しきれない育ちの良さが滲み出ている。
片桐はハンダごてをスタンドに戻し、ルーペを外して小さく溜息をついた。
「ようこそ、REPAIRへ」
作業椅子に座ったまま、愛想のない声で続ける。
「だが、あいにくと」
顎で修理中の基板をしゃくる。
「今は手が離せなくてね。明日以降にまた、来てくれないか」
話も聞かずに、と若い彼は思っただろう。
戸惑いと若干の苛立ちを、その表情に浮かべている。
しかし片桐は、この場違いな客から立ち昇る「よくない仕事」の気配を敏感に感じ取っていた。
だが。
「そんな! お願いです! 話だけでも聞いてください! 他に……頼れるあてがないんです!」
若い男は作業台に歩み寄ると、震える手で懐から財布を取り出し、中に入っていた紙幣をすべて掴み出して作業台の隅に置き、更には財布を逆さにして小銭までもをぶち撒けた。
そこに己の身分証と、高級そうな万年筆まで添える。
「今あるのはこれだけです。でも、足りなければ借用書でもなんでも書きます。必ず、後できちんと、報酬はお支払いしますから!」
片桐は、置かれた現金と万年筆、そして男の顔を交互に見た。
二十代半ば。
整った顔立ちには、疲労と恐怖が張り付いている。
だが、その瞳に淀みはない。
だからこそ、だろう。
自分が信用の担保として口にした「借用書」という紙切れが、この無法地帯ではトイレットペーパー以下の価値しか持たないことを、彼は心の底から理解できていないのだ。
(随分と、真っ当に生きてきたんだな)
片桐は小さく息を吐き、タバコに火をつけた。
紫煙越しに男を見る。
彼は決して傲慢ではない。
ただ、無知で、危なっかしいほど愚直なだけだ。
しかしこういう手合いは、純粋な「悪意」を持つ連中よりもずっと、死に近い場所にいる。
「君、名前は?」
「あ……有坂です。有坂律」
男は限界まで消耗しているように見えた。
片桐は椅子から立ち上がると、冷蔵庫から冷えたミネラルウォーターを取り出して、手渡した。
「一息つくといい。あいにく、ここには気の利いた飲み物なんてものはないが」
有坂は渡された水を半分ほど一気に飲み込み、盛大にむせた。
「……落ち着きなよ、有坂さん」
そう言って片桐は椅子にかけ直す。
「それじゃあ改めて、仕事の内容を聞こうか」
一先ず、話だけは聞くことにした。
追い返すのはそれからでも遅くはないし、必死でここまで来たのであれば水一杯分の情けくらいはあってもいい。
有坂は呼吸を整え、濡れた唇を舐めると、意を決したように言った。
「落とした物を、拾ってきてほしいんです」
それがただの「落とし物」でないことは、その表情を見れば分かる。
「場所は?」
「……等活、です」
タバコを運んでいた片桐の手が止まった。
『等活』。
アビスの第一階層である、地表を指す呼び名だ。
しかし、地表とはいえ、そこは絶えず魔物が湧き出し、徘徊する危険地帯となっている。
迷路のように入り組んだ廃墟群に素人が踏み込めば、二度と戻っては来られない。
「よく、生きて抜けられたな」
有坂の身分証を見るに、彼は統制区から来ている。
統制区のあるアビスの端部を出発し、等活を抜けてここまで来るのは並大抵のことではない。
「そこに、データチップを落としてしまいました。逃げている最中に、ポケットからこぼれ落ちて……」
「逃げている?」
その言葉が片桐の中で軋んだ。
「はい。……その中にはファイブ・リングスの一部門が裏で行っている、不正取引の証拠が入っているんです」
有坂は、怯えを秘めた真っ直ぐな目で片桐を見る。
まるで、それが絶対の正義であるかのように。
「あれがあれば、組織の腐敗を暴けます。警察も、メディアも動いてくれるはずです。だって……これは犯罪なんですから」
片桐は灰皿にタバコを押し付け、こめかみを押さえた。
(これはまた、面倒な依頼がきたものだ)
この男は本気だ。
本気で、この荒廃した世界で教科書通りの正義が通用すると信じている。
ファイブ・リングスという巨大な怪物が、警察やメディアそのものを飼い慣らしている可能性を、微塵も考慮していない。
「悪いが、そういうことならデータチップのことは諦めたほうがいい。その若さで人生を終わらせたくはないだろう?」
片桐は諭すように断りを入れた。
関われば確実に、ろくなことにならない。
それに何より、このまま有坂を放っておけば遅かれ早かれ「処理」される運命にあるだろう。
ここで諦めさせる、それが片桐なりの慈悲の形だった。
「そ、そんな……! あれがないと、死んだ同僚が浮かばれません! 正しいことは絶対に! 行われるべきなんです!」
死人まで出ているのか、と片桐は宙に向かって溜息をついた。
有坂の悲痛な叫びは狭いガレージに反響し続け、片桐の胸の奥をざらりと撫でる。
ふと、作業台の上にある修理途中のアンプが目に入った。
配線が焼き切れ、音が出なくなった壊れた機械。
片桐にはそれが、どうしてか目の前の青年と同じに見えた。
彼もまた、この世界の「歪み」という過電圧に晒され、焼き切れようとしている。
もし、ここで有坂を追い出せばどうなるか。
彼はその「正しい論理」を抱えたままゲートタウンの闇を彷徨い、スクレイパーに身ぐるみを剥がされるか、ファイブ・リングスの掃除屋に消されるだろう。
それは、あまりに後味が悪い。
壊れた機械を、修理もせずにスクラップ置き場へ放り込むような不快感が、胸に残る。
ふと、右手に冷たい雨の記憶が蘇る。
助からない命を前にして、介錯のための短剣を握りしめた、あの日の重み。
『泣かないで。……まだ、間に合うよ』
その手首を掴んで止めてくれた、あの温もりと声。
誰よりも命を大切にしていた、彼女の声。
そんな、過去の残像が不意に脳裏をよぎった。
(……お前はそういうのを、一番嫌っていたよな)
片桐は作業台の上の現金を指先で弾いた。
仕方ない、と自分に言い聞かせるように。
「……詳しい話を聞く前に一つ、言っておく。俺が請け負うのは『回収』だけだ。中身は見ないし、その後の告発劇にも関与しない。拾って、渡す。それだけだ」
「えっ、あ、はい! 構いません! 回収さえしてくれれば……!」
有坂の顔に、パッと希望の光が灯る。
「それで、落とした場所だが」
やると決めたからには、ぐずぐずしてはいられない。
「等活のどこだ? まさか『どこかの瓦礫の下』なんて言わないよな?」
片桐は壁にかけてあった東京アビス全域の簡易地図を取り、机の上に広げた。
その勢いで、小銭のいくつかが床へと落ちる。
「い、いえ、場所ははっきりと覚えています。ここです」
有坂は震える指先で、地図上の一点を指し示した。
旧国道沿いにある商業ビルの廃墟マーク。
「この崩れたビルの、立体駐車場の三階……そこに一時的に身を隠したんです。その時に落としたのは間違いありません」
「『スパイン・タワー』か。あそこは崩落の危険がある上に、リバーサーの巣窟だぞ」
「仕方なかったんです。……この街の位置を見失ったので、どこか高いところに登らないとって…でも、化け物がうろついたから必死で逃げ出して……」
スパイン・タワー。
高層に居住区画を設けた旧時代の複合ビル。
半壊しながらも脊椎のように天を衝くその姿は、このエリアのランドマークとなっている。
「なるほどな。場所が明確なら、仕事にはなる」
それに三階ならば、深入りせずに済む。
片桐は腹を括った。
「それで? 回収した後は、どうするつもりなんだ?」
「もちろん、然るべき機関に……」
予想通りの答えに、片桐は呆れたように三度溜息をつく。
「提出したとして、揉み消されるのがオチだよ。それにそもそも、君が無事にゲートタウンを出られるという保証もない」
「……」
片桐は眉間を揉んだ。
「こうしよう。俺の知り合いに、この手の扱いに慣れた奴がいる。そいつに引き渡すところまでを、今回の依頼とする。……いいかな?」
有坂は少し戸惑ったようだが、片桐の真剣な眼差しに押され、素直に頷いた。
「……分かりました。貴方を信じます」
片桐は困ったように頭を掻いた。
信じる、か。
それはこの街で最も安易で、口にすべきではない言葉だ。
だが、この男にはそれが似合っているのかもしれない。
「奥の部屋で待っていてくれ。日付が変わる前には戻る。いいか?鍵を掛けて、絶対に窓から顔を出すんじゃあないぞ」
有坂を居住スペースへと押し込むと、片桐はネクサステック製の端末を取り出した。
送信先は、六條。
『「迷子」を預かっている。迎えに来てくれ』
短く打ち込み、送信しようとして片桐は動きを止めた。
おもむろにズボンのポケットから錆びたタブレットケースを取り出して振る。
カツ、カツ、と乾いた軽い音が、中身が残り僅かであることを告げている。
片桐は軽く息を吐いて『それから「飴」も頼む』と付け足した。
R.I.N.G.S.のダイバーである六條なら、この厄介な「迷子」を適切に保護できるはずだ。
それが、有坂という「無知」を生かすための、唯一の答えだと片桐は判断した。
「やるだけのことは、やってみるか」
片桐は作業着のポケットから指抜きグローブを取り出し、装着した。
壁のウエストバッグを腰に巻き、棚からワイヤーと工具、そして二本の短剣を取り出す。
どれもホームセンターで手に入るようなありふれた道具だが、彼の手にかかればアビスを生き抜くための武器になる。
「大人しくしてろよ」
願いのように呟き、片桐はガレージを出た。
背後で、有坂が内側から鍵を掛ける音がした。
そのカチャリという頼りない音が、彼が守ろうとしている「正義」の脆さを象徴しているようで、片桐は少しだけ眉を寄せた。
午後の日差しは傾き始め、ゲートタウンの影が長く伸びている。
片桐はその影に紛れるようにして、等活の方角へと歩き出した。




