第11話
アビスに吸い込まれるように沈む太陽が、ゲートタウンの歪な建造物群に長い影を落とす夕暮れ時。
片桐は、両手に提げた安物のビニール袋の重みを感じながら、自身のガレージへと続く薄暗い路地を歩いていた。
袋の中身は、特売のトイレットペーパーと数日分のレトルト食品、卵のパック、それに缶のコーヒーだ。
等活での凄惨な現場から一転、ひどく所帯染みた光景だが、生きている以上日常の消耗は避けられない。
ガレージまであと数区画というところで、片桐の足が不自然に止まった。
視線の先、路地の角に置かれた錆びたダストボックスの陰に、妙な人影が立っていたのだ。
薄汚れ、ダボついた作業着。
そこまではどこにでもいるスクレイパーのような出で立ちだが、首から上が決定的に異質だった。
丸みを帯び、不気味なほどに笑顔を張り付かせたプラスチック製の仮面。
教団『弥生の理』が布教活動で使っているマスコット、『弥生ちゃん』のお面だ。
異様な光景に、片桐は警戒よりも先に深い溜め息を吐きたくなった。
「……何の冗談だ」
片桐が低く呟くと同時に、お面の奥から、ひどく苛立った女の声が響いた。
「冗談じゃないわよ! こっちは真面目にやってんの!」
声の主がずかずかと歩み寄り、片桐の目の前でぴたりと立ち止まる。
お面のせいで表情は読めないが、その全身から発せられる怒気と焦燥感は、隠しきれるものではなかった。
「今日一日、ずっとアンタのこと見てたけどさ。なんなの? 街をうろちょろしたかと思ったら、夕方には買い物して帰宅?どんだけ呑気なわけ!? 明日なのよ、儀式は!!」
堰を切ったように捲し立てるその声と口調に、片桐は僅かに眉を顰めた。
教団の何者かから投函されていた、あの手紙。
そこには最初、『どうか巫女を救ってください』と、ひどくしおらしく、悲痛な言葉が並んでいたはずだ。
(……お願い、なんて可愛らしいものじゃなくなったな)
片桐は内心で毒づきながら、目の前の奇妙な女を観察した。
以前、教団の炊き出し場を遠巻きに見た際、現場で荒くれ者たちを仕切る女の姿を一瞬手紙の主と疑ったことがあった。
だが、手紙の文面とあまりに印象が結びつかず、思考から外していたのだ。
しかし、目の前で怒るこの女は、わざわざ『弥生ちゃんのお面』という異様な変装で顔を隠している。
そんなことをする理由は明確だった。
『顔が売れている』か『顔がバレている』か、だ。
「……なるほどな」
片桐の低い声に、女の言葉がピタリと止まる。
「以前、炊き出しの現場で見かけた女を手紙の主だと疑ったが、その後の手紙の内容とあまりに印象が違うんで候補から外していた。だが、どうやら……」
言葉の途中で、女が片桐の胸倉を乱暴に掴んだ。
「……そんなことは、どうでもいいのよ」
女は強引に誤魔化すように声を荒げ、片桐を指差した。
「巫女を助けろって言ってるの!アンタのせいでもあるんだからね! 私が、反吐が出るような連中のご機嫌まで取って、ようやく隠したのに!」
「隠した? 何をだ」
「っ!……っんとに、アンタは!あのね、私がスクレイパーを使って隠した『魔物』を、アンタが見つけ出して教団に連れ戻したんでしょ!!」
その話が出た瞬間、片桐の思考のパズルが、カチリと音を立てて噛み合った。
以前、六條から頼まれた『猫探し』。
等活で一匹の魔物を捜索し、回収した一件。
「……あの魔物が、明日の儀式に使われるってことか?……まさか、巫女を喰わせる気か?」
片桐の推論に、女は忌々しそうに首を横に振った。
「……とにかく!魔物がいなきゃ、明日の儀式はできなくなるはずだった。それを、アンタが余計なことしてぶち壊したの!!」
詳しい内容には一切触れず、女は怒りのままに押し切る。
片桐は無表情のまま尋ねた。
「俺は仕事をしただけだ。そもそも、依頼主が誰かなんてことも知らなかった。……だが、なぜそれが俺だと分かった?」
「あの魔物の首輪よ。仕込まれてたカメラの映像に、アンタの顔がバッチリ映ってた。もともと教団内部でマークされてた人だもの、素性を調べるのは簡単だったわ」
複数の現場を取り仕切る女は、教団の中ではある程度の地位にあるらしい。
そんな人間が、自身の立場を利用して儀式を止めるための妨害工作を行った。
なのにそれを、片桐が『ただの仕事』として無自覚にぶち壊したのだ。
だからこそ、彼女は自らの尻拭いをさせようと、わざわざ片桐を指名して、儀式の邪魔をするよう依頼をしたのだ。
「アンタが壊した計画なんだから、アンタが責任持って何とかするのがスジでしょ。明日の儀式、絶対に止めて。……これはもう依頼じゃないわ、命令よ」
「断る」
片桐は間髪入れずに返し、呆れたように首を振った。
「あれは報酬を貰っての『仕事』だった。それを咎められる筋合いはないし、命令される謂れもない」
片桐はそう言い切ると女の横を通り抜けて歩き出す。
「待って!ねぇ、待ちなさいよ!」
追いすがる女をのらりくらりと躱して歩き続ける、その直後――背後の空気が弾けた。
「……待てって、言ってんでしょ!!」
路地裏のゴミを蹴り飛ばし、お面を被った女が鋭い踏み込みで片桐の退路を塞ぐ。
異能力や魔物のような異質な力ではない。
純粋な暴力への自信に裏打ちされた、洗練された重心移動と明確な殺気。
炊き出し場で大男を容易く組み伏せたという現実が、その荒々しいストリートファイトの構えからもありありと伝わってくる。
言葉で動かないなら、力尽くで屈服させる。
女が明確な臨戦態勢をとったのを見て、片桐は深い、深いため息をついた。
「……全く、面倒な」
片桐は手の中のビニール袋を、中身の卵が割れないように静かに地面に置くと、脱いだコートを折り畳んで袋の上に置いた。
「なに呑気なこと、してんのよ!」
直後、鋭い呼気と共に、女が跳んだ。
大振りの右フックに見せかけた、コンパクトな左の掌底。
スラムの喧嘩に慣れた、実戦的なフェイントだ。
だが、片桐にとって、人間の素手での一撃など脅威ではない。
一撃、二撃と繰り出される女の攻撃を躱し、いなす。
その攻撃の隙間を狙って、片桐は女の伸び切った腕の関節を正確に捉え、その勢いを利用して無造作に投げを打った。
「がっ……!?」
くぐもった呻き声と共に、女の背中が路地裏の汚れたアスファルトに叩きつけられる。
反撃の隙すら与えず、片桐は彼女の関節を極め、仰向けのまま冷たいコンクリートの地面へと押さえ込んだ。
勝負は、文字通り一瞬だった。
「い、たっ……離しなさいよ、このっ……!」
腕を捻り上げられながらも、女は悪態をついて藻掻く。
背中を打ち付けた落下の衝撃で、彼女の被っていた『弥生ちゃんのお面』のゴム紐が切れかけ、顔から半分ずれ落ちそうになった。
女の動きが、一瞬だけ硬直する。
このお面が外れ、素顔が完全に白日の下に晒されれば。教団に属しながら裏切りの妨害工作を企てていた彼女の計画は、その時点で完全に破綻する。
どう足掻いても覆らない実力差と、計画が破綻する焦りが、彼女の息を浅くさせていた。
だが。
片桐の空いた左手は、女の素顔を暴くようにお面へ伸びることはなかった。
彼は無造作に、ずれ落ちそうになっていたプラスチックの仮面を、もう一度女の顔に深く押し当てて「被せ直した」のだ。
「……え?」
予想外の行動に、女が間抜けな声を漏らす。
片桐は彼女の腕の拘束を解き、ゆっくりと立ち上がりながら、袋の上に置いていたコートを手に取った。
パンパンと砂を払いながら、片桐はどこまでも平坦な声で告げる。
「……お前が『どこの誰かは知らない』が、俺はただの何でも屋だ。『命令』じゃあ動かない」
片桐は振り返ることなく、ガレージへ向けて歩き出す。
「だが、正式な『依頼』なら話は別だ。それでいいなら明日、金を用意してもう一度事務所に来い」
泥臭い路地裏に残された女は、不格好なマスコットのお面を被ったまま、去っていく片桐の背中をただ呆然と見送っていた。
儀式はもう、明日に迫っていた。




