第5話
片桐はその日、朝から出かけていた。
いつものように早朝から家を出た有坂を尾行するためだ。
同居を始めてからというもの、有坂は「地理を覚えるため」と言って頻繁に外出を繰り返していた。
だが昨夜の態度や、空き地で少年と合流していた姿を見れば、それがただの散歩ではないことは明白だった。
何をしているのかは分からない。
だが、何かしている。
極力構いたくはないが、世間擦れしていないあの男をこの街で自由にさせすぎるのは、結果として自分の身をも危うくさせるかもしれない。
事実、前を歩く有坂は周辺を警戒している様子もなく非常に無防備だ。
歩幅にも無駄が多く、視線が定まっていない。
時折、何かに気づいたように不自然に立ち止まっては、錆びた看板や空の境界線を首を捻りながら見上げている。
(地理を覚えているという割には……)
あまりにも集中力のない、散漫な動きだった。
片桐は数人の人混みや物陰に隠れ、つかず離れずの距離を保って有坂を追う。
有坂が立ち止まれば、片桐もまたショーウィンドウのくすんだガラスの反射を利用して視線を切り、自身の歩調を街の流れに完全に同化させる。
有坂は背後に張り付く片桐の気配に、一切気づいていなかった。
有坂はそのまま、重く垂れ込めた灰色の空の下、ゲートタウンの外縁部へと足を進めた。
中心部から離れるにつれ、巨大企業であるファイブリングスの管理により整備された舗装路はひび割れ、不規則に増築された違法建築が空を塞ぎ始める。
すれ違う労働者たちの足取りは重く、その視線はアスファルトの染みから上がらない。
街の空気が、明確に腐敗と暴力の匂いへとグラデーションを描いて変わっていく。
だが、有坂はその湿度の変化に気づく様子もなく、無防備な足取りで歩き続けていた。
やがて、完全に崩落したビル群の残骸が道を塞ぐ区画へと辿り着く。
重苦しい土埃と、鉄錆の匂いが鼻を突く。
その瓦礫の山の中で、十数人の男女が立ち働いていた。
重機はない。
ツルハシやスコップ、あるいは素手による完全な人力だ。
彼らの灰色の衣服には『白菊と真円の鏡』の意匠が縫い付けられている。
広場での古式医療。
東側倉庫での孤児への炊き出し。
そしてここでは、見捨てられた区画の物理的なインフラの復旧作業を行っていた。
有坂はその異様な現場を、特に警戒する様子もなく無造作に通過していく。
片桐もまた、立ち止まることはせずに周囲の状況を視界の端で処理しながら有坂の背中を追った。
人力での作業は遅々として進んでいない。
大岩を一つ退けるのにも、数人がかりで太いロープを引き、土に塗れて喘いでいる。
巨大企業に見放されたこの場所において、それは唯一の手段であり、同時に非効率の極みだった。
だが、片桐の目を引いたのはその作業の遅さではない。
現場に、怒声や作業の指示を飛ばす声が一切ないのだ。
軍隊のような明確な統制があるわけではないにもかかわらず、彼らは異様なほど静かだった。
聞こえるのは、石と石が削れる鈍い音と、布が擦れる音、そして荒い息遣いだけだ。
手袋もせずにコンクリートの破片を運ぶため、何人かの指先からは血が滲み、泥と混ざって黒く変色している。
それでも誰一人として痛みを訴えたり、顔をしかめて不満を口にする者はいない。
彼らは一様に柔和な笑みを浮かべ、ただ淡々と「善きこと」を行っているという確信に満ちて、延々と石を運び続けていた。
『信仰心』による底知れぬマンパワー。
金や暴力による支配とは違う、自己犠牲という名の最も厄介な力だ。
片桐は信者たちの群れを一瞥し、静かにその場を通り抜けた。
インフラ復旧現場を過ぎ、入り組んだ路地裏へと差し掛かった時だった。
そこは無計画に増築されたトタン屋根と、不法投棄された鉄屑が迷路のように入り組む、最も足を踏み入れてはならない死角の密集地帯だ。
(……散歩気分で迷い込んでいい場所ではないんだがな)
だが、そこで奇妙な現象が起きた。
狭い路地に、金属とコンクリートを連続して蹴りつけるような硬質な音が響き、片桐が急いで角を曲がると、そこにいるはずの有坂の姿は、文字通り煙のように消え失せていたのだ。
決して見失うような距離ではない。
(……あいつ、異能力を使ったな)
路地の裏側、ぱつりと足跡の消えたコンクリートを見下ろし、片桐は小さく息を吐いた。
歩幅と踏み込みの力が、常人のそれとは根本的に違う。
有坂が本気で移動だけに特化し、一瞬でトップスピードに乗ることができれば、視界から瞬時に消え去ることも可能だろう。
だが、片桐に焦りはない。
彼は立ち止まり、周囲の空気の淀みと建物の配置を冷徹に計算する。
有坂の目的は、昨日の少年との接触だろう。
ならば、向かう先はストリートチルドレンが身を潜められる安全な『溜まり場』。
片桐の脳内で、ゲートタウンの地図が広げられ、論理的な消去法が始まる。
まず、警察の警備ルートや監視カメラの及ぶ表通りは避けるはずだ。
次に、暴力団やならず者たちが縄張りを主張する歓楽街の裏路地。ここも孤児が身を隠すには危険すぎる。
そして、雨風を凌げない完全な野外や、崩落の危険が差し迫っている廃ビルも外れる。
それらを踏まえると、警備の目が届かず、ならず者たちからも身を隠せるような閉鎖的で安全な空間は、この周辺にはそう多くない。
片桐は消えた足跡を探すという無駄な真似はやめ、視線を一つの方角へと向けた。
条件を満たすのは、崩落して長年放置されたままの旧高架下。
あの入り組んだ鉄骨とコンクリートの残骸の隙間だけだ。
片桐はコートの襟を立て、その淀んだ暗がりへと淀みなく歩を進めた。




