第3話
翌朝。
片桐が携帯コンロで湯を沸かしていると、二階から下りてきた有坂が、またしても早朝の街へと出かける準備を整えていた。
「……有坂くん、君は連日どこを出歩いてるんだ」
片桐はインスタントコーヒーの粉をカップに入れながら、背中越しに尋ねた。
咎めているわけではない。
それはただ、同居人に向けるささやかな関心だった。
有坂は出入り口の金属扉に手をかけたまま、僅かに肩を揺らした。
「あ、いえ……少し、街の地理を知っておこうかと。それに、働き口も探さないといけませんし……」
振り返った有坂は片桐と目を合わせず、ひどく歯切れ悪く言葉を濁した。
片桐が小さく頷き、それ以上追及せずにコーヒーを啜ると、有坂は沈黙を埋めるように慌てて言葉を継いだ。
「あ、そういえば片桐さん。昨日、少し離れた区画で妙な光景を見ましたよ」
「……妙な光景?」
「『弥生の理』の、です。広場の治療テントとは違う場所で、街の東側の放棄された倉庫群のあたりなんですけど、そこに教団の別の施設がありました」
有坂の言葉を受けて、片桐は頭の中の地図を確認する。
久しく訪れていない場所ではあるが、以前そんな施設があったような記憶はない。
「身寄りのない子供たち……ゲートタウンの路地裏でたむろしているような、そういう行き場のない少年少女たちを集めて、炊き出しや衣服の配給を行っていました。一種の孤児院や、保護施設のような感じでしたね」
だが、それ自体は特段「妙な光景」とは言いがたい。
有坂は少しだけ言葉を区切り、伏し目がちに続けた。
「あんな場所で、子供たちの面倒を手厚く見ている。立派な慈善活動なんでしょうけど……なんていうか、違和感を覚えたんです。その、年端のいかない少女たちへの執拗なまでの気遣いというか、保護の仕方に」
そこで有坂は言葉を切り、軽く頭を下げた。
「……すみません、つまらない話をしました。行ってきます」
「……ん、ああ、気をつけてな」
足早に出て行く有坂の背中を、片桐は静かに見送った。
有坂の言葉をそのまま信じるのであれば、それは街を知るためにあちこち歩き回る中で見かけた景色だったのだろう。
だが、ある程度治安の落ち着いているゲートタウンとはいえ、近づかないほうがいい場所は確実に存在する。
今夜にでも少し、注意しておいたほうがいいような気がした。
片桐は湯を注いだマグカップを片手に、部屋の隅に置かれたゴミ箱へと視線を向けた。
生活ゴミが溜まっている。
片桐は半透明のビニール袋を引き出し、口を縛ろうとして、ふと手を止めた。
袋の表面から透けて見える、二つの丸められた紙屑。
ドアの隙間に挟まれていた、チープなコピー用紙だ。
そこに書かれていた文字の輪郭が、脳裏をよぎる。
『どうか、巫女を助けてください』
『彼女が、巫女が完全に壊れる前に、どうか』
片桐は眉根を寄せた。
巫女。
その単語から連想されるのは、ある程度成熟した女性の姿だ。
しかし。
(……有坂の見た保護施設。年端のいかない少女たち)
手紙の主は、『彼女』と呼んだ。
もしも教団が保護という名目で囲い込んでいる中に『巫女』がいるとすれば。
そしてそれが伝統的な大人の女性ではなく、無垢な子供だったとしたら。
「いや……よそう」
片桐はビニール袋の口を固く縛り、思考を強制的に断ち切った。
不確かな厄介事に自ら首を突っ込む趣味はない。
片桐はロングコートを羽織り、ゴミ袋を提げて事務所を出た。
重い金属扉を施錠し、路地裏の集積所へとゴミ袋を放り投げる。
乾いた音を立てて転がる袋を一瞥し、片桐はコートのポケットに両手を突っ込んだ。
そして、ふと有坂が口にしていた東側の方角へと視線を向ける。
しばらくの沈黙のあと。
「……ま、散歩のついでだ」
片桐は誰に言い訳をするでもなく小さく呟くと、ジャンク街とは逆の方向へと歩き出した。
あくまで、少し様子を見るだけだ。
三十分後。
片桐は、東側の区画にある放棄された巨大な物流倉庫の前にいた。
施設の様子を確認し、下手に隠れる必要はないと判断した片桐は、倉庫の向かいにある崩れかけたコンクリートの残骸に腰を下ろし、正面からその光景を眺めていた。
有坂の報告通りだった。
倉庫の入り口付近には純白のテントが張られ、そこに広場と同じ『白菊と真円の鏡』の意匠が掲げられている。
テントの周囲には、数十人の子供たちが群がっていた。
親に見捨てられたか、最初から孤児としてこの街で生きていくしかなかったような、薄汚れてすさんだ目をした子供たち。
彼らは整然と列を作り、柔和な笑顔を浮かべる女性ばかりの信者たちから、温かい食事や清潔な古着を受け取っている。
広場で行われている胡散臭い医療行為とは違う。
ここでは物理的な施しで子供たちを囲い込んでいた。
片桐は目を細め、施設の出入り口へと視線を這わせる。
その時だった。
倉庫の奥から、見覚えのある灰色の修道服が姿を現した。
鋭い三白眼。
気の強そうな面構え。
昨日、広場の治療テントで暴れる大男を一切の躊躇なく制圧した、あの若い女だ。
彼女は配膳や衣服の配布といった作業には加わらず、バインダーのようなものを手に持ち、別の信者と何事か短い言葉を交わしている。
(……広場だけじゃなく、ここにも顔を出すのか)
片桐は昨日のことを思い出し、それ以上視線を送るのをやめた。
「……もう十分だ」
特に異変もなく、有坂の言うような「妙な光景」も発見できなかった。
これ以上観察を続ける理由もない。
片桐が腰を上げ、踵を返そうとした、その時だった。
倉庫の前にいた修道服の女性が、真っ直ぐにこちらへ向かって視線を向けているのに気づいた。
彼女は明らかに、片桐の存在に気づいている。
だが、自ら歩み寄ってくることはなかった。
片桐を見据えたまま、彼女は顎でわずかに、入り口の脇に立つ男たちへ合図を送った。
男たちの視線が、一斉にこちらへ向く。
彼女自身は興味を失ったように踵を返し、倉庫の奥へと姿を消した。
片桐は短く息を吐き、ゆっくりと腰を上げた。
炊き出しに群がる子供たちの前で面倒事を起こしたくはない。
片桐はやってくるであろう男たちを待つことはせず、あえて背を向けて歩き出す。
光の届かない、薄暗い路地を数十歩ほど進んだ時だった。
片桐の前方と背後を塞ぐように、不自然に重い足音が響いた。
すり切れた作業着を着た、体格の良い男が二人。
彼らの目つきは、炊き出しを行っている柔和な信者たちのそれとは決定的に違った。
暴力や脅しに慣れきった人間の、淀んだ空気を纏っている。
「おいアンタ。さっきから見てたが、なんか用か?」
前方に立った男が、凄むような低い声で吐き捨てた。
「来てもらおうか」
背後に回ったもう一人の男が、コート越しに片桐の肩を乱暴に掴む。
「……厄介な散歩になったな」
片桐は抵抗する素振りを見せず、ただ静かに男たちを見据えた。




